なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(67)

「無理解と拒絶を前にして」マタイ13:10-17  2020年2月23日

 

  • 今日の説教題は、「無理解と拒絶を前にして」とつけました。
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  • 「無理解」と「拒絶」。

 

  • 無理解ということは、誰にでもあるのではないでしょうか。私たちは自分で分かっていることはわずかであって、わからないことだらけですから。そのことは自分自身についてさえ、あてはまるように思います。私たちは自分のことは自分が一番よく知っていると思っているかもしれません。けれども、案外自分のことは自分が一番よくわからないでいるということもあります。むしろ一緒に長く生活を共にしている他者の方が、その人のことを良く知っているという場合もあります。子供のことは、その子自身よりも母親の方がよく知っているという場合のようにです。その反対もあり得ます。よく知っているはずの母親の方が、その子について実はほとんど知らなかったというようにです。

 

  • 福音書、特にマルコによる福音書の中には、イエスの弟子の無理解というモチーフがあります。ペトロをはじめイエスの弟子たちが、イエスの周りに集まった群衆よりも、イエスのことを理解していなかったという弟子の無理解です。

 

  • 先ほど司会者に読んでいただいたマタイ福音書の個所にも、「無理解」というモチーフが出てきます。13節「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」。14節「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、・・・」。15節「…こうして彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。…」。これらに記されています「理解できない」ということは無理解を意味します。

 

  • このような無理解な者たちは、今日のマタイ福音書の個所では、イエスによって「あの人たち」(11節)と呼ばれていて、「神の国の秘密を悟ることが許されていない」(11節)と言われています。一方弟子たちは、イエスによって「あなたがた」と呼びかけられていて、「神の国の秘密を悟ることが許されている」と言うのです(11節)。
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  • このように、今日のマタイによる福音書の聖書の箇所を読んで見ますと、神の国の秘密を悟ることが出来る人と出来ない人が、はっきりと分かれていると記されています。もう一度テキストからそのことを確認したいと思います。

 

  • 弟子たちがイエスに、「なぜ、あの人たちには譬でお話になるのですか」(10節)と質問すると、イエスはこのように答ええたと言われています。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」(11節)と。そして「持っている人は更に与えられるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」(13,14節)と。
  • 一方、弟子たちに対してイエスはこう語ったと言われています。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」と。
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  • このように天の國=神の国の秘密を悟ることを許されている、「あなたがた」と呼びかけられている弟子たちと、そうでない天の國=神の国の秘密を悟ることを許されていない「あの人たち」と呼びかけられている人たちというように、イエスは本当に言われたのだろうかと、この箇所を読んでいて疑問を感じざるを得ません。
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  • 荒井献さんは、そのようにイエスが弟子たちとそうでない人たちを差別したとはとうてい考えられないと言っています。このところは用語上から言ってもイエスご自身にではなく、教団に由来するとみなさざるをえないと。

 

  • 「要するに、教団においてその指導者が、『神の国の奥義』を独占し、教団の、『外の者ども』にはすべてを『謎』として残した事実があったということであり、それをイエスの口に入れて正当化したのが、伝承段階における『譬話論』の実体なのである」と。
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  • この荒井さんの説が正しいとしますと、イエスと、後に出来た教団=教会とは必ずしも一つではないということが分かります。場合によっては、イエスとは全く関係なく、教団=教会が自分たちの考えで歪めて信仰を受け止めてしまうということが起こり得ることになります。

 

