注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。
(各自黙祷)
② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。 (詩編68:20-21)
③ 讃 美 歌 16(われらの主こそは)
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-016.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編26編1-12節(讃美歌交読文27頁)
⑥ 聖 書 マタイによる福音書9章35節―10章1節、5-10節
(新約17頁)
⓻ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
- 讃 美 歌 448(お招きに応えました)
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-448.htm
- 説 教 「イエス運動」 北村慈郎牧師
旧約聖書エゼキエル書34章2節以下にこう記されています。「・・・・災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない」(2b、3節)。
指導者は民の命や生活を守るために立てられているのに、民を守るどころか、自分の利益しか考えていないで、民から収奪しているというのです。「お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない」とは、そういうことです。
続けてエゼキエルは「お前たちは弱いものを強めず、病めるものを癒さず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。」(4,5節)と言っているのであります。
格差社会の中で、取り残され、見捨てられていく人々が、飼う者のいない羊のように散らされて、命と生活が脅かされている現代日本社会のことが言われているかのようです。
先ほど司会者に読んでいただいたマタイ福音書9章35節以下のイエスの活動が総括的にまとめられているところでは、エゼキエル書の牧者とは対照的にこのように記されています。イエスは「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(36節)と。
このところは岩波訳によりますと、このようになります。「さて、彼は群集を見て、彼らに対して腸(はらわた)がちぎれる思いに駆られた。なぜならば、彼らは牧者のいない羊のように疲れ果て、打ち捨てられていたからである」。
普通「同情する、憐れむ」と訳す原語のスプランクニゾマイは、「内臓」、すなわち腸や肝臓・腎臓などを指す名詞に由来します。内臓は人間の感情の座であると見なされていました。そこで、岩波訳のマタイによる福音書の訳者佐藤研さんは、新共同訳では「深く憐れまれた」と訳されているところを、「腸がちぎれる想いに駆られた」と訳したのです。
「腸がちぎれる想い」とはどういう想いでしょうか。「断腸の思い」という言い方があります。広辞苑によりますと、「断腸」は「子を失い悲しみの余り死んだ母親の腸が細かくちぎれていた」という故事からきていると言われています。
ここで「弱り果て」と訳されていますエスクルメノイという原語は、スクルロー(皮をはぐ、悩ます)から派生した言葉で、権力者による収奪・抑圧を、背後に持つ言葉であります。イエスの時代のユダヤ社会では、ローマによる支配と、ヘロデ王家による収奪は、民衆に苛酷な犠牲を強いたのであります。なおその上、祭司やパリサイ人など、本来民の精神的支柱たるべき階層も、民の困窮に本当に仕えることができませんでした。
この悲惨な実情を見て、イエスはその過酷な現実の中で苦しむ群集をご覧になって、「腸がちぎれる想いに駆られた」というのです。
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」という、マタイ10章35節のイエスの活動を総括するこの言葉は、権力者の収奪に苦しむ過酷なこの世の闇の現実に苦しむ人びとに、そこからの解放を告げる、光としての神の国の到来を示しているのです。
イエスと弟子たちの活動は、神の支配としての神の国の到来を告げる福音宣教と共に、それにふさわしく人々が神を信じて生き抜くことでした。「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人々が、癒されて神に愛された者として、与えられた命を喜んで他者と共に生きていくことです。
イエスと弟子たちの下に集まった人々(群衆)の中に、そのような人間の再生、復活の出来事が生まれたのです。山上の説教の一節で、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ5:4)とイエスは言われましたが、その幸いが、イエスと弟子たちの働きの中で人びとの現実となったのです。
イエスは、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群集を深く憐れまれた(腸(はらわた)がちぎれる思いに駆られた)」と共に、弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われたというのです。弟子たちに後継者が与えられるように神に祈れと言われたイエスは、後継者である、イエスを信じる者の群れとしての教会に、イエスと弟子たちの働きを引きつくことを期待しているのはないでしょうか。
イエスは、教会をつくろうとはしませんでした。弱り果て、打ちひしがれている人々が元気を出し、共に生きる仲間として支え合い、分かち合って、神の国を望み見て生きていくことを願い、そのために働き、そして権力者によって十字架にかけられたのです。
そして弟子たちには、「自分の十字架を負って私に従え」と命じました。そのイエスと弟子たちの働きを継承する教会は、十字架を負ってイエスに従って来たでしょうか。「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群集を深く憐れまれた(腸(はらわた)がちぎれる思いに駆られた)」イエスに倣って。
