なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(50)

          「十二人の選び」マタイ10:1-4、2019年9月22日礼拝説教

 

  • 私たちの中には、体も心も、押しつぶされそうで苦しくてたまらないという気持ちで、毎日生きている人が多いのではないでしょうか。その押しつぶされそうな抑圧・差別的な力から自由になって、幸せに暮らしたいという願いをもつ人たちです。そのような人は、自分の命と生活を守るために必死に生きています。
  • 前回9月8日の説教で学びましたが、この社会にある抑圧・差別を受けて、ボロボロになりながら生きている人々である「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた(岩波訳「腸がちぎれる想いにかられた」)」(マタイ9:36)と、イエスが言われたその気持ちが良く分かるように思います。
  • 抑圧差別されている人の痛みへの強い共感、それが「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた(岩波訳「腸がちぎれる想いにかられた」)」というイエスの思いではないでしょうか。
  • エスの時代のユダヤの国の人々と今の日本で生活している私たちとは、さまざなな苦しみ、悲しみをもって生きている人びとがいるということでは、それほど変わらないのではないでしょうか。私たち人間は、「自分さえよければ」とい自己本位の思いに支配されやすいですし、私たちの生きる社会は、権力と資本がはびこり、支配する者とされる者、多くのお金を持つ者と持たざる者に分断されがちです。そのために他者である隣人を、自分と共に生きる仲間として他者の痛みへの共感を大切に生きるのではなく、自分が得をするために利用し、踏み台にする道具に見立ててしまいがちなのです。
  • ですから、私たちの社会には抑圧差別を受けて、苦しみ、悲しむ人が絶えません。
  • エスは、そのように苦しみ、悲しむ人々が、その苦しみや悲しみから解き放たれて、神から与えられた命を大切に、喜んで他者である隣人と共に助け合って生きていくことをこそ、神が私たち人間に求めていることだと信じ、そのように生きたのではないでしょうか。
  • そして、そのように苦しみ、悲しんでいる群集がその苦しみ、悲しみから解放されるためには、自分一人ではなく自分と同じ思いを持ち、行動する仲間が必要であることを、よく知っていたのではないでしょうか。
  • ですから、イエスは弟子集団をもったのではないかと思われます。そしてイエスの下に集まった弟子集団は、元々はイエスによって招かれてイエスの弟子集団に加わったペトロやアンデレ、ヨハネヤコブのような人だけでなく、自ら志願してイエスの弟子集団に加わった人もいたのではないかと思われます。そしてその中には男性だけでなく、女性もいたに違いありません。福音書に記されています、イエスが十字架に架けられて殺され、埋葬された墓に、三日目の早朝、香料や布を持って行った女性たちは、恐らくイエスの生前はイエスの弟子集団の一員だったのではないでしょうか。
  • エスが集め、イエスの下に集まって来た弟子集団がどのくらいの人数だったのかは分かりませんが、イエスはその弟子集団にご自身の働きを継がせようとしたのだと思います。
  • 先程司会者に読んでいただきました10章の1節にこのように記されています。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」と。ここにはイエスがご自身の働きを引き継ぐことができる権能を与えたのは、十二人の弟子たちに限られていたように記されています。しかし、マタイによる福音書では、これまでイエスから召命を受けてイエスの弟子になったのはまだ5人だけです(マタイ4:18以下、9:9)。ですから、ここで「イエスが十二人の弟子を呼び寄せ」と言われているのは、唐突な感じがします。先ほど言いましたように、イエスの下には12人以上の弟子集団が集まっていたのではないかと思われますから、その中から12人を限定して派遣するのも不可解に思われます。この十二人の弟子たちの十二という数字は、明らかにイスラエル12部族を示しているものと思われます。ですから、この十二弟子の派遣には、圧倒的に多くのユダヤ人信徒によって成り立っていた最初期の教会の考えが反映されていると考えられます。十二人の弟子たちから出発した教会は、旧いイスラエル12部族に代わる新しいイスラエル12部族として神の救いの歴史に登場してきたのだという考えです。
  • そういう意味で、イエスご自身が十二弟子という特定の弟子集団を意識していたのかどうかは分かりません。ただイエスは弟子たちがご身の働きを継承することを願い、そのように導いたということは、言えるのではないかと思います。
  • その際、イエスは無理やり上からの命令で、弟子たちにご自身の働きを継がせようとしたわけではありません。パウロが書いたフィリピの信徒への手紙の中に、「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に到らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(2:13口語訳)とありますように、神の働きかけがあって、弟子たちはイエスの働きを継ごうと、自分から願った面もあるのではないかと思われます。
  • そのためにイエスは弟子たちに一生懸命祈りなさいと言われました。「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、(腸がちぎれる想いにかられた)」イエスは、弟子たちに、「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(マタイ9:38)と言われたのです。
