なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(66)

「蒔かれた種」 マタイ13:1-9、2020年2月9日礼拝説教

 

  • 今から14年前、私が紅葉坂教会の牧師だったときに、当時九州の直方教会の牧師だったHさんを招いて説教とセクシュアル・ハラスメントの講演をしていただいたことがありました。ちょうどその頃イラクで拘束、殺害されたKさんがマスコミからパッシングを受けていて、彼のご両親が直方教会の教会員で、Hさんは命について深く問われていました。その中でマルコによる福音書の4章の種まきの譬えをこのようにお話しました。
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  • マルコによる福音書の4章は、「種まきが種をまきに出て行った」と書かれています。小さい時から疑問だったのは、なんで種まきさんはすべての種を良い地にまかないんでしょうかということです。このたとえ話は、その後に続く聖書の個所で、その種はみ言葉であるというふうに説明されています。そこからまかれた種を受け止める私たちが良い地になっていこう、と読まれてきたのかも知れません。種まきの譬えの中で、種と言われているのは、私は命であると思っています。存在として根を張り、生き抜き、関係につながり、実を結んでいく、そういう祈りを込められて命はまかれている。しかし、ある命は道端に追いやられ、ある命は石地にあり、またある命は茨の中にある。まかれた地によって生きる現実が切り分けられていく。まかれた命の現実によって、その命の生き死にが左右されてしまいます。そのことをあなたはどう受け止め、見つめ、一緒に生き合っていこうとするのか。そういう問いかけが、この聖書に書かれている言葉から響いてきます。良い地になっていこうという方向ではなく、その茨や石地や道端にある命の現実を示されて、その責任を問われているのはむしろ良い地にある種ではないでしょうか。私自身は自分が身を置いた事件の中から、この種の譬えをそのように読めます。道端にある命を真ん中に、石地から石を取り除き、茨を切り分けていく、耕す小さな小さな人間の業こそ命の神に応答する姿なのかもしれません。互いに命を育み合う、そんな日常を、そんなこの世を、そんな世界をという祈りを込めて、この言葉を読みたいと思います。

 

  • 私はこのHさんの種まきの譬えの解釈を意外性と感動をもって聞いたことを想い起こします。しかし、今回マタイによる福音書のほぼマルコ福音書と同じ種まきの譬えを読んで見て、Hさんの解釈は、当時Kさんの事件を通して、彼のご家族と向き合う中で、命について真剣に問われていたHさんの自分の方に引き付けた解釈であることを、改めて感じました。

 

  • マタイによる福音書では13章18節以下に、〈「種を蒔く人」のたとえの説明〉があり、その説明も当時の教会が自分たちの状況に合わせて行った解釈です。ですから、Hさんの解釈もあり得ると思います。けれども、〈「種まく人」のたとえ〉そのものは何を語ろうとしているのでしょうか。この譬をイエスが語ったとすれば、この譬でイエスは何を伝えようとしたのでしょうか。

 

  • この種まきの譬えが示す風景は、ユダヤの国ではごくありふれた日常的な風景であったと思われます。

 

  • バークレーは、「おそらく、イエスは湖のほとりで」小舟を講壇として教えておられたと思われるが、ちょうどそのとき、岸辺近くの畑で、実際に誰かが種をまいていたのであろう。そこでイエスは、その場で種蒔きを例にとられて、『ほら、あの畑で種を蒔いている人を見なさい』という言葉で語り始められたと思われる。イエスは、現在、人々が実際に見ることができることから始めて、まだ見ることができなかった真理に対して、人々の心を開かれたのである」と言っています。

 

  • バークレーは、イエスはこの種まきの譬えを語ることによって、畑で種をまいている人を見て、その種まきから見えない真理を、この譬えを聞いている者に悟らせようとしたのだと言うのです。

 

  • 旧約聖書続巻のラテン語エズラ記8章41節にこういう言葉があります。「農夫が地に多くの種を蒔き、多くの苗を植えるが、時が来ても、蒔かれたものがすべて無事に芽を出すわけでなく、植えられたものがすべて根づくわけでもない」と。

 

  • この農夫の日常的な経験は、イエスのこの種蒔きの譬を聞いていた群集もよく知っていたのではないでしょうか。

 

  • パレスチナの畑は細長くて、帯状地帯の間が誰でも通れる道になっていたそうです。そこを絶えず通行人が通るので、土が舗装路のように固く踏み固められていました。イエス道ばたといわれるのはこのことです。ここに落ちた種は道路に落ちたようなもので、土の中に入ろうとしても入れません。

 

  • 石地とは、小石がいっぱいある土地のことではありません。それはパレスチナによくある状態で、石灰岩層の上に10センチほどかぶさった土地です。ここに種が落ちると、土が太陽熱で早く暖まるために発芽は早いが、土が深くないため、養分と水分を吸収しようとして根を張ってもすぐ石に突き当たってしまいます。そこで太陽の熱に焼かれ、養分不足のために枯れてしまうのです。

 

  • いばらの地とは、みかけだおしの土地です。種蒔きが種を蒔いているときには、その土地には何も生えていないようにみえます。庭も、ただ表面だけ掘り返し、一応きれいにすることができますが、土地の中には雑草の根が残っていて、すぐにまた生えてきます。庭をつくる人なら誰でも知っているように、雑草は、よい種とは比較にならないほど強く、また早く育ちます。そこで、よい種と地に根を残した雑草とは一緒に育っていくが、雑草のほうが強いので、よい種から生えたものは枯れ、雑草だけが茂っていくのです。いばらの地とはそういう土地です。

 

