なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(108)

1月17(日)降誕節第四主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。            (ヨハネ3:16)

③ 讃美歌    7(ほめたたえよ、力強き主を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-007.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編40編6-12節(讃美歌交読詩編44頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   マタイによる福音書26章26-35節(新約53頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  419(さあ、共に生きよう)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-419.htm

 

説教 「最後の晩餐」  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 今日は、私たちのような不完全で、弱さをもち、過ちも犯してしまう人間でも、真実=まことをめざして、絶望せずに、希望をもって生きていくことができるのは、何ゆえであるのかを、マタイの「最後の晩餐」の記事から聞いてみたいと思います。

 

  • 今日の聖書箇所であるマタイによる福音書の最初のところに、「一同が食事をしているとき」とあります。この同じ言葉が21節にもありました。21節は「一同が食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたの内の一人がわたしを裏切ろうとしている』」とあります。ここでは弟子の一人イスカリオテのユダの裏切りを、イエスは、はっきり意識していたことが分かります。

 

  • また、30節以下では、食事が終わって、「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」とあり、「そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたはみなわたしにつまずく。」とあります。ここでは、最後の晩餐の後、イエスは弟子たちがみな自分に躓くことを予告しているのです。ということは、イエスはそういう弟子たちの弱さをよく知っていたということです。

 

  • イスカリオテのユダの裏切りと弟子たちのつまずきを、よく分かっているイエスが、この食事である「最後の晩餐」の中でマルコによる福音書に従いつついわゆる聖餐式に類することを行ったというのです。そのことが26節から29節に記されています。

 

  • もう一度読んでみます。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」

 

  • 実際にイエスが最後の晩餐と言われる過越しの食事の席で、このような聖餐式を思わせる行為をしたのかどうかは分かりません。荒井献さんは、『イエス・キリスト』の中で、「この記事は明らかに、教団の祭儀を『生活の座』とした、ユダヤ教過越祭のキリスト教化である」と言っています。つまり、最初期の教会で既に行われていた祭儀としての聖餐式に合わせて、ユダヤ教の過越祭の食事を描いたというのです。従って、この最後の晩餐の聖餐式を思わせるイエスの行為には、後の教会の解釈が入っていると言うのです。イエスの死後、イエスの復活の出来事を通して誕生した後の教会が、聖餐式を行うようになっていったのですが、その自分たちが行っている聖餐式は、イエスと弟子たちとの最後の晩餐に起源があることを、このマタイ福音書の最後の晩餐の記事によって示そうとしたということでしょう。

 

  • 私も、実際そのようにしてこのマタイによる福音書の最後の晩餐の記事が出来たと思います。しかし同時に、この最後の晩餐の記事には生前のイエスの生き様が反映されているのではないかと思うのです。

 

  • キリスト教名画の楽しみ方『最後の晩餐』」という本があります。最後の晩餐を主題とした作品は、膨大な数にのぼると言われていますが、この本の著者は、「美術館に展示されているものは、そのほんの一部で、教会堂や修道院、特にその中にある聖職者たちの食堂には必ずと言っていいほど『最後の晩餐』の絵が壁にかかっている。制作者たちは、この主題が内に秘めるドラマに制作意欲をかきたてられてきたが、それは、イエスの愛する弟子の一人が師を裏切るという、余りにも人間的なおぞましいエネルギーと、それを契機に人類の罪を贖い救おうとする、英雄的な神的エネルギーとが真っ向から対決する場面であって、それだけに人物の表情、姿勢、所作等を色々描き分けることができるからであろう」と解説しています。

 

  • この本の著者は、最後の晩餐は、「イエスの愛する弟子の一人が師を裏切るという、余りにも人間的なおぞましいエネルギー」とそのような人間の中にある闇とは対照的なイエスご自身の光であります、「それを契機に人類の罪を贖い救おうとする、英雄的な神的エネルギーとが真っ向から対決する場面である」と言っているのです。

 

  • このことは、今日のマタイによる福音書の最後の晩餐の記事の中からも言えるのではと思います。

 

