なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(10)「人の心を知る方」ヨハネ2:23-25

3月12(日)受難節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                          (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌   358(小羊をほめたたえよ!)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-358.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編107編1-9節(讃美歌交読文119頁)

         (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書2:2章23-25節(新約166頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   299(うつりゆく世にも)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-299.htm

⑨ 説  教  「人の心を知る方」           北村慈郎牧師

  祈  祷

 

今日のヨハネ福音書の箇所は、2章の神殿の物語から3章のニコデモの物語への橋渡しとなっている繋ぎの部分と言えます。この部分において、ヨハネ福音書の著者はイエスに対する人々の反応と、人びとに対するイエスの反応とを対比させて記しています。この対比によって、読者はイエスの目を通してエルサレムの人びとを見ることができるようになっています。

 

そこに記されたことを要約しますと、<エルサレムの人々は、イエスの奇跡を見て信じた。しかし、イエスは彼らを信用されなかった。それは、彼が人々の心を知っておられたからだ>ということになります。この「イエスのしるしである奇跡を見て信じた」の「信じた」と、「しかし、イエスは彼らを信用されなかった」の「信用されなかった」は、原語では「信じる」という同じギリシャ語の動詞(ピステウオー)が使われています。同じ動詞が使われていることによって、ヨハネ福音書の著者はその対比を際立たせようとしているのではないかと思います。

田川さんは、「しかし、イエスは彼らを信用されなかった」を「だがイエスの方は彼らを信用して自分をまかせることをしなかった」と訳しています。

 

ヨハネ福音書の著者がイエスのなした奇跡をどのように評価しているかが、この文に鮮明に現れています。著者は、イエスが神の子である以上、「しるし」つまり超自然的な奇跡をなす力があるのは当然であると思っているのです。その力は、ほとんど不可避的にイエスによって発揮されます。けれども、そういう「しるし」を見てびっくりして、イエスを特別な存在として「信じて」みたところで、そんなことは真の認識に通じるものではない、とこの著者は思っているのです。エルサレムの宗教支配当局の者たちでさえ、神的に特別な存在である者ならば「しるし」を見せることができるはずだ、と思っています。従って本当は「しるし」なぞどうでもいいことであって、奇跡を見た程度で「イエスの名を信じる」ような「多くの者」たちを信用するわけにはいかない、というのです(田川)。

 

エスが拒否される信仰についてシュラッターはこのように言っています。<その信仰は、ただイエスのしるしに重きが置かれ、イエス御自身ではなく、イエス御自身に見られる神の力にのみ重きが置かれていた。したがって、そのような信仰は、イエスに、何か奇跡以外のものを見なくてはならなくなると、必ずすぐに駄目になってしまった。このような信仰では、人格の内奥にあるものが依然として閉ざされたままであった。このような「信仰者」が、いかほど生き生きと、イエスの行為に驚いたとしても、いかほど感謝をもって、その御業をほめたたえたとしても、それによって、まだイエスを理解したことにはならない。彼らのまなざしは、まだ、イエスが仕えた恵みへと向けられてはいなかった。そこには、まだイエスに導かれた、イエスへの服従は存在しなかった。このような信仰者から、イエスは依然として遠くにとどまっておられた」と。

 

ここでは、しるしであるイエスの奇跡を見て信じるような「多くの者」たちを信用するわけにはいかないと言われているのですが、では私たちキリスト者はイエスから信用されるに値する者でしょうか。自らを振り返ってみると、私たち自身もここでイエスによって信用されていない、しるしを見て信じている人たちと変わらないのではないでしょうか。

 

この個所を、聖書の中のもっと恐るべき一節だと、言っている人がいるそうです。確かにそうかも知れません。わたしたちは、人の心を見通されるイエス目の前に立って、粛然として襟を正さざるをえません。

 

つまり、イエスは、人間がどれだけ罪深いものであるか~《言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった》(1:10、11)~をよく知っておられたということです。
 

このイエスの眼差しは、しるしを見て信じた人々だけでなく、私たちキリスト者にも向けられているのではないでしょうか。私たちは自分の信仰がこのイエスの眼差しに耐えうると言えるでしょうか。自分の信仰は本物だと自信を持って言うことができるでしょうか。今はキリスト者であるからと言って、人々からも国からも迫害を受けることはありません。けれども、かつての戦時下の教会のように、戦争協力を強いられるようになったら、それでも私たちはキリスト者として平和を大切にし、戦争協力を断固拒否することができるでしょうか。戦時下のほとんどの教会やキリスト者のように、私たちもこの世と妥協して戦争協力をしてしまうのではないでしょうか。

 

私たちは「ウクライナに平和を!」のスタンディングを月一回、京急田浦駅前で行っています。私はこのスタンディングをしながら、今はまだそれが許される社会でありがたいと思っています。けれども、こういう行為さえ許されない抑圧的な社会になったらと考えると、不安になってしまいます。そういう意味でも、自分の信仰が本物であるかと問われれば、本物ですとは言えないものを自分の中に抱えているように思っています。

 

