なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(65)

「絆」  マタイによる福音書12:43-50

                  2020年2月2日船越教会礼拝説教

 

  • 今日はマタイによる福音書12章の最後の個所から、ここで何が私たちに語り掛けられているのか、私なりに聞いてみたいと思います。今までも何度となくお話してきましたが、マタイによる福音書では、12章に律法学者、ファリサイ派の人々とイエスとの論争がまとめられています。その最後のところが先ほど司会者に読んでいただいたところですが、まずその前半部分であります12章43節から45節のところを注目したいと思います。
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  • ここでは、イエスの悪霊に憑かれた人からの悪霊追放という奇跡行為が、比喩のように語られています。具体的な癒された人物は出てきません。イエスの働きによって悪霊が追い出されて、清められた人々、つまり「空き家になっており、掃除をして、整えられている」人々のことが語られています。悪霊追放というよりは、「空き家」の譬えになっています。私たち人間が家に譬えられていて、その家の住人は誰かということが問題にされているのです。

 

  • 一度追い出された悪霊は、「人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで『出てきたわが家に戻ろう』と言う」(43,44節)というのです。ここでは、 
  • それまでその人の家に住んでいた悪霊を追い出したが、その人の家が空き家のままだと、追い出した悪霊が「自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込んで、住み着」いてしまう。そうする、と前よりももっと悪くなるというのです。
  • マタイによる福音書では、明らかにマタイによる福音書が書かれた同時代のファリサイ的なユダヤ教徒を指して、このところが語られていると思われます。45節の最後の部分「この悪い時代の者たちもそのようになろう」とありますが、これはマタイによる福音書が書かれた同時代のユダヤ教徒を指していると考えられからです。
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  • この43節から45節のルカによる福音書の並行記事には、マタイ福音書の45節の最後の部分はありません。ルカの方は「空き屋」の譬は特定の人を指しているのではなく、人間はという一般論として書かれています。

 

  • もしこの空き家の譬えをイエスご自身が語ったとするならば、私は、マタイのように同時代のユダヤ教徒を指して彼ら・彼女らを貶めるような形で、イエスの言葉を使うのを好みません。むしろこの「空き屋」の譬は、自分自身を家に譬えたときに、この自分という家の住人は誰だろうかという風に考えたいと思います。

 

  • エスを主と告白する者は、自分の家の住人はイエスだということを言い表しているわけです。或いは神の似姿に造られた人間の家には神が住んでいるはずですが、どうでしょうか。

 

  • 私たちは日々新たにイエスを、神を自分の家の住人をして迎え入れるのでなければ、いつでも別の悪しき住人が自分の家に住み着いてしまうのではないでしょうか。欲望であり、金であり、権力であり、世間体であり、絶望であり、虚無主義であります。信仰・希望・愛に満たされて、イエスを自分の家の住人として、イエスと共に歩み続けたいと思うのです。そのためには、自分の家を空き家にしておくと、イエスによって一度追い出していただいた悪しき思いを持つ悪霊が、再び住み着いてしまうから、よく注意して生きていきなさいと、この空き家の譬えは語っているように思います。

 

  • では、イエスを自分の空き家の主として生きる、イエスとの関係、絆は、どのようにして深まるのでしょうか。今日読んでいただいたマタイによる福音書後半部分の12章46節から50節の「イエスの母、イエスの兄弟とは?」という個所が、そのことを物語っているように思います。肉親の関係という絆以上に、イエスにとっては神の意思を行う者こそが、母であり、兄弟であり、姉妹なのだというのです。

 

  • マタイでは既に7章21節にこのようなイエスの言葉がありました。「私に対して、『主よ、主よ』と言う者がすべて天の王国に入るのではない。そうではなく、天におられる私の父の意思を行う者こそ[天の王国に入るのだ]」。

 

  • では具体的にどういう人たちを言うのかとなりますと、並行記事のルカによる福音書では記されていませんが、マタイとマルコとでは違っています。マタイでは12章49節を御覧になっていただきますと分かりますように、「弟子たち」を指しています。49-50節には、「そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである』」と記されています。マルコでは、イエスは「自分のまわりを取り囲んで座っている者たちを見回して、『見よ、私の母、私の兄弟たちだ』」と言ったというのです。マルコでは弟子たちと特定されていません。イエスのまわりを取り囲んで座っていた者たちは群衆でした。

 

  • マタイによる福音書が書かれた状況を考えますと、マタイが弟子たちをイエスの母であり、イエスの兄弟であると言っているのも理解は出来ます。ファリサイ的なユダヤ教との対立が激しかったユダヤ人地域にあったと思われるマタイの教会にとっては、弟子たち、即ちキリスト者の教会員を特定して、神の意志を行う者と言わざるを得なかったのでしょう。

 

