なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(51)

「派遣」 マタイ10:5-16、2019年9月29日礼拝説教

 

  • 前回私は、イエスによる12弟子の選びの物語から、弟子集団としての教会の信仰には、二つのモチーフがあるということをお話ししました。一つはイエスを主と信じる信仰です。もう一つは具体的には病者の癒しや悪霊追放に示されています苦しむ者の救済を内容とする生前のイエスの働きに参与する信仰です。それはイエス神の国運動への参与と言えます。そして前者のイエスを主とする信仰よりも、後者の神の国運動としてのイエスの働き参与する信仰の大切さを強調しました。
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  • その12弟子の選びの記事に続いて、今日の箇所は12弟子派遣の物語です。この12弟子派遣の物語はマタイによる福音書だけでなく、マルコ福音書にもルカ福音書にもあります。マルコ福音書では6章7節から13節、ルカ福音書では9章1節から6節です。ところがイエスの弟子派遣の物語は、ルカ福音書だけには12弟子派遣とは違ってもう一つあります。ルカ福音書10章1節から12節です。新共同訳の表題では「七十二人を派遣する」となっています。ルカ福音書10章1節を見ますと、「その後、主はほかに七十二人を任命して、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ遣わされた」と記されています。ルカはイエスが12弟子を選んだだけでなく、他に七十二人も弟子に任命したことを伝えているのです。

 

  • マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は内容が共通しているところが多いので、この三つの福音書を「共観福音書」と言っています。マルコが最初に書かれて、マタイとルカは、マルコとイエスの言葉を中心とするQ資料と言われています二つを資料とし、それにマタイとルカの独自の資料で福音書を書いたと考えられています。

 

  • 田川建三さんは、ルカが同じ使徒派遣の説教を9章と10章で二度繰り返していることについて、このように述べています。「こういう場合、ルカの編集方針の常として、一つはマルコから、一つは他の資料から取られてものである。基本的な内容はほぼ同じであっても異なる経路で伝えられた伝承だから異なる出来事だ、と(ルカは)判断したのだろう。とすると、マルコの記事との関係からして、明瞭に、ルカ9章がマルコに、10章が他の資料に由来する。・・・」と。

 

  • 「それに対してマタイは、全体として明瞭にマルコ6章の並行記事であるが、ところどころマルコに出て来ない文ないし語句でルカ10章と一致するものが見られる。鮮明なのは12-13節と15節だが、ほかにも7節(…近づいた)や10節(履物、10節後半)の短い語句もそうである・・・ということはマタイもまたルカ10章の元にある別伝承を知っていて、しかしルカとはちがって、この二つは同じ事柄の伝承があちこちに伝えられたものだと判断し、両者を一つに合成してこの記事を仕立てたということだろう。これまたマタイの一般的な編集方針に合致する」 
  •                 と言っています(『新約聖書』639-640頁)。
  • マタイによる福音書の著者は、この12弟子派遣の記事で、弟子たちが派遣されたところでなすべきことは、イエスがなさったことと全く同じであるというのです。「天国は近づいた」という神の国の告知(10:7)と、神の国のしるしでもある「病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っているひとを清くし、悪霊を追い払う」(10:8)ということです。イエスがなさったように、派遣された弟子たちもイエスと同じことをしなさいというのです。

 

  • 教会にとって一番大切なことは、イエスの働きに参与することです。イエスを主とする信仰は、教会の中心はイエスだという告白ですから、何よりもイエスに従い、イエスの働きに参与することに違いありません。私たちが信じていますイエスが私たちの中にいらっしゃらなければ、教会はただの宗教好きの人間の集まりになってしまいます。

 

  • ところで、マタイによる福音書のこの十二弟子派遣の記事ですごいのは、派遣された12弟子の形姿(すがたかたち)です。タイセンというドイツの学者が、イエス運動を放浪のラディカリズムと言いました。9節以下に記されています「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れていってはならない。旅にも袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。・・・・・町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」というスタイルは、まさに放浪のラディカリズムのスタイルです。

 

  • マタイは、この世にあって神の国の宣教をする弟子たちの、最も相応しい姿として、神を信頼してすべてを委ねて、貧しく、弱く、住むところもない者のような放浪のラディカリストの状態を示唆しているものと思われます。

 

  • これもまた、ドイツの神学者でマタイによる福音書の膨大な注解を書いていますウルヒッヒ・ルツは、このマタイの箇所から、「恐らく、マタイはわれわれの西ヨーロッパの教会に、「御国(神の国)の福音」を告知しているというその主張を原則的に認めないであろう。」と言っています。つまり現在のドイツをはじめとする西ヨーロッパの教会は、イエスが宣べ伝え、弟子たちに継承させた神の国の福音の宣教からすれば、マタイの目から見たら、全く異なる福音を宣べ伝えているとしか見えないのではないか、と言っているのであります。

 

