なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(62)

 しばらくこのブログに記事をアップできませんでした。神奈川教区で5月3日から6日めで福島の家族の

保養プログラム、リフレッシュ@かなががわを開催し、それに私も関わったこともあり、その他いろいろ

と取り組むべき課題が続いていたからです。少し前の説教ですがエレミヤ書による説教を掲載します。


     「怒りの鞭」エレミヤ書25章1-14節、2017年4月23日(日)船越教会礼拝説教

・2011年3月11日に東日本大震災が起こり、同時に東電福島第一原発事故が起こりました。この東

福島第一原発事故が起こってから、ずっと原発の危険性を研究者として訴えて来た当時京都大学の助

教授であった小出裕章さんは、「こんな事故が起きないことを願って生きてきましたが、残念ながら事

故を防ぐことができませんでした。原子力の場にいる人間の一人としてお詫びします。」と言われま

した。私はこの言葉を聞いたか、読んだかしたときに、原子力研究者の中にこんな人もいるのだと、驚

くと共に感動しました。

小出裕章さんは、長年研究者として原発の危険性を研究で示し、また語ってもきたのであります。その

ために大学教授職への昇進をあきらめたかも知れません。それにも拘わらず、現実には政府と研究者と電

力会社が一体となって、次々にこの狭い日本の各地に原発を建設し、稼働してきたのであります。小出さ

んがどんなに頑張って原発の危険性を主張しても、彼の言葉は聞かれませんでした。そしてついに彼が心

配していた原発事故が起こってしまったわけであります。東電福島第一原発事故が起こったことに対し

て、原発を反対してきた小出さんには、反対してきたわけでありますから、直接的な責任はありません。

しかし、彼は、残念ながら事故を防ぐことが出来なかったことを、原子力の場にいる人間の一人として詫

びたのであります。

・私は、原発事故を神の裁きとは思いませんが、その危険性があるにも拘わらず、原発を建設してきた

人々とそれを許してしまったすべての人の責任であることは間違いありません。ですから、原発事故が及

ぼす影響を、被災者だけではなく全ての人々が負っていかなければなりません。本来ならば原発建設を推

進した人々こそ最も責任が重いはずですから、そのような人々こそ原発事故を起こしてしまった責任を強

く自覚して、すべての原発を廃止し、事故によって被災した方々には補償を手厚くすべきだと思うのであ

ります。しかし、原発を推進してきた日本政府も電力会社の東電も、ある意味で被災者を見棄てる方向で

動いているのであります。

・わたし自身は、東電福島第一原発の事故が起こるまでは、何十年も前からすっと原発の危険性を認識し

て、その反対運動を続けて来られた方々のようには行動してきませんでしたので、その責任を強く思わさ

れてきています。いずれにしろ、私たち人間は自分たちが犯した過ちという行為の結果を背負わなければ

なりません。聖書ではそれを人間の罪に対する神の裁きと呼んでいるのではないかと思うのであります。

原発再稼働をはじめ、今後も原発に頼っていくならば、再び原発事故を起こしかねません。恐ろしいこと

です。同じことは、戦争のできる国造りに邁進している安倍政権のような政府が続くならば、かつてアジ

アの国々に対して侵略戦争をして、アジアの人々を始め2000万人の他国の人々を殺し、300万人の

日本人を死に至らしめた戦争を再び日本の国が行うことになります。これも恐ろしいことです。しかし、

その行為を留めることができなければ、戦争を食い止めることもできず、私たちは再び同じ過ちを繰り帰

すことになってしまいます。

・その意味で、ある意味では小出裕章さんは預言者エレミヤのような人だったのではないでしょうか。先

ほど司会者に読んでいただいたエレミヤ書25章2節から4節には、《預言者エレミヤは、ユダの民とエ

ルサレムの住民すべてに次のように語った。「ユダの王、アモンの子ヨシヤの第十三年から今日に至るま

で二十三年の間、主の言葉はわたしに臨み、わたしは倦むことなく語り聞かせたのに、お前たちは従わな

かった。主は僕である預言者たちを倦むことなく遣わしたのに、お前たちは耳を傾けず、従わなわなかっ

た・・・」》と記されています。

・「ユダの王、アモンの子ヨシヤの第十三年」とは、エレミヤが神の召命を受けて預言者として活動を始

めた年です(エレミヤ1:2)。それから23年間、エレミヤはユダの国とエルサレムに住む人びとに、神の

言葉として、このままいけば国が滅びるから、悔い改めて神に立ち帰れと語り続けてきたというのです。

また、神は自分だけではなく、他にも多くの預言者達を倦むことなく遣わして、自分と同じように悔い改

めて神に立ち帰れと語らせ続けてきたというのです。「彼らは言った。『立ち帰って、悪の道を捨てよ。

そうすれば、主はお前たちと先祖に与えられた地に、とこしえまで住むことができる・・・』」(5節)

