なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

イースター礼拝(2020年4月12日)

今年のイースターの礼拝は、緊急事態宣言発出を受けて、教会に集まってしている通常の日曜礼拝は休止しました。その代わりメールで下記を配信し、各自自宅で分散礼拝をすることにしました。メール受信が難しい人には下記のものをプリントして郵便で発送することにしました。緊急事態宣言では連休明けの5月6日まで外出自粛の呼びかけがなされていますので、この形式の礼拝も5月3日(日)まで続けます。緊急事態宣言が延長されるようでしたら、この形式の礼拝も延長します。

 

4月12日(日)イースター礼拝(通常10:30開始):

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

 

③ 讃 美 歌  204(よろこびの日よ)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21 204番

https://www.youtube.com/watch?v=rT9p9BJRj0w

 

⓸ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 

⑤ 交 読 文  詩編149編1-9節(讃美歌交読詩編162頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙6章3-11節(新約280頁)

        (当該箇所を黙読する)

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 

⑧ 讃 美 歌    327(すべての民よ、よろこべ)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21  327番

https://www.youtube.com/watch?v=n_BuLbwfvLE

 

⑨ 説  教  「死と生」            北村慈郎牧師              

祈  祷

 

  • 今年のイースターは、私にとって、高校3年生のクリスマスに洗礼を受けてから61回目のイースターになりますが、二つの意味で特別なイースターになりました。
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  • 一つは、新型コロナウイリス感染拡大の中で、4月7日に緊急事態宣言が発出され、通常の教会で守るイースター礼拝を休止したことです。各自自宅で分散礼拝を、メールで配信される週報の礼拝式と説教原稿を自分で読んで守ることにしました。これはおそらくみなさんにとっても、私にとっても、今までに経験したことのない出来事でしょう。
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  • もう一つは、今年のイースターは、私にとっては連れ合いのいないイースターになってしまったことです。連れ合いは1年半前に直腸がんステージ4と宣告されて、抗がん治療を続けていました。けれども去る3月3日に帰天しました。私と連れ合いは、私が高校3年生、彼女が高校1年生で、1959年のクリスマスに一緒に洗礼を受けました。その時から60回のイースターを共に迎えました。しかし、今年の61回目のイースターは、私一人で迎えることになってしまいました。

 

  • そういう二つの特別な状況の中で、しかもどちらも死への恐れが支配しているかのような状況の中で、私は今年のイースターを迎えています。

 

  • エスの受難と十字架死を経験した弟子たちは、イエスの死後、受難と十字架死に赴く師であるイエスに対する否認、裏切り、逃亡という、自らの不信仰と弱さ、罪責に対する負い目と後悔をかかえたまま、佇むほかありませんでした。

 

  • エスを最後まで見守ったと思われる女弟子たちも、時の経過と共に思い出の中のイエスは生きていたとしても、イエスの死後もイエスの弟子として生き抜く力はなかったに違いありません。

 

  • エスの生涯が、受難と十字架死で終わっていたとすれば、教会の誕生もなかったと言えるでしょう。男弟子も女弟子も、イエスの受難と十字架死という躓きを超えられないまま、ただその前に佇むほかなかったに違いないからです。

 

  • ルカ福音書24章13節以下のエルサレムからエマオに向かって歩いていた、復活したイエスに出会う前の二人のイエスの弟子たちの姿を、ヘンリー・ナウエンはこのように描いています。少し長くなりますが紹介させていただきます。

 

  • 【二人の男が故郷に帰っていくところでした。幻滅し、意気消沈し、うなだれていました。友人同士であったこの二人については、よく分かっていません。しかしルカは福音書の中で、極めて明瞭に彼らがどう感じていたかを示しています。すなわち、打ちのめされ、落胆している様子がうかがえます。当時、長いあいだローマ人が国を支配していました。つまり、真の自由がほとんどなかったので、誰もが自由を心から待ち望んでいました。二人はイエスと出会ったことで、このナザレ出身の男が、長らく探し求めていた自由をもたらすだろうとの希望で胸をふくらませていました。/しかし、すべてが無に帰しました。大きな期待を寄せたイエスは逮捕され、死を宣告され、ローマ人によって十字架につけられました。すべては、以前とまったく同じになってしまいました。いつ捕まって投獄されるか分からない生活に戻りました。もはや自由は望めません。クレオパとその友人は絶望し、抜け殻のようになって故郷に帰る途上でした。希望の道ではありません。さびれた道、絶望の道です。】