  • このれらの土地とは違って、よい地は深くて、混ざりものがなく、やわらかい土地です。私が住んでいます秦野市の鶴巻の近くには田畑が広がっています。秦野は落花生の産地ですので、落花生の苗やブロッコリーの苗を植える前の畑は、正に「深くて、混ざりものがなく、やわらかな土地です」。こういう土地なら、種が容易に根を下ろし、養分を取り、邪魔されることなく育っていくに違いないと思えます。このようなよい地から、豊かな収穫を得ることができるのです。

 

  • このようなパレスチナの農業を踏まえて、イエスは「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなった。聞く耳のある者は聞きなさい」(8,9節)と、群集に語られたのです。

 

  • この譬を聞いた群集の一人一人は、種が蒔かれ、道端や石地や茨の中に落ち、無駄になったと思われることが余りに多いと感じられるのですが、百倍、60倍、30倍の実りによって暗示された喜ばしい事態が、この譬えを語るイエスの生において、イエスが彼ら彼女らと共にあり、彼ら・彼女らにこの譬えを語っていることにおいて、現実となっている、と感得したのではないでしょうか。その発見的認識によって彼ら・彼女らは大いなる喜びに満たされたにちがいありません。

 

  • この喜ばしい事態とは、福音書で「神の国の到来」と呼ばれていることと別ではありません。「〔定めの〕時は満ちた。神の王国は近づいた。回心せよ。福音の中で信ぜよ」(マルコ1:15)と、イエスは宣べ伝えたと言われます。

 

  • 「この『百倍の実り』という、農の常識の範囲内には収まらない、しかしあくまでも、その日常性とのつながりは保持されている、イエスの譬えの緊張をはらんだ言語表現の特徴は、そのままに、イエスの指し示す『神の支配』の内実と相応じていた、と思われます。イエスは、『神の支配の到来』という、いわば終末的な出来事を、異常なこととしてではなく、~確かに奇蹟であり、ある意味で異常な、驚くべきことですが、しかしそれは~日常のなかに見ていたのです。つまらない、あるいは些細な、人間の目には失敗とさえ見えることのなかにも、それを貫いて現れる神の支配の確かな現実(リアリティ)。・・・日常の繰り返しの中に常に新しい生命の到来を見いだすことができることを、イエスはこの種蒔きの譬えで語ってるのではないでようか。

 

  • エスの譬を聞いた群集は、1世紀前半のパレスチナにおける絶望的な日常性を前にしていました。病人や貧しい人も多く、ローマの支配もユダヤの神殿支配体制も、民衆から収奪はしますが、民衆の命や生活を守るということは、ほとんどありません。そのような日常性の中でイエスの譬を聞いた群集は、イエスと共にその日常性の中に到来している神の支配という新しい生命を、驚きと喜びをもって受け入れ、その証言者として立とうしたのだと思います。

 

  • 私は2011年3月まで、1969年に牧師になってから東京、横浜、名古屋、横浜と、近くにはほとんど農地のない場所にある教会やアパートで生活してきました。紅葉坂教会の牧師を辞めて、秦野の鶴巻で生活するようになって、周囲に田んぼも畑もたくさんあるところで生活するようになりました。鶴巻で生活するようになって、人間が作り出した都会の喧騒の中ではなく、自然の大地の上で私たちは生きているのだという実感を持てるようになりました。ですから、良い土地にまかれた種からたくさんの実りが生まれるということが、良く分かります。特に梅雨の前頃に水のはった田んぼに稲の小さな苗が植えられますが、それが秋になりますと、首を垂れるほどにたわわに実った稲になります。「良い土地に落ちた種が、実を結んで、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなった」というイエスの言葉が良く分かります。

 

  • 解釈を伴わない今日のマタイ福音書のイエスの種まきの譬えそのものを、繰り返し読んでいますと、この種まきの譬えが、種がまかれた土地の違いを問題にしていて、道端や石地や茨とは違って、良い土地がまかれた種を成長させて、どんなにたくさんの実りをもたらすかということが強調されていることが、良く分かります。

 

  • そしてその違いを、社会の現実に生きている私たちと、見えない神の支配としての神の国の現実に生かされて生きている私たちの違いとして理解することができるように思われます。

 

  • 福音書のこの種まきの譬えの解釈では、種がみ言葉、土地が私たち人間に譬えられていて、種がまかれた土地の違いが決定的な違いとして語られています。人間の違いを表す土地の違いが決定的であるということは、私たち人間の信仰、信・不信の違いが決定的ということになります。この種まきの譬えは、イエスによってそういう意味で語られたのでしょうか。

 

  • わたしは道端や石地や茨にまかれた種は、一人一人の人間すべての命と生活をはぐくむのではなく、その成長を阻害し、ついには枯れて死をもたらす現実の社会に譬えられているように思います。そして、私たちはその現実社会の中で生きていますが、私たちの置かれている場はそれだけではない。私たちの目には見えないが、神の支配(神の国)というすべての人を生かす豊かな現実があるのだと。イエスは、「私はその見えない神の支配の現実を示し、あなたがたと共にその現実を生きていきたい」と語っているように思えるのです。
  • このイエスの種まきの譬えが語られた群衆と同じように、私たちもまた、今日の絶望的な日常性にあって、比較的恵まれた安定した日常性に逃亡するのではなく、イエスと共に来るべき神の支配の確かな現実を信じて、死の怖れから解き放たれ、癒された者として、苦しみ、悲しむ人と共に立ち、神と人、人と人とを繋ぐ和解の福音の証言者としてそれぞれの置かれた場にあって立っていきたいと、切に願うものであります。