とあり、預言者が語った言葉が記されています。

・ここでの「悪の道と悪事」を原発再稼働、軍備増強である沖縄の高江や辺野古新基地建設、岩国の米軍

基地拡張に、或はそもそも米軍基地や軍隊である自衛隊の存在そのものに置き換えて読むこともできるの

ではないでしょうか。原発再稼働や戦争を目的とする軍隊の存在は、突きつめていくと、この国を廃墟に

してしまうのではないかと。現代はその国だけでなく他国をも廃墟にする力を一国がもつ原発原子力

や軍隊は持っているのであります。それが他国による侵略に対して抑止力になると言って、原子力開発や

軍備の増強が行われているのであります。第一次、第二次世界大戦を経験した人類は、二度と再び同じ過

ちを繰り返してはならないのですが、現在の世界状況を見る限り、この同じ過ちを犯す危険性から、まだ

人類は解放されているとは思えません。ただ第三次世界大戦が起これば、原子力によってこの地球そのも

のが人間が生きることのできない世界になってしまうことを、それぞれの国の為政者たちも知っている筈

です。

預言者エレミヤは、神ヤハウエに従って、人が唯一の神に従って、その契約の民として誠実に、一人一

人に命を与えてこの世に生きることを許して下さった神を愛し、同じ神に造られた人間としてお互いに他

者である隣人の命と生活を奪うことなく共に生きて行くことができれば、人間はこの大地で豊かに生きる

ことができると信じていました。預言者たちが《・・・『立ち帰って、悪の道を捨てよ。そうすれば、主

はお前たちと先祖に与えられた地に、とこしえまで住むことができる。・・・』》と繰り返し語って来た

のは、エレミヤのそのような信仰を他の預言者たちも同じように共有していたからです。

・けれども、エレミヤはこのように語っています。《・・・他の神々に従って行くな。彼らに仕え、ひれ

伏してはならない。お前たちの手で造った物でわたしを怒らせるならば、わたしはお前たちに災いをくだ

す。しかし、お前たちはわたしに従わなかった、と主は言われる。お前たちは手で造った物をもって、わ

たしを怒らせ、災いを招いた。・・・》(6,7節)。このエレミヤの言葉を現代に当てはめると、戦争に

しても原発事故にしても、軍事力や原発は、人間が「自分の手で造った物」ではないでしょうか。資本と

いう経済力も政治を動かすことのできる権力も、みな人間が「自分の手で造った物」ではないでしょう

か。それらのものを神のように崇めて、すべての人に命を贈り物として与えてくださったイエスの神に逆

らって、自分を神にしている人間の営みの結果が、この大地の廃墟と滅びにつながってしまうのだと、エ

レミヤは語っているのではないでしょうか。

・《わたしは、そこから喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声、挽き臼の音、ともし火の光を絶えさ

せる》(10節)とありますが、ここに挙げられている一つ一つのことは、古代イスラエル人の当時の社会

では日常に与えられている神の恵みであったに違いありません。「自分で造った物」を拝み、神に逆らう

者にあっては、このような日常の恵みも必ず失われてしまうというのです。

・エレミヤの預言では、「自分の造った物」によって神に逆らうユダの国とエルサレムの人々に、神はバ

ビロニアのネブカドレツアルによって災いをもたらすと言っているのです。そして70年間イスラエル

人々はバビロニアに連れて行かれ、バビロニアの王に仕えると。さらにバビロニアもまた、「ユダに対す

る神の意志を実行するが、それを完了するときにはバビロン自身がその罪の裁きを受けるのである」とエ

レミヤ言っているのであります。《七十年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民、またカルデヤ

人の地をその罪のゆえに罰する、と主は言われる》(12節)と。

・これは歴史を長い目で見ますと、「自分の造った物」に頼るならば、ローマ帝国大英帝国の衰退が

あったように、このままいけば、アメリカや日本の衰退もあり得るということしょう。預言者はそれを、

「自分の造った物」に頼り、すべての人に命を与えて下さった神に逆らう者への神の審判と考えたので

しょう。

・さて、このエレミヤの預言でもう一つ注目したいことは、そのように神の言葉を取り次いだ預言者エレ

ミヤ自身は、彼もまた神に逆らったイスラエルの民が受けた災いを同じように受けているということで

す。エレミヤはエレミヤの受難からしても、イスラエルの人々から殺されそうになったことはあったよう

ですが、最後まで殺されずに生き延びました。しかし、バビロニアによる徹底的なエルサレムの破壊に

よって、第2回の捕囚後には、一部のイスラエルの民と一緒にエジプトに行って、そこで死んだと言われ

ています。神の言葉に仕えた預言者エレミヤもイスラエルの民が受けた神の裁きを共に受けざるを得な

かったのです。

・けれども、エレミヤの語った言葉(預言)は残りました。その預言と共に、エレミヤ自身もイスラエル

の民の破滅と捕囚を超えて、後の人々に大きな影響を与えることになりました。それはエレミヤが神の真

実を何よりも大切に生きたからではないでしょうか。そのような神の審判を語る預言者エレミヤの生きざ

まに注目したいと思います。