なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(32)「わたしが命のパンである」ヨハネ635-40

9月17(日)聖霊降臨節第17主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌    224(われらの神くすしき主よ)

 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-224.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編37編23-29節(讃美歌交読文40頁)

 

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書6章35-40節(新約175頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    72(まごころもて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-072.htm

⑨ 説  教   「わたしが命のパンである」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日の箇所の前提になっているのは、35節のイエスが自分自身について語られた言葉です。それは、「私が生命のパンである。私のもとに来る者は飢えることがなく、私を信じる者は常に渇くことがない」(田川訳)です。ヨハネ福音書のイエスは、イエスご自身が人間の魂のために定められた食物であることを、私たちが知るように望んでおられます。イエスのうちにこそ命があり、イエスは「生命のパン」であると言うのです。パンは人間であれば誰もが肉体の命を維持するために必要な食べ物です。パンがなければ、人間は肉体において生きていくことはできません。私たちの生涯において、私たちが神に命を与えられたまことの人間として、それにふさわしく生きていくにはイエスを必要としています。イエスは私たちにとって「生命のパン」と言われるのは、私たちが神から与えられた命をもって、一人の人間として生きていくためには、まことの人であるイエスが必要不可欠であるということです。

この35節に続く今日のヨハネ福音書6章36-40節の箇所は、G・Rオデイによれば、「イエスの許に来て信じることは何を意味するか」を詳しく述べられている、と言われています。

 

私たちはイエスを信じている者として、日曜ごとに礼拝にこのように集い、信仰者としての歩みを続けているのではないでしょうか。そのイエスを信じる信仰が何を意味するかを、私たちは夫々どれだけ深く自覚しているか分かりませんが、今日は、そのことをこの箇所から聞きたいと思います。

オデイは、ザビエル・レオン=デュフェールによれば、6章36-40節のこれら5節は 交差配列法というパターンによって記されていると言って、36節から40節をこのように見ています。

38節の「わたしは天から降って来た」という言葉を中心にして、その前後の文の内容が対称した形になっているのです。36節「見ているのに信じない」と40節「見て信じること」が、「信じない」と「信じる」という形で対称し、37節「自分のもとに来る人々をイエスは追い出さない」と39節「神がイエスに与えた人々をイエスは一人も失わない」とが、同趣旨の言葉ですが対称しているのです。それを交差配列法(ABCB’A’)と言い表しているのです。

この箇所には、内容的に三つのことが語られています。一つは、36節で、「見ても、信じない人」のことが語られています。二つ目は、38節でイエスが天から降って来た者として、イエスと神は一つであるということです。そのイエスが、37節と39節で、イエスのもとに来る人、すなわち神がイエスに与えた人々を、イエスは決して追い出さないし、一人も失わないと言うのです。三つ目は、40節で、「見て信じる」人のことが語られています。つまり、イエスという方がおられる所には、私たち人間はイエスを信じる者と信じない者とに分けられるということです。

 

36節「だが私はあなた達に言った、あなた達は私を見ることもした、そして信じてもいない、と」(田川訳)の「見ても信じない人」とは、ヨハネ福音書では具体的にはイエスの5000人の供食の奇跡に与かった群衆を指していると思われます。その群衆は否定的に評価されています。しるしを見せろという彼らの要求(「それであなたはどんな徴ができるのか。そうすれば我々が見て、あなたを信じることにしよう。どんな働きができるのか。」30節田川訳)は、彼らが見るには見るが、正しく見ることはせず、それ故、信じないことを示しています。ライルは、「人間の性質としての不信仰が、この節において、痛ましいくらい示されている。ある人々は、キリストが地上におられた時、キリスト御自身を見たり、キリストに聞いたりすることができたというのに、不信仰であり続けたのである。もちろん、今日も同じ不信仰に接している私たちとしては、驚くにはおよばない。人はその肉眼でキリストを実際に見たとしても、信じないこともあるのである」と言っています。

それに対して40節「私の父の意志とは、これである。すなわち御子を見て御子を信じる者はみな永遠の生命を持つ。そしてその者を私は終りの日に復活させるであろう」(田川訳)は、人が見て信じるときに得るもの――永遠の命と、終わりの日の復活――についての肯定的な言葉で締めくくり、〔36節と〕バランスをとっています。このヨハネ福音書6章40節は実現された終末論(「永遠の命」)と伝統的な終末待望「(終わりの日に)」という二つの要素を組み合わせています。何故なら、この福音書の終末論の中心にあるのは、イエスに対する信仰こそが信じる者の現在と未来を決定する要素であるという確信であるからです。イエスを信じる者は、今現在「永遠の生命」を持ち、終わりの日にはキリストと同じ栄光の姿に変えられて復活するだろうという確信です。別の言い方をすれば、イエスを信じる者は、今現在イエスが宣べ伝えた神の国の住人としてこの世に生きているが、終わりの日には神の国が完成し、我々も復活してその神の国の完成に与かるであろうという信仰です。

 

私たちは、そのような終末論的な信仰をなかなか持てないかもしれません。それは、今信仰者である私たちが生きているこの現実の世界では、イエスを信じる人は少数ですし、キリスト教徒と言われている人々も、例えばプーチンロシア正教の信仰者のように、彼ら・彼女らが本当にイエスのところに来て、見て信じている人だと言えるのだろうかと思ってしまうからです。信仰者と言えども、人間の現実を見る限り、神の国の完成と終わりの日の甦りという終末論的な信仰の確信を持てないでしょう。私たち信仰者が、終末論的な確信をもつことができるのは、人間の現実を見るからではなく、神を信じるからです。神は私たち人間を救うために、イエスを私たちの所に遣わしてくださると共に、そのイエスのもとにすべての人々を招き導いて、神の国を完成成就するに違いないという信仰です。