  • しかし、マルコの場合は、弟子たち、すなわちキリスト者の教会員が特権化されている教会への批判があったのかも知れません。イエスは名もない民衆の中に神の意思を黙々と実践している人たちがいることを知っていて、そういう人々こそイエスの母、イエスの兄弟であるといったのだと、マルコは言いたかったのでしょう。

 

  • ここでも誰がイエスの母であり兄弟であり姉妹なのかを詮索することではなく、神の意思を行うということが重要なのです。そのことを通して、他者を自分の道具のように利用したり、物品のように扱ったりすることから、私たちは解放されます。資本主義社会では、人は労働する商品と考えられています。そのような資本主義社会では、価値があるのは人ではなく金です。金を生み出す人間、金を多く持っている人間が貴(たっと)ばれます。
  • けれども、神の御心は、神の似姿につくられた一人一人の人間の尊厳が大切にされることです。そのことをベースにして、強い人も弱い人も、互いに愛し合い、仕えあって共に生きること、これが神の御心です。アダムだけではなく、イブも神がつくったのは、私たち人間が互いに愛し合い、仕え合うことによって、見えない神の愛を証しするためです。神の御心を生きる人によって、そのような人と人との絆が拡がっていくのです。肉親の関係、民族や国家を共有する関係は内側と外側がはっきりと分かれていて、内側に閉じられています。しかし、神の意思を行う人の絆は開かれています。肉親の枠を越え、国家や民族の枠を越えて人と人とをつないでいきます。
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  • マタイでは空の鳥、野の花を見よ、「明日のことを思い煩うな」というイエスの教えの中で、衣食住のことで思い煩うな、「・・・これらのものがみなあなたたがたに必要なことを天の父はご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えられる」と言われています。また、「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」と語り、自分を愛してくれる人を愛するだけでなく、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさいとイエスは語っています。さらにイエスは「貧しい者たちは幸いだ」と宣言し、貧しいものに対する神の支配の到来を告げ、社会の最底辺に見捨てられていた病人や悪霊に憑かれた人を癒しました。

 

  • 神の意志を行うということは、このようなイエスの言葉や行為によく表されていると思います。

 

  • 最近なかなか本が読めないでいますが、たまたま電車に乗っていて、本でも読もうかと思ってリュックの中を探りましたが、何もなかったので、乗り換えの横浜駅の中にある本屋さんに入って、新書版を見ていましたら、ちくま新書に『女のキリスト教~もう一つのフェミニズムの系譜』という竹下節子さんという人の本が目に入り、それを買って、電車の中で少しずつ読んでいます。そろそろ終わりそうなのですが、この本の中にこう言う一節があります。

 

  • 覇権主義がはびこる父権制社会であったギリシャ=ローマ文化圏で、キリスト教は人と人との対立や、よそ者の排除や、弱者の差別を撤廃し、すべての個人がそのまま愛され尊重されるべきだという革命的な普遍主義を説いた。それがどれほど革命的だったかといえば、その教えを説いた一介のラビ(イエス)が、神殿の大祭司に敵視されローマの総督まで巻き込んで、公開処刑されたということからもわかるだろう。そんな『教え』が絶えることなく広まった背景には、社会的弱者である女性たちによる(『弱者を通して超越者と出会う』という信仰の)『確信』があった」(172頁)。と。

 

  • また、マザー・テレサについて書かれているところにも、このような一節があります。

 

  • マザー・テレサにとって、『渇き』死んでいく人たちの世話をすることは、キリストの世話をすることと同じだったのだ。時として権力装置、暴力装置となっていたカトリック教会にとって、弱い人々に徹底的に寄り添う「女」たちを「聖女」の列に加えることは、キリスト教の根本精神とつながっている手段でもあり、自浄のシステムともなってきた。/生まれたばかりの乳児という『弱者』は『母』の胸に抱き取ってもらえるかもしれないが、老いたり病んだり傷ついたりして死に瀕する『弱者』もまた、胸に抱き取ってくれる『母』を必要としている。聖人になる条件には、性別も国籍も生前の活動期間も、その内容すら関係ない。最も弱い者、最も小さい者である『神』との関係をどう生きたのか、死後もどう生き続けるのかにあるという。そんなキリスト教の逆説を支え、賦活し(活力を与え)、良心の砦となってきたのが、『女たち』であり、『聖女』たちだったのである」(168-169頁)。

 

  • 弱者の中に神やキリストを見て、弱者に仕えることは神に、キリストに仕えることだという信仰には、自分の信仰のために弱者を利用しているという面も感じられて、自分も同じようにしたいとは思いません。けれども、聖書から語り掛ける神を信じ、イエスを信じ、神なしに、イエスなしに、「人と人との対立や、よそ者の排除や、弱者の差別を撤廃し、すべての個人がそのまま愛され尊重される」神の御心にふさわしい人と人との関係を生きていいきたいと願います。

 

  • 「だれでも、私の天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(50節)とのイエスの言葉を噛みしめながら。