なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(82)

6月21(日)聖霊降臨節第4主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

 

③ 讃 美 歌  18(「心を高くあげよ!」)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21 18(心を高くあげよ) http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-018.htm ⓸ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 

⑤ 交 読 文  詩編16編7-11節(讃美歌交読詩編16頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書18章1-9節(新約34頁)         

        (当該箇所を黙読する)

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 

⑧ 讃 美 歌    430(とびらの外に)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21 430(とびらの外に) http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-430.htm

説教 「命にあずかる」 北村慈郎牧師

祈祷

 

  • キリスト教の教会について、みなさんはどのように考えていますか?
  •  
  • 紅葉坂教会時代に日曜学校のスタッフを中心に、「わたしたちの告白」という、子どもも大人も一緒に告白できる信仰告白を作りました。そして月一回、第一日曜日に長年行っていました子どもと大人の合同礼拝の礼拝式の中にこの「わたしたちの告白」を入れて、一緒に唱和するようにしました。これは日本基督教団信仰告白ではなく、紅葉坂教会の日曜学校スタッフ独自で考えた「わたしたちの告白」です。これはカナダ合同教会の新しい信仰告白を参考にしてつくりました。

 

  • その「わたしたちの告白」には、教会とは「イエスさまとともに生きる群れ」と言い表されています(本日の週報船越通信参照)。

 

  • 「イエスさまとともに生きる群れ」と言っても、それがどこにあるのかは、日曜以外のウイークデイの生活ではよく分かりません。群れをつくっていますキリスト者は、ウイークデイの生活では、この世に散らされて各自それぞれの生活を送っています。みんな分散していて、一つの群れとして現れていないからです。

 

  • しかし、日曜日になりますと、分散していた一人一人が集会所としての教会に、このように集まって来て、一緒に神を讃美礼拝をします。この礼拝において「イエスさまとともに生きる群れ」としての教会が見える形をとっているのであります。「イエスさまとともに生きる群れ」としての教会は、月曜日から土曜日までは、一人一人がそれぞれの生活の場所で生きていますので、見えません。普段は見えませんが、日曜日になると会堂に集まってきて、礼拝を共にします。それが私たちにとって具体的に感じられる教会です。そのために、教会を礼拝共同体と呼んでいます。

 

  • マタイによる福音書の著者は、そういう教会をどのように考えたのでしょうか。世の中では人が一緒に集まって一つの集団ができますと、そこには偉い人とそうでない人という序列のようなものが出来てしまいます。命令する人と命令される人というようにです。

 

  • そういう集団に慣れている人は、教会の中にもそのような序列を持ち込んだり、そのような序列で人を見てしまう危険性があります。ですから、中には私のような牧師が、特別に持ち上げられてしまう場合もあります。牧師が中心になって信仰共同体としての教会があるように錯覚してしまうのです。あるいは、少人数の教会にはよくあることですが、経済的に力のある人がその教会の中心に考えられる場合もないとは言えません。牧師もそのような人を立てて、集団として安定した教会の経営に走ってしまう場合もあるのです。

 

  • ところで、小川陽さんによれば、今日のマタイ福音書の個所から始まる18章は、「教会生活のあり方についての説教」が記されていると言われます。その説教を貫いているのは、「小さな者(弱く、劣った者)への配慮を知る兄弟(姉妹)愛である」というのです。つまりマタイにとっては、教会において最も大切にされなければならないのは、最も弱く小さな存在への配慮であるというのです。

 

  • マタイはそのことを語るために、最初に「いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか」というイエスへの弟子たちの問いから始めています。偉さを競い合う競争はこの世の常識でしょうが、弟子たちの眼差しはその常識で天の国では誰が一番偉いのだろうかと、イエスに問うたのです。無理解もはなはだしいのですが、そのことに弟子たちは気付いていません。イエスと共に宣教活動を続けて来たに違いない弟子たちですが、イエスの眼差しを弟子たちは共有できていません。何という弟子たちの頑なさでしょうか。

 

 

  • 弟子たちの頑なさは私たちの頑なさでもあります。偉さへのこだわりから、弟子たちも、私たちもなかなか自由になれません。イエスと出会い、イエスが私たちに注ぐ眼差しを受けて、そのイエスの眼差しを私たちのものとしなければ、私たちの中にある自己中心という頑なさから解き放たれるということはできません。

 

