なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(106)

1月3(日)降誕節第二主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。            (ヨハネ3:16)

③ 讃美歌   18(心を高くあげよ!)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-018.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編70編2-6節(讃美歌交読詩編75頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   マタイによる福音書26章1-13節(新約51頁)

      (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  431(喜ばしい声ひびかせ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-431.htm

 

説教 「受難の始まり」  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 今日は、新しい年の最初の礼拝になります。新型コロナウイリス感染拡大がなかなかおさまらず、そのような中で、新しい年、2021年の船出になりました。今年も聖書からメッセージを与えられながら、どのような状況の中でも、主イエスに従って、信仰をもって一歩一歩、歩んでいきたいと願います。

 

  • さて、マタイによる福音書では、26章からイエスの受難の記事になります。

 

  • 26章1節、2節に「イエスがこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。『あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される』」と記されています。

 

  • これ以前にも、イエスは三度「受難と復活の予告」をしています(マタイでは、16:21,17:22、20:18,19)。その予告が、いよいよ現実になる時が来たというのです。

 

  • 一方「そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、『民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた」(3-5節)というのであります。

 

  • このように、イエス自身が弟子たちに「受難予告」をしているだけでなく、イエスを捕えようとして、「祭司長たちや民の長老たち」が計略を練って、イエスを捕まえて、殺そうと相談したというのです。

 

  • このことは、いよいよイエスの受難と十字架が迫ってきたことを示しています。このイエス受難の出来事の最初に、マタイ福音書では、イエスに「香油を注いだ女」(26:1-13)と「裏切り者であるイスカリオテのユダ」(26:14-25)を登場させています。

 

  • エスは、「香油を注いだ女」に対しては、「わたしに良いことをしてくれた」(26:10)と言い、イエスを裏切った「イスカリオテのユダ」に対しては、「生まれなかった方が、その者のためによかった」(26:24)と言っています。「香油を注いだ女」と「イスカリオテのユダ」は、対照的な存在として見られているのです。

 

  • 「香油を(イエスに)注いだ女」は、最後までイエスを心配して見守る女たちの存在を代表していると思われます。それに対して、「イスカリオテのユダ」は、イエスの受難と十字架において、イエスを否認し、裏切り、逃亡した男弟子たちを代表していると思われます。

 

  • このイエスの受難における両者の違いは、何からきているのでしょうか。イエスと女たちと、イエスと男弟子たちとの関係の質の違いなのでしょうか。

 

  • エスと女たちとの間には、親和力の強い、相手の人を何よりも大切に思う尊厳感情のようなものがあったのではないでしょうか。お互いをかけがえのない存在として大切にする、個と個が何物によっても隔てられない、愛し合う人格的な関係と言いましょうか。けれども、イエスと男弟子たちとの間には、イエスの方というよりも弟子たちの方に、そういうものはほとんどなくて、イエスの招きに応えて、イエスの運動に参加しているということで、弟子たちはイエスと繋がっていたのではないでしょうか。

 

  • 女性たちの親和力によるイエスとの人格的な関係に対して、弟子たちは運動を介したイエスとの関係であった、と言えるのではないでしょうか。

 

  • たとえば、60年代後半から70年にかけての学生運動セクトのなかにもあったといわれますが、革命のためであれば、結婚ということはその手段に使って少しもかまわないという考え方です。高価な香油をイエスに注いだ女の行為を批判し、「なぜ無駄使いするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」(8,9節)と言った弟子たちの考え方は、個と個の人格的な関係よりも、香油を売って、その施しによって貧しい人がより多く助かるという社会的な運動を優位に考えているという点で、これに近いと思われます。

 

  • 滝沢克己は、この女の行為を受け入れたイエスについて、このように語っています。イエスは、「こういう、人間の生活の一番、底からあふれてくるものを、それとして感謝して喜んで受けるということができた人だ」と言っています。

 