 

37節「父が私に与えるものはすべて、私のもとに来るであろう。そして私のもとに来る者を私は外に放り出すことはしない」(田川訳)と39節「私を遣わした方の意志とは、これである。すなわち、その方が私に与えるものはすべて、私がそこから失うことはなく、そのものを終りの日に復活させるであろう」(田川訳)は、神の意志と救いの目的は、人々を、イエスとイエスが与えるすべてのものへと連れて行くことであると宣言しているのです。これら二つの節は、3章27節でバプテスマのヨハネが、イエスのもとに来る人々は、神によってイエスに与えられていると言ったことを、再び取り上げて、その主題をさらに展開して、神から与えられた人々をイエス誰一人外に放り出したり、失ったりしないと付け加えているのです。37節と39節の「すべて」という語は、人類を救う神の意志はすべてを包み込むことを目指しており、特定の人々に向けられたものではない、ということを強調しています。神の救済意志には、終末論的次元が含まれます。何故なら、神がイエスにお与えになるすべての人に対するイエスの配慮は、「終わりの日の」復活(39節)にまで広がっているからです。この37節と39節は、神が主導して人々をイエスに与え、イエスは与えられた人々を最後まで導くということを語っているのです。私たちは、人間の現実にではなく、その人間の現実に働きかけていて下さる神とイエスがなさってくださるその御業に希望をもつことができるのです。

 

38節「私が天から下って来たのは、自分の意志を実行するためではなく、私を遣わした方の意志を実行するためだからである(田川訳)」。「私を遣わした方」とは、当然父なる神であり、神の御心は世を愛されたことであり、独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることであるから、37節「父が私に与えるものはすべて、私のもとに来るであろう。そして私のもとに来る者を私は外に放り出すことはしない(田川訳)」の理由として、そのことがここで再確認されているのです。また父なる神とイエスとの同一性、一致ということが触れられているとも言えます。イエスを信じる信仰は、この世に対する神の主導的な意志がなければ不可能です。しかし、神の働きかけに応答するか否かを決定する責任は、人間に課せられています。その決断は、見ているのに信じない(36節)か、見て信じる(40節)かという二者択一で表現されているのです。

この信じる者と信じない者を、キリスト教徒と非キリスト教徒というように考えると、聖書で語られている信じる者と信じない者の違いを読み間違ってしまうのではないかと思います。ヨハネ福音書では、信じる者とは、イエスのなさるしるしを見て、信じる人であり、信じない者とは、イエスのしるしを見ても信じない人のことです。

エスのしるしは、イエスの行なう奇跡ですが、5000人の供食にしても、病者の癒しにしても、そのしるしは、神がイエスを通してすべての人を救済すること、神に命与えられて生まれて者は、神に愛されている神の子どもであることを証しするものです。私たち人間である一人一人が、人間の子どもとして、神の子どもであることを全く見失って、自分が世界の中心であるかの如く生きている過ちを気づかせて、神の下へと立ち帰る奇跡が、イエスの行なっているしるしなのです。それを見て信じる者は、イエスに従って、自分も小さなイエスとして生きるようになるでしょう。イエスのしるしを見て、信じる者とは、そのような人のことです。ですから、洗礼を受けてキリスト教徒になったからと言って、即ヨハネ福音書の言う、イエスのしるしを見て、信じる者だとは言えません。キリスト教徒の中にも、勿論見て信じる人はいるでしょう。しかし非キリスト教徒の中にも、ヨハネ福音書が言う、見て、信じる人はいるかも知れません。

Nさんから7月にいただいたお手紙の中で、Nさんはこのように書いておられます。「中村哲さんと彼を支える人達もそうですが、皆イエスが送って下さる聖霊を良心で受け取っている人達だと思います。…あちこちにイエスと結ばれている人が生まれていて、時代の急速な変化を感じます。/やはりローマ帝国の権力が関わって作られたキリスト教はずっと戦争や植民地時代、ヒットラー、トランプ、プーチン他々から離れられず、イエス聖霊とは違うと思います」と。なかなか厳しい既成教会とキリスト者への批判ですが、Nさんがこのように言われるのを、私は否定できません。私たちは、イエスの送ってくださる聖霊によって、イエスのしるしを見て、信じる者として、キリスト教徒ではなくても、平和をつくり出すためや自然の生態系や一人一人の人間の人権が守られるために活動している良心的な方々と共に、その働きを担っていきたいと思います。

現実がどんなに絶望的に見えたとしても、神のイニシアティブによってイエスに与えられる人々は後を絶つことはありません。神がイエスを通してはじめられた人間の救いの御業は、必ずや完成するに違いありません。その信仰を失うことなく、「イエスが送ってくださる聖霊」によって、私たちも生きていきたいと思います。

主がそのように私たち一人一人を導いてくださいますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、台風や地震による災害が世界の各地に起こっていて、多くの人々が命を失い、被災の中で苦しんでいます。どうか災害で苦しんでいる人々を支えて下さい。また、適切な援助が速やかに与えられますようにお導きください。
  • 軍事力によらない、話し合いによる相互理解が世界に広がり、戦争がなくなりますように。
  • 神さま、過剰な資本の力によって人間同士が、夫婦、親子の間ですら分断され、お互いに支え合い、助け合うのではなく、互いに抑圧的な関係になって争い合う事例が多くなっているかに思われます。どうか私たちを資本や権力に仕えるのではなく、あなたに仕える者にしてください。
  • 様々な苦しみの中にある方々を助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩    419(さあ、共に生きよう)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-419.htm

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。