なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(62)

「亀裂」マタイ12:22-32、2020年1月12日(日)降誕節第3主日礼拝説教

 

  • 今日は12章22節から32節までの、新共同訳聖書の表題「ベルゼブル論争」のところから、語りかけを聞きたいと思います。
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  • 今日のところでは、「悪霊に取りつかれて目が見えず口が利けない人」(32節)が、イエスのところに連れてこられて、イエスが癒されたという、イエスの奇跡行為が発端となって起ったファリサイ派の人びととイエスとの論争がテーマとなっています。

 

  • 実は今日のところと同じような物語が、マタイによる福音書の9章32節から34節にあります。以前9章32節から38節までをテキストにして説教をしましたときには、35節以下を主に取り上げましたので、直接32節から34節のところは触れませんでした。

 

  • その箇所では、「悪霊に取りつかれた口の利けない人」と言われていて、「目が見えない」とは言われていません。

 

  • エスのところに連れてこられて癒されたこと、そのことを群集が驚いたこと、そしてファリサイ派の人びとが、「イエスは悪霊の頭の力によって悪霊を追い出している」と言ったことは、今日のところと殆ど同じです。

 

  • しかし、今日の箇所には、25節で、「イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた」とあり、その後32節まで、悪霊をイエスが追い出しているのは、イエスがサタンの親分だからだというファリサイ派の人々の非難に対して、イエスが答えている形が取られています。

 

  • まず悪霊の頭だから悪霊を追い出すことができるのだというファリサイ派の人々の非難に対して、イエスは、「内輪争いをしたのではその国が成り立たない」ことを挙げて反論しています。

 

  • 次に「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたがたの仲間は何の力で追い出すのか」とファリサイ派の人びとに問い返しています。ここにはファリサイ派の人びとの仲間の中にも悪霊を追い出す働きをしていた人がいたことを示しています。ですから、悪霊をより強い悪霊の力によって追い出しているというファリサイ派の人びとの非難は、彼らの仲間もやっていることだから、「彼ら自身があなたがたを裁く者となる」だろうと言うのです。

 

  • そして、イエスは、「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたがたのところに来ているのだ」(28節)と言って、イエスの悪霊追放は神の国の到来を意味するというのです。ここには、サタンが支配する国と神が支配する国が相反するものとして捉えられています。

 

  • 神の支配する国には神の霊が満ちていて、神の霊を冒涜するサタン(悪霊)は、神の国には存在できない。だから、神の霊で悪霊を追い出しているわたしに、悪霊の頭だから悪霊を追い出すことが出来ると非難する者は、聖霊を冒涜していることになり、永遠の滅びに巻き込まれることになると、ここでのイエスファリサイ派の人びとに警告しているのでしょう。

 

  • しかし、聖霊に関するこの後の部分は、イエス自身が語ったというよりは、後の教会において成立した言葉だろうとされています。特に「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」は、イエスの生前「人の子」であるイエスに背いた弟子たちは赦されるが、聖霊が支配する教会の時代に聖霊に逆らう者は永遠の滅びに至るからであるというのです。

 

  • さて、今日のマタイによる福音書の箇所でファリサイ派の人びとが否定的に語られているのは、イエスと敵対的な論争の相手であったということですが、彼らは何故イエスによって否定的に見られたのでしょうか。

 

  • 今日のところには、彼らの仲間もイエスと同じように悪霊追放の業を行ったとありますから、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追放するということではイエスファリサイ派の人びとも同じではないでしょうか。

 

  • 「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」という言葉だけを見ますと、何かイエスも党派争いをしているように思われますが、イエスファリサイ派の人々との根本的な違いはどこにあるのでしょうか。

 

  • この前の安息日論争でもそうですが、ファリサイ派の人びとには人間を聖なる者とそうでない者という風に分け隔てる分離の壁があります。律法を守る人と守らない・守れない人との分離です。

 

  • そもそも「ファリサイ」という言葉そのものが、「分離された者たち」という意味です。

 

  • ファリサイ派の人たちは、「清くない者たち」「律法を守らない・守れない人たち」から自分を分けて、自分たちこそ聖なる、清い者だとするのです。

 