  • もちろん、貧しい人に施すということが大事でないということではありません。貧しい人に施すということは、それにふさわしい時に行なわれるとか、あるいは全く行なわれないといったものではなく、継続的な責任・義務であるということです。「貧しい人はいつもあなたがたと一緒にいる」(26:11)からです。

 

  • しかし、「わたしはいつも一緒にいるわけではない」(26:11)。香油をイエスに注いだ女は、この機会を逸したら、もうイエスへの自分の思いを表すことができないかもしれないという、やむにやまれない思いで、イエスに香油を注いだのでしょう。

 

  • この女の方には、自分の油注ぎがイエスの葬りの準備になるというような、はっきりとした動機があったわけではないでしょう。ちょうど「善きサマリア人」が、普段は敵対的なユダヤ人の旅人が強盗に襲われて傷ついて倒れていたのを見て、助けてあげたいとの一心で、その傷ついた旅人の応急処置をして、宿屋に連れていき介抱した行動に近いのではないでしょうか。サマリア人は「翌日、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』と。そしてまた旅を続けていくのです(ルカ10:25-37)。

 

  • この女の行為を批判した弟子たちに対して、イエスはこの女の行為について、「わたしを葬る準備をしてくれた」と言って弁護しています。

 

  • これは、当時のユダヤ社会では、施しはいつも奨励されていましたが、特に過越しの週の間には貧しい者への施しが強調されていたと言われます。そしてユダヤ教の教師であるラビたちの間では、貧しい者への施しと死者を葬ることと、二つの「良いわざ」について、どちらがより重要であるかというような議論が行われていて、死者への葬りの方が優先順位としては高いとされていたそうです。葬りは、施しのようにいつでも出来るというのではなく、必要とされる時だけしか出来ないからであり、お金のような贈り物ではなく、人格的な奉仕に関わるものだったからです。

 

  • そういう背景の中で、イエスはこの女の行為を「わたしの葬りの準備をしてくれた」と言って弁護したわけです。

 

  • 13節の「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」は、イエスの言葉というよりは、後の教会の言葉でしょう。

 

  • このような言葉が言い伝えられてきたということは、後の教会の人々が、イエスの福音とこの女の行為には、響き合うもの、共鳴するものがあると思ったからでしょう。イエスの福音とこの女の行為が、どのように共鳴し合っていると考えたのでしょうか。

 

  • 先ほどイエス時代のユダヤ教のラビの中では、施しよりも葬りの方が、人間のなすべきこととしては優先順位が高いと考えられていた、と言いました。その理由として、人の葬りは、「施しのようにいつでも出来るというのではなく、必要とされる時だけしか出来ない」こと、また、「お金のような贈り物ではなく、人格的な奉仕に関わるもの」だからだということでした。

 

  • エスの福音は、イエスに出会った人が、イエスはご自分の命を与えるほどに、取るに足りないこのような私のような者を、何物にも代えられない、かけがえのない者として大切にして下さっていると感じる、喜びのおとずれではないでしょうか。何か物を贈られて、物質的な満足感を得たということではありません。自分のような者でも、イエスの仲間の一人として生きていけるのだ、という心からの喜びです。そういう意味で、イエスの福音は人格的な出来事であります。

 

  • エスの受難が迫って来て、そのイエスに出会ってこの女の人は、今自分にできる精一杯のことをすることによって、イエスに仕えたいという、やむにやまれない思いから、持っていた自分の宝物であって香油をイエスに注いだではないでしょうか。ですから、この女の香油注ぎも、人格的な出来事の一つと言えるのではないでしょうか。

 

  • そういう意味で、イエスの福音とこの女の行為は、他者の尊厳を大切にして、互いに仕え合い、愛し合う人格的な出来事ということにおいて通底していると言えるのではないでしょうか。

 

  • この女の油注ぎは、イエスによって「葬りの準備」と言われていますが、その女の行為が単純な愛の行為であるとすれば、イエスの十字架は、イエスの単純な愛の行為に対する権力とそれに同調した人々による否定を意味するではないでしょうか。