  • イスカリオテのユダの裏切りと弟子たちみんなのつまずき」を指摘するこの場面のイエスは、イエスを逮捕・審問・十字架刑にという権力者を中心とした圧力を感じるだけでなく、身近な弟子たちの裏切りとつまずき(イエスの否認と逃亡)に直面していたのです。

 

  • そのような最後の晩餐の場面で、このマタイによる福音書の記事では、イエスはパンを裂き、これはわたしの体であると言って、弟子たちに裂かれたパンを与えます。また、これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血であると言って、皆、この杯から飲みなさいと、一つの杯からぶどう酒を飲ませます。パンであるイエスの体、ぶどう酒であるイエスの血という【イエスの命】そのものが無条件に弟子たちに与えられているのです。その弟子たちの一人はイエスを裏切り、弟子たち皆がイエスを否認したり逃げ出したりしてつまずくことを知りながら、イエスは自分自身を弟子たちに与えているのです。

 

  • エスは、自分の死である十字架の時が近づいていることを身に感じながら、最後の晩餐である弟子たちと味わう過越祭の食事で、何らかの形で、あなたたちは私を裏切り、否認し、逃亡して、私から去っていくであろう。しかし、私はそういうあなたたちをどこまでも見捨てない。私は殺されるだろう。けれども、その私の死によっても、あなたたちと私との絆は断ち切られることはないであろう。それほど神がわたしに与えてくださった命は絶対的なのだと。最後の晩餐の席でイエスは、そのようなことを言葉や態度で弟子たちに示したのです。

 

  • このイエスから無条件に与えられた命の確かさによって、無残にもイエスにつまずいて、イエスを否定したり、逃げ出した弟子たちが、イエスの死後立ち直って、またイエスの弟子として再出発することができたのではないでしょうか。

 

  • イスカリオテのユダだけは、自分の裏切りを苦に自死してしまいます。イスカリオテのユダは自らの裏切りでこころが一杯になり、そういう自分をも受け容れてくださっているイエスの命の確かさが見えず、自分で自分の命を絶ってしまったのです。どんなにイエスが外から扉をたたき続けても、自分で自分の扉を固く閉ざして自分の裏切りを苦に、自分で命を絶ってしまったイスカリオテのユダを、イエスは助けることはできませんでした。それでも、そのようなユダをイエスは受け入れておられると、私は信じます。

 

  • マタイによる福音書の26章29節に、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことはあるまい」とあります。この言葉は終末における神の国の祝宴を暗示していますが、その祝宴にはイスカリオテのユダも他の弟子たちと共に与ると、私は思います。

 

  • さて、先ほど紹介しました『キリスト教名画の楽しみ方、最後の晩餐』には、一番古いのは5-6世紀に書かれたものから、一番新しいのは1942年に書かれたものまで、年代順に14の最後の晩餐の絵が収録されています。もちろんその中には、レオナルド・ダヴィンチの最後の晩餐も含まれています。ご存知のように、レオナルド・ダヴィンチの最後の晩餐は、イエスを中心に、左右に3人一組ずつ、十二人の弟子たちが描かれています。一人一人の弟子たちの表情を見ますと、それぞれの人物の心理が徹底的に描き出されています。その弟子たちの表情とは対照的にイエスの顔は穏やかなに絵が描かれていますが、全体として一人一人の弟子たちの姿が強く印象に残ります。

 

  • この本の中には15世紀、作者不詳の最後の晩餐の絵があります。この最後の晩餐の絵からは、レオナルド・ダヴィンチの最後の晩餐の絵から感じられる緊張感はなく、全体が穏やかな雰囲気です。この本の著者はこのように解説しています。「ユダの姿勢や衣服の色が、イエスの膝に寄りかかっているヨハネのそれと全く同じであるのは、ユダに対するイエスの赦しを暗示するものであろうし、鉢に手を入れる弟子がユダの右隣にもいることで、ユダが際立つことが抑えられているなど、裏切りそれ自体が動じないイエスの福音に包み込まれ、永遠性の中に弱体化する。・・・・弟子たちの表情も柔和この上もない。中でも注目に価するのは遠近法が完全に無視されていることで、そのことの中に、時空が消滅し、永遠の相の中に神の愛がすべてに打ち勝つのだという確信が感じ取られる。このように、一見稚拙とも思えるこの作品が控え目にも提示しているのは、見えるものの写実ではなく、見えないものの真実なのである」。

