「どんながしるし」 マタイ12:38-42、2020年1月26日、
- イエスの時代のユダヤ人は、神の国到来に先立って天地にいろいろな異変があらわれると信じていました。たとえば戦争、地震、飢きん、日蝕、月蝕などです。
- 「時のしるし」とは、終末の時(神の国到来)が近づいたことを思わせるこのようなしるしを指します。
- マタイによる福音書24章では、最初にエルサレム神殿崩壊の予告が記されています(24:1-2)。イエスは神殿を指して、「・・・はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石に残ることはない」と言われたというのです。その後、イエスがオリーブ山に座っていると、弟子たちがやってきて、ひそかにイエスに尋ねて言います。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」(24:3)。 それに対してイエスはこう答えたというのです。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるが、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(24:4-12)。
- そして人の子到来を告げる29節以下には、「その苦難の日々の後、たちまち 太陽は暗くなり、月は光を放つ、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる」(24:29-30)。
- 悪霊に取りつかれて目が見えず、口の利けなかった人を、イエスは癒されました。そういう奇跡は悪霊の頭ベルゼブルも出来るから、もっとちがったイエスが本当に神からつかわされたメシアであるかどうかが分かるしるしを見せろ、というのでしょう。
- それに対しイエスは答えて、「よこしまな時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまりヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」(12:39,40)と言われたというのです。「人の子は三日三晩、大地の中にいることになる」とは、明らかにイエスの十字架と復活を暗示するものです。
- イエスは十字架にかけられて、金曜日の夕方近くに息を引き取りました。イエスの遺体はあわただしくその日のうちに埋葬されて、金曜日から三日目の安息日が終わった日曜日の早朝に復活したと、福音書に記されています。三日三晩とは、そのことを意味します。イエスの場合は、実際には三日二晩になります。
- 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(1:18)という有名なテーゼに続いて、パウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と(1:22-25)。
- 「ユダヤ人はしるしを求める」とは、神の事柄に関しては、それを証拠立てる「しるし」なしには信じえないユダヤ人の態度を指しています。このようなパウロが直面したユダヤ人の頑なさに、マタイの教会の人々も同じように直面していたのではないでしょうか。
- 今日のマタイの箇所では、マタイの証言するイエスは、そのような、しるしを求めるユダヤ人である何人かの律法学者、ファリサイ派の人々に対して、「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と答えて、真のしるしはただ十字架と復活であるということを、ある意味でパウロと同じように語っているのではないかと思います。
- そして、「ここには、ヨナにまさるものがある」、「ここには、ソロモンにまさるものがある」と言って、イエスの十字架と復活によって起こっている新しい現実を指し示しているのです。その現実は、死を命に変えるイエスの復活の現実です。
- 小河陽さんは、「イエスの復活後に立つマタイは、この復活の奇跡にもかかわらず、信仰を拒否し続けるファリサイ派のユダヤ教に対して、彼らの不信仰を確定し、最後的な非難の言葉を投げることしか知らないのは当然である」と言っています。
- 今日の個所には、マタイ教団が直面していたファリサイ派ユダヤ教との軋轢が背景にあるというのです。マタイ福音書の記者は、このイエスとファリサイ派の論争物語によって、マタイ教団によるファリサイ派ユダヤ教批判をしているのだというのです。
- 私は、このマタイによる福音書の論争物語を読んでいて、新しく生まれたキリスト教と当時のファリサイ派のユダヤ教とどちらが本当かという、宗派争いのようなものを感じます。そういうレベルで、ただ単にマタイのキリスト教が優れているということを弁証しているだけだとするなら、ちょっとどうでもいいように思えてしまいます。
- マタイの置かれた状況では極めて深刻な問題だったとしても、私は、ファリサイ派のユダヤ教とキリスト教という構図で信仰を問題にしようとは思いません。こういう形でのどちらが正しいかという正統性を競う争いには全く興味も関心もありません。マタイがいうところの、「ヨナにまさるもの」「ソロモンにまさるもの」がイエスにおいて起こっているとするなら、そのイエスにおいて起こった神の出来事を信じ、追体験したいと思うだけです。
- マタイにはファリサイ派のユダヤ教からの圧力が厳しかったのでしょう。そういう中でファリサイ派のユダヤ教への対応を強いられたのでしょう。やむをえないことだったのかもしれません。ただ大事なことは、マタイとマタイの教会が自分たちの信じる信仰によって立ち、日常の生活をその信仰によって生き抜くということでしょう。マタイとマタイの教会の人々がどこまでそれができたかは分かりません。
- 私たちはそのことを今ここという状況の中で私たちなりに求めていきたいと思います。
- そこでもう一度、ヨナのしるしと言われていますイエスの十字架と復活によって起こっている出来事を想い起したいと思います。
- 先ほど紹介しましたように、パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(1:18)と言って、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。」と言います。そして「すなわち、ユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と(1:22-25)。