  • 「それは、・・・・教会がそもそもほとんどもはや福音によって示された方向に進まず、また(山上の垂訓〔説教〕で示された)『より良い義』(貧しい者、悲しむものは幸いである)とそれと共に福音とを認識できるようにさせた、貧しさと故郷なき状態と力無き状態の徴をその形姿(すがたかたち)において担っていないからである」と。
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  • 要するに西ヨーロッパの教会は、富める教会になっていて、それぞれの国の政治・社会体制に組み込まれてしまっていて、イエスの福音によって示されている教会の方向からしたら、どんでもない方向に迷い出てしまっている、と言うのです。

 

  • 神の国が近づいた」というイエスの宣教において、この「近づいた」とは「到来した」ことを意味すると言われています。イエスにとって神の国とは、神のみ心が実現成就しているところです。「神の国は、・・・・聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)。神のみ心が実現成就しているところには、不正義が糺され、この世で抑圧・差別されて小さくされている人々が、個として尊ばれ、イエスと共に、この世の価値観に基づくことのない、神の支配である神の国の下に、新しい交わりの中に生きることができるのです。その神の国の福音を宣教する教会が、「貧しさと故郷無き状態と力無き状態の徴をその形姿(すがたかたち)において担っていない」とすれば、イエスを信じイエスに従う群れとしての教会が、自己矛盾に陥っているとしか言えないでしょう。

 

  • ルツは教会の現存の姿をただ否定するのではなく、むしろ変えられるようにその一歩を踏み出すことが私たちに求められていることだと言っています。それと、「教会全体にとって、その中で(それと並んで、ではない!)個々のグループや共同体が全教会を代表して、ラディカルな故郷なき状態、非暴力、貧しさ、それに総体的告知の徴を表すこと(教会全体の福音宣教の方向性を表わす徴を示すこと)は、どうしても必要なことである」と言っています。ルツの言う全体教会を代表してその働きを担っています「個々グループや共同体」は、私たちの日本基督教団という教会の中にもあります。神奈川教区には、私も関わっています日雇労働者や野宿者の命と生活を守る働きとしての寿地区センターや、女性や性的マイノリティーの人権を、教会や社会が正しく認めるための働きとしての性差別問題特別委員会、障がい者の人権や生活をきちっと認める社会になるための社会福祉小委員会、人間の最大の暴力である戦争を否定し、軍事力によらない対話のできる社会をめざして活動している基地・自衛隊問題小委員会、その他(部落差別問題小委員会、核問題小委員会、多民族共生をめざす小委員会、ヤスクニ・天皇制問題小委員会、秘密保護法反対特別委員会)のような委員会活動があります。また、障がい者支援、高齢者支援の働きに関わっている教会や個人の信徒・教職の方々もいるでしょう。

 

  • これらの課題を担うのは、現在の社会が周縁に追いやって、貧しく、弱く、住むところもない人々を生み出しえいるからです。そういう社会は神の国にふさわしくないからです。神の国を宣べ伝え、それにふさわしいイエスの働き参与する教会は、貧しく、弱く、住むところもない人々と共に神の国をめざして前進していくのではないでしょうか。

 

  • マタイが、この世にあって神の国の宣教をする弟子たちの、最も相応しい姿として、神を信頼してすべてを委ねて、を示唆しているもの、そういう教会の本来的な在り方を指し示しているのではないでしょうか。

 

  • そういう教会本来の姿からしますと、現在の私たちの教会が、信徒の数や財政におい力を失いつつあるという状況を、教勢の回復という視点からではなく、見ることができるように思われます。

 

  • 神の国の宣教をする弟子たちの、最も相応しい姿として、神を信頼してすべてを委ねて、貧しく、弱く、住むところもない者のような放浪のラディカリストの状態へと、私たちの教会が導かれているということです。

 

  • 信徒の数も多く、財政的にも豊かな、大きいことをめざす宣教ではなく、小さく、貧しく、弱く、住むところもない者のような放浪のラディカリストの状態であっても、神の国の宣教と病者の癒しというイエスの働きに参与する教会へと導かれていると考えることも出来るのではないでしょうか。

 

  • 教会の高齢化は教会がこの世で小さくされているお年寄りが中心メンバーになる教会になっていくことを意味します。経済的にも今までのようにいかないかも知れません。活動も、今までのように出来ないかも知れません。しかし、このことは、神の国の福音を宣教する教会が、「貧しさと故郷無き状態と力無き状態の徴をその形姿において担う」ことを意味するのではないでしょうか。

 

  • どちらかと言えば、今までの教会のように与えられた力や富をもって、この世で小さくされている者たちに手を差し伸べるというスタイルから、私たち自身がこの世で小さくされている者として、さまざまにこの世で小さくされている方々と手を結び合って歩んでいくという方向へと、教会の在り方が変えられていくことではないかと思います。私はそのことの中に、隠された神の導きを感じているのであります。