  • 今日のマタイ福音書の個所で言われています「あなたがた」と「あの人たち」がどのような人を指しているかについて、二つの解釈が成り立つと言われます。一つは「あなたがた」はマタイ教会の人々、「あの人たち」は敵対関係にあったユダヤ教徒という解釈です。もう一つは、「あなたがた」も「あの人たち」もマタイ教会のメンバーで、教会の中で対立する二つのグループがあって、一方が他方を拒絶しているのだという解釈です。
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  • この後者の解釈が妥当しているとすれば、後の教会によって行われた異端審問に当たることが、すでにマタイ教会の中にあったということを意味します。教会の歴史をみますと、異端審問ということで、沢山の人たちを教会は排除し、殺してきました。もしかしたら、日本キリスト教団による戒規免職処分で私も現代の異端者として処分されていることになるかもしれません。
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  • この私の問題が起こった時に、ある人が冗談に「北村さん首を洗っておかなければね」と言って、「中世の異端者の火あぶりは苦しいそうですよ。とてもたえられないそうです。日本の切腹のように介添えの人が首を切り落とすことによって即死するように、火あぶりと同時に殺してくれる人がいるそうですよ」と親切にも教えてくれた人がいました。

 

  • 教団が信仰を歪めてしまうことがあり得るということを踏まえて、宗教改革者のカルヴァンは、教会は常にみ言葉によって改革されるところにあると言ったのでしょう。

 

  • カルヴァンのみ言葉は聖書を指していたと思われますが、み言葉をイエスに置き換えれば、教会はイエスによって常に改革されつづけるところに存立すると言えるでしょう。

 

  • エスは、律法学者、ファリサイ派の人たちと論争はしましたけれども、彼らを拒絶し、神の国の秘密(奥義)を悟ることを許されていない人たちとして排除することはありませんでした。むしろ論争を通して、彼らを神の国の秘密(奥義)を悟るように招いていたのではないでしょうか。

 

  • エスは、無理解だからと言って、弟子たちを拒絶することはありませんでした。

 

  • エスの中には、この人は救われるに値する人、この人は滅びに定められた人と言うように、人間を二分法で区分けする見方はありません。そうでなければ、「敵を愛しなさい」という教えを語りはしなかったのでしょう。マタイによる福音書の5章43節以下にその教えが記されています。≪「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。…」≫と。

 

  • 「あなたがた」と「あの人たち」という違った考え方を持つ人間を区分けして、他方を拒絶・排除するこの二分法的な考えを持つ人たちが、数の論理を利用して、2000年ごろから日本基督教団の意志決定を支配するようになり、2010年の教団総会以降全数連記による常議員選挙によって、現在の日本基督教団の意志決定を完全に支配しています。

 

  • 先日のオリエンテーションで発題してくれたK・Fさんは、この二分法的な考え方によってまず東京教区総会が支配され、それが教団総会に及んでいったとおっしゃっていました。東京教区総会がなぜそのようになったのかと言えば、東京神学大学(以下東神大)のおひざ元で、東神大出身者の教職が多くいて、東神大教授会の影響を強く受けているからではないかと思われます。

 

  • ご存じのように東神大教授会は1970年ごろ、当時の在籍していたほぼ半分の学生を「異なる福音」を信じる者として、「まことの福音」に立つ教授会とは違うとして除籍・排除しました。K・Fさんは当時教授会から排除された学生の一人で、その後一人の同じ教授会から除籍された友人と一緒に、二組の夫婦で開拓伝道をはじめて、現在に至っています。

 

  • 日本基督教団は1990年代半ばごろまでは、そのK・Fさんを自分たちの仲間として一緒に歩んできました。まだその頃までは日本基督教団は二分法的な考えによって支配されていなかったからです。違いを認め合い、一致を求めて論議していたのです。

 

  • 今回私は、今日のマタイ福音書のテキストから、自分たちは正当な信仰を持っていると自負して、そうでない違った信仰理解を持つ人を排除・切り捨てるという、そのような二分法的な考え方がマタイ教会の中にすでにあったということを知り、驚くと共に、教会は常にこの危険性を抱えているものではないかと、改めて思わされました。
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  • そうであるが故に、私たちは「敵を愛しなさい」というイエスの教えを心にとめて、神の慈愛を意味する太陽や雨の恵みが、「悪人にも善人にも」「正しい者にも正しくない者にも」すべての人に注がれていることを、私たちの生き方の根底に据えておきたいと思います。その上で、何が真実なのかを互いに追い求めて、議論するときには議論し、他者を自分と対等・同等な存在として受け入れていきたいと思います。