 

  • 私は、今日のマタイによる福音書の最後の晩餐の記事に、この最後の晩餐の絵を解説する著者の語る「裏切りそれ自体が動じないイエスの福音に包み込まれ、永遠性の中に弱体化する」とか、「時空が消滅し、永遠の相の中に神の愛がすべてに打ち勝つのだとう確信が感じ取られる」と同じものを読み取るものです。 

 

  • もしそうだとするならば、私たちは自分自身の罪に絶望する必要はないし、絶望してはならなりません。私たちは自分自身だけで生きているのではないからです。

 

  • もし自分だけで生きているとすれば、自分の犯した過ちや罪の深さに打ちのめされて、そこから立ち上がることができないでしょう。あるいは、そのような自分の中にあるやみに居直り、人間とは過ちを犯し、罪を犯すものだ。それが人間だ、それなのに、いちいち自分の犯した過ちや罪を気にしていたら、何もできない。そのように開き直って生きていくしか仕方ありません。イスカリオテのユダがイエスを裏切って自死したのは、ユダ自身が自分のしたことに恐れを憶えて、自らの命を絶たざるをえなかったのでしょう。その意味では、ユダは自分に対して誠実な人間だったのかも知れません。

 

  • しかし、関係を断ち切って、自分の殻に閉じこもってしまったという点では、ユダは決定的な過ちを犯したがゆえに、自死への道しか選べなかったのではないでしょうか。

 

  • こごえた体も、太陽のぬくもりに全身を委ねることによって、段々と暖かくなってくることを、私たちは知っています。イエスを否認したペトロをはじめ、逃げ出した他の弟子たちは、自ら犯した過ちそれ自体が「動じないイエスの福音に包み込まれ、永遠性の中に弱体化する」のを、ここえた体がぬくもってくるように体験したのです。

 

  • もしこのことが真実ならば、私たちは、イスカリオテのユダのように自らの裏切りに耐えかねて自死の道を選ぶ必要はありません。また、しょせん人間は弱く罪深い者よと居直って生きる必要もありません。私たちの弱さや過ちそれ自体が、そのようなことに動じないイエスの福音に包まれて、神の愛の中で弱体化し、逆に「自分の十字架を背負って、イエスに従って生きる」新し自分が、私たちの中に現れてくるに違いないからです。

 

  • その信仰を与えられているがゆえに、私たちは、現実の厳しさと弱さや罪深さを自らの内に抱えながらも、絶望することなく、希望をもって生きることができるのではないでしょうか。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイリス感染拡大が止まりません。そのために、教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 神さま、イエスは十字架にかかる前の過ぎ越しの祭りの時に、弟子たちと食事を共にし、その中で、「これはわたしのからだ」「これはわたしの血である」と言って、パンとぶどう酒を弟子たちに与えました。弟子たちは、イエスから与えられたパンを食べ、杯からぶどう酒を飲みました。その弟子たちは、イエスを裏切り、否み、逃げ出して、イエスに躓いてしまった者たちです。
  • この最後の晩餐の場面には、イエスと弟子たちとの関係のありようが見事に示されていると思われます。神さま、あなたはイエスを通して、あなたが私たちに注いでいる命が、私たちの弱さや罪深さに優さり、私たちの弱さや罪深さを弱体化し、私たちをあなたの命によって生きる者へ変える力があることを告げています。
  • 神さま、そのことを私たちが悟ることを得させてください。そしてあなたが私たちに与えてくださっているその命によって生きる者へと、私たちをお導き下さい。そのようにして私たち一人一人が「世の光・地の塩」として、あなたの命の輝きを証言することができますように。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    76(今こそ歌いて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-076.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

これで礼拝は終わります。