  • この人間を一つの基準によって分け隔てる考え方は、先日横浜地裁で裁判が始まった2016年7月に神奈川県相模原市知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者ら45人を刺し、うち19人を死亡させた殺傷事件を起こした植松聖(さとし)被告が持っていたとされる、「障害者は不幸を作ることしかできません」という優生思想にも通じるものです。

 

  • わたしたち人間を分け隔てる分離線は、わたしたちが生きている現実の中には、それぞれの違いとして、たくさん張り巡らされています。性の違い(男と女)、民族・国家、貧富、宗教の違いも、私たちを分け隔てる分離線になっています。そしてそこに優劣を持ち込んで、人間を抑圧差別する思想や行動が常態化しているのです。

 

  • ファリサイ派の、聖なる者とそでない者、律法を守る人と守らない・守れない人を分け隔て、聖なる者、律法を守る人を優れている人とし、そうでない人を劣った人と見る分離の考え方は、他者である隣人を抑圧差別することに通じるのです。

 

  • エスもまた、男と女のような性の違いや、ユダヤ人と非ユダヤ人のような民族の違いのような私たちの中にある違いは認めていたと思われます。しかし、その違いが人間を分け隔てる分離線になり、一方が他方を抑圧差別することには同意しなかったと思われます。貧富のような社会的な不公平は、神の正義に反するものとして、そもそもその違いそのものも同意できなかったに違いありません。

 

  • エスは、性差や民族の違いのような、その人自身からではなく、所与のものに優劣をもちこむのではなく、多様性の豊かさ(金子ミスズ「みんな違って、みんないい」)として受け止めていたのではないでしょうか。そのことは、山上の説教の中の「敵を愛しなさい」というイエスの教えにおいて示されているように思います。そのところを読んでみたいと思います。

 

  • ≪「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:43-48)。

 

  • このイエスの「敵を愛しなさい」という教えからしますと、イエスは一人一人の人間を絶対的な神とのかかわりの中で、対等同等な存在として受け止めていたことが分かります。人間的にはそれぞれ色んな違いがありますが、命与えられてそこに存在する者は、皆同じ尊厳を神から受けているというのです。神がすべての人に太陽を昇らせ、雨を降らせてくれるようにと。

 

  • ですから、今日のマタイ12章28節で、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出したのは、イエスが悪霊の親分だからだというファリサイ派の人の言い分に対して、イエスはこう語っているのです。≪しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ≫と。

 

  • ファリサイ派の人々は、ユダヤ人としてイエスと同じ神を信じていたと思われます。しかし、彼らの神信仰は律法の遵守という人間の可能性に還元されていたのではないでしょうか。すべての人にふりそそ太陽の光やぬくもり、雨の恵みとして、人間の営みの中に還元できない、それを超えている神のみ業として、イエスのように神を信じていたとは、到底思われません。

 

  • その違いがイエスファリサイ派の人々との間の論争・対立の根底にあったのではないでしょうか。

 

  • 現在の世界情勢を見ても、また日本の社会をみても、「自分の事しか考えない」傾向が大変強くなっています。イギリスのユーロ(ヨーロッパ連合)からの離脱やアメリカのトランプ大統領自国主義に象徴的に現れていますように、世界中が自国主義に閉じこもろうとしているかに見えます。

 

  • 日本社会では、伝統的な集団主義ではなく自分を大切にするME主義には、個人が主体的に生きるという積極的な意味がありますが、自分さえよければということになりますと、より弱い者への攻撃という弊害をもたらします。

 

  • この状態は世界全体が悪霊の支配下にくみこまれようとしているかのように思われてきます。そしてすべての人に注がれている太陽や雨の恵みが見えないファリサイ派の人々のように、人間を良い人間と悪い人間、強い人間と弱い人間に分け隔てて、悪い人間、弱い人間を差別排除する傾向が強まっているのではないでしょうか。

 

  • 雨宮処凛は、貧困者を差別する貧困バッシングの広がりなどから、私たちの内なる優生思想と問うています。そういう私たちの状況が植松被告の事件を引き起こしたのではないかと問いかけています。

 

  • 暗雲が厚く空を覆っていて、太陽の光がこの地上に差し込んでいるのを見えなくしているかに思える現在の状況の中で、私たちは、それでもこの地上に生活する私たちすべてに太陽の光が射し込んでいることを確信し、イエスが悪霊を追放し、神の国が私たちの現実に来ていると語られたことに希望を見出していきたいと思います。