  • エスの仕事を引き継いで働く弟子たちがいなかったら、イエスのこともイエスの働きも、2000年経った今の日本で知ることはできなかったでしょう。体も心も押しつぶされそうになって苦しんでいる人々は、いろいろな癒し手によって、その苦しみを和らげてもらうことはできるかも知れません。しかし、イエスが私たちのところにもたらしてくださった神の国の福音、苦しみ者、悲しむ者と共にいてくださる、死を命にかえる神さまの霊を受けて、神の国の住人として、自由と喜びを持って他者である隣人と共に生きる道はなかったかも知れません。
  • エスは、神の国の宣教と神の国の到来を示す病者や悪霊に憑りつかれた人々を癒されました。イエスの運動は「神の国」運動と言うことができるでしょう。
  • そのイエスの働きに突き動かされて、イエス神の国運動に参与し、そのイエスの働きを継承していくために、新しい生き方を始めた人々がいました。それがイエスの弟子たちでした。先ほど言いましたように、そのイエスの弟子たちには、イエスによって招かれて弟子になった人も、男女に拘わらず、自ら進んでイエスの弟子になった人もいて、イエスの弟子集団が形成されていたと思われます。このイエスの弟子集団が教会なのです。
  • エリザベス・シュスラー・フィオレンツアは、その著書の中で、私たちの信仰として、イエスを特別視してイエスを主と信じることよりも、イエスの働きに参与すること、イエスも担い続けた神の国運動に参与することの大切さを語っています。
  • その本の中で著者はこのように語っています。「私たちは、ありとあらゆる違いにおいて神を今ここで代表します。なぜなら私たちは皆、神ご自身のイメージと似姿に作られているからです。私たちは、白人であり黒人であり、男であり女であり、アメリカ人、ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人であり、若くまた老いており、機能的な身体を持っていたり、異なる仕方で機能できる身体を持っていたり、同性愛者であり異性愛者であり、移民でありネイティブ(先住民/土地の者)です。私たちは、賢くまた愚かであり、理論的であり実践的であり、勇敢であり臆病であり、美しくまた余り美しくなく、雄弁であり寡黙であり、賢明であり利口であり、強くまた弱い者たちです。私たちは多種多様なタレントや賜物、経験や希望、信仰や愛を与えれています。私たちは神のイメージなのです!」
  • フィオレンツァは、「私たちは、ありとあらゆる違いにおいて神を今ここで代表します。なぜなら私たちは皆、神ご自身のイメージと似姿に作られているからです」と言うことによって、「みんなちがって、みんないい」「バラバラの一緒」という、一人ひとりが神のイメージにつくられている、その個々人の尊厳が何よりも大切にされる者として、お互にお互いの関係を生きることができるのが神の国である。イエスの弟子集団としての教会は、イエスを神格化して主に祭り上げて、イエスを主と信じる信仰よりも、イエスの働きに参与すること、イエスも担い続けた神の国運動に参与することの大切さを語っているのであります。
  • 残念ながら私たちが属する現在の日本基督教団という教会の大勢は、「日本基督教団信仰告白と教憲教規」を守るかどうかが、信仰の基準にされていて、私の免職処分も、基本的には私が教憲教規を守っていないということが、その理由とされています。つまりフィオレンツアが言うところの、イエスを主と信じる信仰を形式的に守ることが重んじられていて、イエスが担い続けた神の国運動に参与することがないがしろにされているのです。日本基督教団の歴史を振り返ってみますと、1960年代後半から1990年ごろまでは、日本基督教団とう教会は、イエスを主と信じる信仰と共に、生前のイエスが担い続けた、他者の痛みへの共感をベースに、ユダヤ社会の中で疎外された人びとと共に、支配・被支配、抑圧・差別のない、神のイメージに造られた者として互いに対等同等な関係を生きる神の国運動への参与も大切にされていました。そしてその流れは、今も日本基督教団の中で少数派として生きつづけていると思われます。
  • つまりイエスの弟子集団としての教会には、イエスを主と信じる信仰とイエス神の国運動への参与という二つのモチーフがあるということです。この二つのモチーフは、イエスの弟子集団としての教会にとって本来密接不可分なものであるはずなのですが、教会を護るために教会を自己目的化すると、イエスを主と信じる信仰が形式的に重んじられ、イエス神の国運動への参与は異端として排除されるようになってしまうのです。
  • 今日のマタイによる福音書の十二弟子を選ぶ物語にも、すでに十二弟子を「使徒」と呼び、ある種の権威主義化が見られます。それはイエス神の国運動のモチーフ、「みんなちがって、みんないい」「バラバラの一緒」とは相反するものではないかと思われます。
  • 私たち船越教会は、ご存知のように「横須賀平和センター宣言」をしている教会です。「横須賀平和センター宣言」文は以下の通りです。 
  • 「私たちは、先の戦争に対する責任を自覚し、いのちを脅かす貧困、差別、原発、軍事力をはじめとするあらゆる暴力から解放されて、自由、平等、人権、多様性が尊重される平和な世界の実現を求め、共にこの地に立つことを宣言します」。
  • これは明らかにイエス神の国運動への参与を示す宣言です。
  • 先週の日曜日の説教はÑさんによって、マルコによる福音書1章16節以下のイエスが「四人の漁師を弟子にする」箇所をテキストにして、「呼びかけに応えて」という説教題でお話されました。私はお休みしてお聞きして言いませんが、このマルコ福音書の箇所も、今日のマタイの箇所を同じイエスが弟子を選ぶ物語です。
  • 私たちキリスト者もイエスの弟子の一人として、イエスの弟子集団としての教会の仲間に加わっているのではないかと思います。そうであるとすれば、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた(岩波訳「腸がちぎれる想いにかられた」)」というイエスの他者の痛みへの共感を、私たちも共有し、イエスの働きを引き継ぐ者として招かれていることを覚え、イエス神の国運動に参与していきたいと願います。