私たちが所属する日本基督教団は、1960年代に教会の体質改善の必要に気づきました。1941年に国家の圧力によって誕生した日本基督教団は、戦時下自分を守るために国家の戦争に積極的に協力してしまいました。その時当時の指導者は、自分たちが信じる復活信仰をはじめキリスト教の教義を否定されたら、殉教をもいとわないと、文部省の役人に言ったと言われています。それは、キリスト教の教義が否定されない限り、国家の戦争には協力するということでもありました。そして事実国家の圧力に内応して成立した日本基督教団という教会は積極的に戦争協力をしたのです。その反省のないまま戦後歩み始めた日本基督教団は、60年安保を契機に当時戦後に牧師になった若手の一部の牧師からの問題提起もあって、日本基督教団の宣教基本方針をまとめました。ただ信徒を増やし教会を大きくすることだけではなく、「世に仕える教会」としての教会の体質改善と、各個教会が別々に伝道するのではなく、協力体制の中で複数の教会が一つになってその地域を伝道する伝道圏伝道が、宣教基本方針の柱になりました。その流れの中で1967年には戦争責任告白が、1969年には沖縄キリスト教団と日本基督教団の合同が成立しました。しかし、2010年代になると、教団は改訂宣教基本方針を出して、1960年代に出来た教団の宣教基本方針を否定する動きが教団の大勢を占めています。元教団議長の山北さんが「荒野の40年」と言って、戦争責任告白以降の教団の歩みを全て否定したのも、この動きに呼応していると思われます。
船越教会は1960年代の教団の宣教基本方針の「世に仕える教会」を志向して、現在に至っています。「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群集を深く憐れまれた(腸(はらわた)がちぎれる思いに駆られた)」イエスに倣って。そのことは、以前にも紹介しましたが。船越教会創立50周年記念誌に記されています、2代目赤城昭二牧師の言葉によって示されています。短い言葉ですので、全文を紹介したいと思います。
「私はキリスト教にたまらなく嫌気がすることがある。それと同時にイエスにたまらない愛着を覚える。私は悟りきったような顔をしている人に真実を見ることが出来ない。世界の矛盾に苦悩して生きている人に真実を見る。イエスを追求すればするほど、キリスト教がイエスとは異なることがはっきりしてきて、キリスト教を批判せざるを得ないのです。批判を通過して、イエスに立ち帰りたいのです。イエスはキリスト教の先駆者ではなく歴史の先駆者でありました。我らの主とするイエスは逆説的反抗者の道を生きたが故に十字架に殺された。イエスが生き主張したこととキリスト教が教えてきた事は異なるのです。我らキリスト者がいまなすべきことは、歴史に生きたイエスに立ち帰る事です」。
イエスは、神の国の宣教と神の国の到来を示す病者や悪霊に憑りつかれた人々を癒されました。イエスの運動は「神の国」運動と言うことができるでしょう。
そのイエスの働きに突き動かされて、イエスの神の国運動に参与し、そのイエスの働きを継承していくために、新しい生き方を始めた人々がいました。それがイエスの弟子たちでした。このイエスの弟子集団が教会なのです。
エリザベス・シュスラー・フィオレンツアは、その著書の中で、私たちの信仰として、イエスを特別視してイエスを主と信じることよりも、イエスの働きに参与すること、イエスも担い続けた神の国運動に参与することの大切さを語っています。
その著書の中でこのように語っています。「私たちは、ありとあらゆる違いにおいて神を今ここで代表します。なぜなら私たちは皆、神ご自身のイメージと似姿に作られているからです。私たちは、白人であり黒人であり、男であり女であり、アメリカ人、ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人であり、若くまた老いており、機能的な身体を持っていたり、異なる仕方で機能できる身体を持っていたり、同性愛者であり異性愛者であり、移民でありネイティブ(先住民/土地の者)です。私たちは、賢くまた愚かであり、理論的であり実践的であり、勇敢であり臆病であり、美しくまた余り美しくなく、雄弁であり寡黙であり、賢明であり利口であり、強くまた弱い者たちです。私たちは多種多様なタレントや賜物、経験や希望、信仰や愛を与えられています。私たちは神のイメージなのです!」
フィオレンツァは、「私たちは、ありとあらゆる違いにおいて神を今ここで代表します。なぜなら私たちは皆、神ご自身のイメージと似姿に作られているからです」と言うことによって、一人ひとりが神のイメージにつくられている、その個々人の尊厳が何よりも大切にされる者として、お互にその関係を生きることができるのが神の国であると言うのです。イエスの弟子集団としての教会は、イエスを神格化して主に祭り上げて、イエスを主と信じる信仰よりも、イエスの働きに参与すること、イエスも担い続けた神の国運動に参与することの大切さを語っているのであります。
つまりイエスの弟子集団としての教会には、イエスを主と信じる信仰とイエスの神の国運動への参与という二つのモチーフがあるということです。この二つのモチーフは、イエスの弟子集団としての教会にとって本来密接不可分なものであるはずなのですが、教会を護るために教会を自己目的化すると、イエスを主と信じる信仰が形式的に重んじられ、イエスの神の国運動への参与は異端として排除されるようになってしまうのです。
戦時下の教会がそうでしたが、資本制社会の中で無批判なイエスを主と信じる教会も、イエスの神の国運動への参与を排除した戦時下の教会と同じ誤りの中にあるのではないかと思われます・
私たちキリスト者もイエスの弟子の一人として、イエスの弟子集団としての教会の仲間に加わっているのではないでしょうか。そうであるとすれば、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた(岩波訳「腸がちぎれる想いにかられた」)」というイエスの他者の痛みへの共感を、私たちも共有し、イエスの働きを引き継ぐ者として招かれていることを覚え、イエスの神の国運動に参与していきたいと願います。
主が私たち一人一人をそのように導いてくださいますように!
祈ります。
神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを心から感謝いたします。
神さま、イエスは「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群集」を見て、「腸(はらわた)がちぎれる思いに駆られた」と言われます。
神さま、わたしたちにもイエスのその思いを共有する力を与えて下さい。そしてイエスの神の国運動に参与することができますようにお導きください。
今日は参議院選挙の日です。この国を、最も弱い立場の人を大切にする政治を行う国に導いてください。
国家や民族の壁を越えて、全ての人々が一つとなり、共に生きる世界がきますように。
今様々な苦しみの中にある者をその苦しみから解き放ち、おごり高ぶる者を打ち砕いてください。
今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
この祈りを、イエスさまのお名前を通して、御前にお捧げ致します。
アーメン。
- 讃 美 歌 516(主の招く声が)
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-516.htm
- 献 金
⑫ 頌 栄 28
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
- 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。