 

  • このエマオ途上の二人の弟子の姿は、イエスの受難と十字架死を前にしたすべての弟子たちの姿を示していると思われます。

 

  • しかもイエスは受難と十字架死の後、三日間墓の中で横たわっていたと言われています。人は、その人がどのように生きようが、最後は死んで墓に葬られ、無に帰するのです。連れ合いが死んで、人間のはかなさを痛いほど感じていますが、誰もそれを避けることはできません。私は恥ずかしながら、花に囲まれた彼女のお骨と写真を毎日眺めては、彼女がいないという喪失感に耐えています。

 

  • けれども、連れ合いは死にましたけれども、同時に、今も確かに私の中には連れ合いは死を超えて生きているのも事実です。特にがんを宣告されてから帰天するまでの1年半の彼女の生き方には、死を超えた命の輝きを感じさせられました。このことはイエスの復活信仰とも関係すると思いますので、個人的な話になりますが、ここでお話させていただきたいと思います。

 

  • 連れ合いは一年半前に、最初診てもらった町医者から伊勢原にあります東海大学附属病院の大腸がん専門の教授を紹介されて、その教授のお弟子さんが彼女の主治医になりました。検査をした結果、その主治医の診断によれば、連れ合いは直腸がんステージ4、治療しなければ1年、抗がん剤治療をしても2年から5年ということでした。

 

  • その時、少しでも長く生きていたいという思いが本人にも、私たち家族にもありましたので、彼女は抗がん治療を選びました。ただその時彼女は、痛みの苦しみは取り除いてもらいたいけれども、死は怖くないという主旨のことを言っていました。

 

  • 最初3週間入院しましたが、入院したその日に人工肛門ストーマの手術をし、最後までストーマの生活でした。その入院で肝臓や肺にまで転移している直腸がんステージ4であるだけでなく、糖尿病であることも分かり、東海大附属病院には癌治療の一般外科だけでなく、腎内科にもお世話になりました。

 

  • 抗がん剤治療を、薬を4度変えて1年5か月、最初の入院以外は通院で続けましたが、本年2月6日の診察日には、効く薬がなくなり、主治医から緩和への移行を宣告され、在宅か病院かを選ぶように言われました。主治医には1週間後に回答することにしました。その間最初彼女は在宅を希望しましたが、自分の体のしんどさもあったのか、私に負担を掛けまいとしたのか、最終的には在宅ではなく病院を選択しました。そのことを主治医に言うことになっていたのが2月13日の診察日でしたが、2月11日の早朝ストーマから出血があり、救急車で東海大学付属病院に緊急入院しました。2週間入院し、2月25日に鶴巻温泉病院緩和病棟に転院しました。転院する前日も東海大附属病院では面会者がありましたが、鶴巻温泉病院ではコロナの問題で家族以外の面会はできませんでした。鶴巻温泉病院緩和病棟に転院して3日後位から急激に病状が悪化したのか、彼女は「もう充分、感謝」と言って、うとうとするようになり、そのまま転院約一週間後の3月3日の8時54分に静かに息を引き取りました。

 

  • 実はこの癌との向かい合いの1年半の連れ合いの歩みに、夫とし身近にいて寄り添って来た者として感じたことは、彼女の前向きで積極的な生き方です。体のしんどさを訴えることはありましたが、死を恐れる言葉や様子を見せたことは、全くと言っていいくらいありませんでした。

 

  • 癌になってからも人とのつながりを大切にして、たまには自分から出かけることもありましたが、それがほとんど出来ませんでしたので、家に来る人を歓迎しました。1年半の間にどれだけの人が連れ合いのところに来てくれたことか。見舞客として、またいくつか彼女の属する教区の委員会を彼女が出席できるようにと、わが家で開いてださり、その委員の方々も来てくれました。そして彼女は食事を作ってもてなしました。

 