  • そういう意味では、弟子たちが「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と、愚かな質問をイエスにしたのも、うなずけます。イエスとともに生きた弟子だからといって、そう簡単には、人間は変わらないからです。

 

  • その弟子の質問に、「イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて」こう言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(3-5節)と。

 

  • ここでイエスは、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われて、大人から見れば、「弱く、劣っている」かに見える一人の子どもを受け入れる者が、イエスご自身を受け入れているのだ、と言っています。

 

  • 先ほど教会は「イエスとともに生きる者の群れ」であると言いました。イエスを受け入れることが、「弱く、劣っている」かに見える一人の子供を受け入れることであるとすれば、「イエスとともに生きる者の群れ」としての教会は、誰も排除しません。この世では、どんなに子供のように小さく、弱く見え、必要とされないと思われる人であっても、そのような人こそ、「イエスとともに生きる者の群れ」である教会では中心にいるのです。

 

  • 信仰とは、この世をつくっている自分中心に生きている私たちが、180度方向転換して、イエスとイエスの神を中心に生きていこうとする、絶えざる悔い改めです。そのような悔い改めを通して、私たちは「心を入れ替えて子供のようにな」り、「イエスとともに生きる者の群れ」としての教会の一員として、生きているのではないでしょうか。

 

  • その「イエスとともに生きる者の群れ」としての教会に属する者の生き方が語られている今日のマタイ福音書の物語が、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」というイエスに対する弟子たちの問いから始まっているのですが、どうして「天の国」(「神の国」)を引き合いに出して語られているのでしょうか。

 

  • パウロがイエスを信じる者の国籍は天にあると言っていますように、イエスを信じる者は「天(神)の国」の住人なのでしょう。「イエスとともに生きる者の群れ」としての教会は、この地上の国にあって「天(神)の国」の住人として生きている者たちの群れということでしょうか。

 

  • 私たちは聖書を通して、イエスによって天(神)の国は地上に到来していることを告げられています。しかもイエスの十字架によって、すべての人の罪が贖われ、すべての人が天(神)の国の住人とされていて、この地上においても天(神)の国は、まだ完成はしていませんが、実現成就していると。

 

  • 最近カンバーランド長老教会の「恵みの契約」という信仰告白を読み返してみました。この信仰告白では、教会は一貫して律法、法による契約共同体ではなく、「神の恵みによる契約共同体」であるととらえています。

 

  • この契約共同体は全人類を包括したものとして受けとめられています。つまり神は、イエスを通して、全ての人を招き、罪贖われた者として、その構成員とする恵みの契約共同体を完成したというのです。それを教会は証言しているのだと

 

  • 「イエスとともに生きる群れ」としての教会には、そのような神の壮大な計画が背景にあるとすれば、今日の聖書の後半の個所のイエスの厳しい言葉も納得できるように思います。

 

  • ≪しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だがつまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい≫(6-9節)。

 

  • 大変厳しい言葉ですが、それだけにイエスは、私たちが他者につまずきを与えて、死と滅びに加担して生きるのではなく、私たちが「イエスとともに生きる群れ」の一員として、最も弱く小さな者を中心として、互いに仕え合って、共に生きて、命にあずかることを、心から願っているのではないでしょうか。

 

  • このイエスの期待に応えて、「イエスとともに生きる群れ」の一員として、それぞれ自分なりに生きていくことができれば幸いです。

 

祈ります。

 

 神さま、今日もこの船越教会で礼拝を共にできましたことを、心から感謝いたします。

 今日は、「イエスとともに生きる群れ」の一員として、私たちがどのように生きていったらよいのかを、聖書を通して考えさせられました。この世は、偉さを競い合い、むき出しの力が私たちを支配しているかのように思われ、心がなえてしまうこともしばしばです。けれども、私たちが生きていますこの世に、私たちと同じ肉体をとって生きられたイエスが、十字架の極みまで、あなたのみ心に従って歩まれたことを想い起させてください。そのイエスが切り開いてくれました、この世にあっては細い道ではありますが、その道を私たちも一歩一歩歩んでいけますように、お導きください。

 今日礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

 今も様々な苦しいの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩  105(ガリラヤの村を)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21  105(ガリラヤの村を) http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-105.htm

⑪ 献  金

(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

                     

⑫ 頌  栄  28(み栄えあれや)

讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo 

祈 祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

 これで礼拝は終わります。