自分の信仰は本物と言えるだろうか、自分はイエスを本当に信じているのだろうか、最後までその信仰を失わずに保ち続けることができるのだろうか、そのように考え始めると、誰もが不安になるのではないでしょうか。自分の信仰は本物だ、と自信をもって言える人など一人もいないのではないでしょうか。その意味で、私たちもイエスに信用してもらえない者だと言わざるを得ません。神を信じると言っても、それは神が自分を苦しみや悲しみから救い、助けてくれることを求めるだけであって、それが得られないと感じたら、神を信じる心もたちまち失われていってしまうのではないでしょうか。つまり私たちの信仰は本物ではない、最後までイエスを信じ切ることのできない、すぐに離れ去ってしまうような底の浅い、薄っぺらな信仰でしかないのです。イエスはそのことをよくご存知なのです。イエスは、私たち一人ひとりの心の中に何があるのかをよく知っておられるのです。そのイエスの眼差しから、私たちは自分の本当の姿、本当の思いを隠すことはできません。

 

ヨハネ福音書の著者は、そのことをよく知った上で、罪と弱さを抱えている肉である私たち人間と同じ姿をとってイエスがこの世に来られたと告げているのです。「ロゴス(言)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1:14)と。

 

洗礼者ヨハネは、そのイエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊」だと証言しました(1:29)。イエスは私たちが的を外してしまっている罪人であることをはっきりと知っておられるからこそ、私たちから罪を取り除くこともおできになるのです。そのためにイエスは、十字架の死へと向かう生涯を歩まれました。イエスは私たちの全ての罪をご自分の身に背負って、身代わりとして死んで下さることによって、罪に支配されている私たちを解き放ち、私たちが罪を赦されて神の子として生きるための道を拓いて下さったのです。罪に支配されてしまっている私たちには、その罪から解放する力は何もありません。イエスはそのことをよく知っておられるので、独りで、私たちが罪から解き放たれるために必要な全てのことを成し遂げて下さったのです。それがイエスの十字架と復活の出来事なのです。弟子たちの中心だったペトロでさえ、三度主イエスを「知らない」と言いました。そのような弟子たちの裏切りと否認の中で、イエスは独りで、十字架の死への道を歩み通されたのです。

 

けれどもイエスの復活の後には、イエスと弟子たちの関係は全く新しくなります。20章19節以下の、復活したイエスが弟子たちの前に現れた場面を読んでみたいと思います。イエスはご自分が確かに肉体をもって復活したことを弟子たちに示され、そして弟子たちにこう言われました。21節以下です。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。神が独り子イエスを私たちの所にお遣わしになったように、私もあなたがたをこの世の人々の中に遣わす、と復活したイエスは弟子たちに言っているのです。神が独り子イエスを信頼して、私たち罪人に対するその解放の業を託されたように、今や復活のイエスが、弟子たちを信頼して、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言うのです。

 

エスは、十字架にかかり、三日目に復活し、弟子たちに会ってから、天に昇って神の右に座られ、神と子であるイエスからこの地上に生きている人に送ってくださる聖霊によって今も私たちを導いてくださっていると言われます。これが信条に言い表されている教会の信仰です。

 

ということは、復活したイエスが弟子たちを信頼して、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言われたということは、イエスに代わってイエスの業を弟子たちに受け継がせたことを意味すると言えるでしょう。それは弟子たちが信頼されるに足る力のある者になったということではなくて、イエスが十字架と復活によって成し遂げて下さった救いが私たちに与えられた、ということです。そのことは聖霊の働きによって実現します。イエスが弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言って下さり、聖霊に満たされて新しく生きる者として下さるのです。弟子たちは、そのことを信頼して歩みを起こせばいいのです。自分の力でイエスから託された業はできません。霊なる神の命の力に信頼して歩みを起こすのです。私たちイエスの群れとしての教会に連なる者は、この復活のイエスが弟子たちに託した業を、今に継承して生きる者ではないでしょうか。

 

神の独り子なるイエスは私たちの全てを知っておられ、心の中にある罪と弱さまでもよく知っておられます。そのイエスが罪と死からの解放者としてこの世に来て下さり、十字架の死と復活への道を独りで歩み通して下さいました。そのようにして実現した罪と死からの解放の救いに、私たちは聖霊を受けることによって与かり、イエスと結び合わされて新しく生きる者とされているのです。イエスは、イエスを信頼して歩みを起こす私たちを信頼して、罪の赦しの福音を託してくださっているのです。その期待に応えて、福音の前身のためにすこしでも働くことができれば幸いです。

 

主がその道に私たちを押し出してくださいますように。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝ができ、その礼拝に与かることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、昨日は東日本大震災から12年に当たりました。沢山の方々が命を落とし、また東電福島第一原発事故によって、沢山の方々が住み慣れた所を離れて避難生活をし、今もその生活が続いている人も多くいます。12年たって、ウクライナでの戦争も起こり、政府は原発の再起動や新しい原発の開発にシフトを変えています。あれだけの悲惨な現実を原発事故で起こしたにもかかわらずです。
  • 神さま、どうか人も自然も平和に生きていける世界に私たちを導いてください。
  • 今は受難節です。どうかイエスの生涯と十字架の死と復活によって、私たちにもたらされている愛と平和がすべての人に及びますように。
  • さまざまな苦しみの中にある人びとに、その苦しみからの解放が当てられますように。。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

⑩     513(主は命を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-513.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。