  • 電話やメール、フェイスブックでのやりとりも活発に行いました。死ぬ数日前に携帯も、アイパットも、もういいと言って、使わなくなるまで。病気になってからも、病気になる前と変わらすに、命の輝きを失わずに生き生きとしていました。

 

  • もし死を超える命がないとするならば、私は連れ合いの死に打ちのめされて、立ち上がることができなくなっていただろうと思います。復活したイエスに出会う前の弟子たちのようにです。

 

  • 先程ルカ福音書に描かれています、イエスの受難と十字架死に打ちのめされたエマオに向かう二人の弟子の話をしました。ルカ福音書の記述によれば、復活したイエスと出会ったとき、二人の弟子たちの「心が燃えていた」と記しています。

 

  • ヘンリー・ナウエンは、【その燃える心は、クレオパとその友に、まったくの新しいことを明るみに出しました。彼らの存在の人間性の中心で死の武装を解除し、絶望の持つ力を剥奪する何かを生み出しました。それは物事に対する新しい見方というより、もっと大きな何か、生きることへの新しい確信、あるいは新しい喜び、すなわち新しい命、あるいは新しい霊としか言いようのないものです。】と言っています。

 

  • 連れ合いは、末期がんによる病と死との向かい合いの中にも、復活のイエスの命によって呼び起こされた、「生きることへの新しい確信、あるいは新しい喜び、すなわち新しい命、あるいは新しい霊」によって神と人との関係を生きる意欲を、死の間際まで失わなかったのではないかと思えてなりません。そしていよいよ命尽きるときになって、「もう充分、感謝」と言って息を引き取ったように思われます。

 

  • 今日の聖書の箇所であるローマの信徒への手紙6章3節以下は、パウロが、バプテスマ(洗礼)を受けることによって私たちがキリストの死と生に一体化することを述べているところです。そこでパウロはこのように語っています。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分の罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(6:8-11)と。
  • ここにはイエス・キリストを信じることによって、キリストと共に古い罪に支配された自分に死に、キリストと共に神に向かって新し人として生きる道が示されています。連れ合いはこの道を彼女なりに精一杯生きたのではないかと思います。与えられた肉体の命が尽きるまで、死を恐れずにです。
  • 今日はイエスの復活を祝うイースターです。死んで復活したイエスに出会って、「心騒がせた」二人の弟子のように、私たちも、復活して今も生きて共にい給うイエスを信じ、「生きることへの新しい確信、あるいは新しい喜び、すなわち新しい命、あるいは新しい霊」を与えられて、このコロナ禍が象徴する死の恐れに満ちた現実にあっても、他者と共に命輝かせて生きて行きたいと願います。
  •  
  • 祈ります。

 

神さま、今年もイースターを迎えることが出来ありがとうございます。

しかし、今までのように教会に集まってみんなで行っていた礼拝が、新型コロナウイリス感染拡大を防ぐために今年はできませんでした。各自がこの日の礼拝を憶えて、自宅で分散礼拝を守っています。

私たちが生きるときに、基本的に必要な人と人との接触、交わりを絶たなければならないということは、私たちにとっては死の宣告に等しい出来事です。しかし、しばらくこのことを忍耐し、コロナ感染拡大を防ぐことが出来ますように導いてください。残念ながら今回の新型コロナウイリス感染によって沢山の方々がお亡くなりになっています。その方々と残されたご家族の上に主の支えを祈ります。またコロナ感染のことで医療関係者をはじめとして困難を憶えている方々をも支えて下さい。

ところが、今回の世界的な私たち人間の活動の自粛によって、自然環境が好転しているという報告も受けています。これからまた、コロナ感染が終息して私たちが活動を再開することができるようになりましたら、経済優先の私たちの活動を再検討し、自然との共生の道にシフトを変えて行くことができますようにお導き下さい。

今回の行動の自粛によって失業したり、収入が減って困っている人への救済の手が速やかに与えられますように。

 これらの祈りを、主の名によって祈ります。       アーメン

 

⑩ 讃 美 歌  575(球根の中には)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21 575番

https://www.youtube.com/watch?v=gd4VhVjBR9A

 

⑪ 献  金

(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

                     

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)

讃美歌21 28番

https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

 

⑬ 祝  祷

  主イエスの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

 これで礼拝は終わります。