 

  • この女の行為に憤慨した弟子たち(26:8)は、そのことによって、イエスを十字架にかけた権力とそれに同調した人々に属してしまったのでしょう。

 

  • 私たちは、生活を維持するためにお金や物を必要とします。しかし、人間が人間らしく生きる生命力は、お金や物からは生まれません。滝沢克己の言葉を借りれば、「人間の生活の一番、底からあふれてくるもの」によってです。吉本隆明によれば、「自由な意志力」と言えるでしょう。

 

  • 戦中派の吉本は、自分自身の経験からこのように語っています。「わたしは工科の学生で学業半分、あとの半分は工場動員、農村手伝い、川原の石運び、田んぼの暗渠排水工事、そのほか勤労奉仕と呼ばれる無償の奉仕に動員されていた。お国のため、社会公共のためというのが政府筋から流れてくる第一義の課題だった。わたしたち個人個人は真剣だったが、疲れて作業したくないときも怠けて遊びたいときも家郷に帰りたいときもある。わたしたちのうちの誰かはいつも作業に精を出さないで、いい加減で、他のみんなが作業に出かけたときも誰かは遊びに出かけていた、などとはじめはいわゆる公共心と個人の都合のはざまで非難のし合い、相互不信の諍(イサカ)いが絶えなかった。/しかし最後に到達したのは、他人でも自分でも、怠けたいとき、体を動かして奉仕する作業をやりたくないとき、遊びたいとき、非難も弁解もせずにそれを許容し、その欠落は黙って他人の分までやってしますこと。自分が怠けたり作業を休んで家郷に帰っても他の者が黙って自分の分までやり、非難がましい言動は一切しないこと。そのような相互理解と個人の本音の怠惰を赦す暗黙の了解が学生どうしのあいだで成立したとき、わたしたちは公共奉仕を無理解、無体に強制する軍国主義のやり方を超えたとおもった」と(『中学生のための社会科』より)。

 

  • これを、吉本は、「つまらない優劣も差別もないし、不信のあげくの相互非難もない。『自由な意志力』を発揮し合った者どうしのあいだに成立している集団性なのだ」(同上)と言っているのです。

 

  • 吉本は、人間力として「自由な意志力」と言っていますが、吉本の言う「自由な意志力による集団性」は、吉本には怒られるかもしれませんが、私には、聖書のイエスがめさした人格的な愛の共同による神の国の人間関係に通底していると思えるのです。

 

  • 香油を注いだ女の行為を受け入れたイエスの真意をくみとり、生活のための手段や道具を奪い合う競争に巻き込まれて、人間本来の人間らしさを失いかけている私たちですが、本来の自分の姿を取り戻していくことができますように。

 

  • 2021年の新しい一年の歩み出しに当たって、そのことを心に深く受けとめたいと思います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイリス感染再拡大のために、教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 今日は2021年の最初の日曜日です。首都圏では新型コロナウイリス感染拡大が止まらず、不安と恐れを抱えながら、私たちは新しい年を歩み始めています。直接的なコロナウイリスの罹患や医療現場の逼迫だけでなく、経済的な不安を抱えている人々もたくさんおられます。また、すでに職を失い、生活の困窮に追い詰められている人も多く出ています。この厳しい現実に対処する力を私たちに与えてください。同時に、政府と自治体が一体となって新型コロナウイリス感染拡大を抑えて、平常の生活を取り戻すように、その力を発揮することができますようにお導き下さい。
  • 神さま、私たちの中にあります優劣や差別、不信による相互非難から、私たちを自由にしてください。お互いの違いを認め合って、共に生きる共同を生み出す力をお与えください。新しい年も平和と人権を脅かす力には抗って生きることができますようにお導き下さい。
  • 私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   567(ナルドの香油)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-567.htm

 

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

 

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

これで礼拝は終わります。