なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(79)

5月31(日)ペンテコステ礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットで平井さんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

 

③ 讃 美 歌  13(みつかいとともに)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21 13(みつかいとともに) http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-013.htm ⓸ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 

⑤ 交 読 文  104編24-30節(讃美歌交読詩編114頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書17章1-13節(新約32頁)

        (当該箇所を黙読する)

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 

⑧ 讃 美 歌    475(あめなるよろこび)

讃美歌21  475(あめなるよろこび) http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-475.htm

 

説教 「変容」 北村慈郎牧師

祈祷

  • 今日はペンテコステ聖霊降臨節)ですが、自粛生活が続いて、すっかり教会歴を忘れてしまって、週報を作る時になってはじめて気が付きました。そのために今日の説教個所は、マタイ福音書の続きで、ペンテコステとは関係ありません。お許しいただきたいと思います。
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  • さて、生前のイエスの地上における生涯は、悪霊に象徴されている悪魔的な力との血みどろの闘いや、イエスの生き様に立ちふさがる勢力との論争と対決の連続であり、最期は苦難と十字架による死という、まことに悲惨な生涯でした。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子には枕するところがない」とは、イエスご自身の言葉です(マタイ8:20)。
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  • そのようなイエスに従った弟子たちも、イエスと行動を共にしていましたが、マルコによる福音書では特イエスのことを理解できない無理解な人たちでした。

 

  • しかし、マタイによる福音書の弟子たちの描き方は、マルコによる福音書とは違って、多少好意的です。マタイ福音書の描く弟子たちも、マルコ福音書の描く弟子たち同様、イエスに対するは無理解な面を持っていました。たとえば前回の説教で触れましたが、今日のマタイ福音書の箇所の直前の箇所ですが、受難と復活の予告をしたイエスをわきへ連れて行き、諌めたペトロは、イエスから、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(16:23)と、厳しく叱責されています。

 

  • ただ今日の箇所では、6節、7節、13節はマルコやルカの並行記事にはなく、マタイだけにしかないところですが、そこでは弟子たちは好意的に描かれています。6節7節を読んでみます。「弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らの手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない。』」 13節は、「そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った」とあり、弟子たちがイエスの言われたことを理解したと記されているのです。ここには、イエスと弟子たちとの関係が好意的に描かれています。

 

  • そういうイエスと弟子たちとの良好な関係があったとしても、イエスの地上の生涯は大変厳しいものでした。十字架刑はイエスの生涯の厳しさの極みと言えるでしょう。

 

  • 富田正樹さんが書いた『信じる気持ち~はじめてのキリスト教~』という本があります。その本の中で「神さまは信じないと罰があるんですか?」という問いに対して、「それはイエスが嫌ったことではないでしょうか」と富田さんは答えているところがあります。そのところにこのように記されています。

 

  • 「イエスは、十字架につけられ、苦しみの極限を味わいながらも、なおこのように祈ったと伝えられています。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』(ルカ23:34)。ここまで人をゆるす愛があるのですから、私たち人間がちっぽけな心で、『神さまを信じないと、ひどい目にあうぞ』などと言ってみたところで、そんなものはイエスの大きな愛の前には何の意味もありません」。

 

  • こういうイエスの存在が事実であるとするならば、イエスって一体どういうお方なのでしょうか。私は、今日の聖書箇所が告げています山上におけるイエスの変貌(変容)に、そのようなイエスの秘密を理解できるヒントがあるように思えてなりません。

 

  • 3人の弟子たちと登った山の上で、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなっ」て、そこに現れたモーセとエリヤとイエスは語り合っていたというのです。

 

  • そして3人のお弟子たちは、光り輝く雲に覆われて、その雲の中から声があって、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言われたというのです。

 

  • この山上の変貌(変容)と言われています出来事が、ペトロ、ヤコブヨハネという3人の弟子たちが経験した実際の幻視体験であったのかどうかは、よくわかりません。教会が誕生した最初期にこの3人は教会の指導的な立場にあったと思われますから、彼ら3人の指導性を裏付ける、実際の幻視体験ではなくて、創られた物語だったのかもしれません。

 

  • 何れにしろ、この山上の変貌(変容)の出来事の中で、3人の弟子たちが出会ったイエスは、その姿が彼らの前で変わり、≪顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなっ≫(2節)ていたのです。そして、そこにモーセとエリヤが現れて、イエスと語り合っていた、というのです。

 

  • この情景は、3人の弟子たちとは全く異なる民族的、文化的背景の中にいます私たちには、荒唐無稽な幻視体験の一種くらいにしか思えないかもしれません。けれども、イスラエルの民であるこの3人の弟子たちにとっては、自分たちが弟子として従っているイエスが何者であるのかを、決定的な形で知ることができた特別な経験だったと思われます。
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  • 山上で変容したイエスは、神の子、メシヤそのものなのです。神の愛する子であり、神の御心に適う者なのです。神のいのちそのものに完全に生かされてある者なのです。そういうキリストがイエスなのです。神のいのちは死を生に変える永遠の命です。憎しみに勝る愛です。イエスはその神のいのちが受肉した方なのです。

 

  • かつて3人の弟子たちの先祖であるイスラエルの民は、エジプトで奴隷として生きていた時に、神がモーセを指導者に立てて、奴隷の民であったイスラエルをエジプトから解放してくださいました。そのエジプトから解放してくださった神の民として、神の前に、神の定め(十戒)を守って、隣人の命と生活を奪うことなく共に生きて行くことを約束した誓約(契約)共同体として、イスラエル民は再出発しました。その時のイスラエルの民の指導者がモーセ、その人です。モーセは、この民をカナンに導き入れるまでに、40年の荒野の苦難を一身に負った人物です。

 

  • そしてエリヤも、このイスラエルの民の危急に臨んでアハブ王(イスラエル北王国の王、在位紀元前871-852年)の暴政に抗し、身を挺して闘った人であって、「行動の預言者」と呼ばれている人物です。エリヤはその行動を通して、イスラエルの民をモーセの教えに立ち帰らせようとしたのです。旧約聖書の締めくくりの書であるマラキ書が、「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、私は預言者エリヤをあなたがたにつかわす」(マラキ4:5)という言葉でしめくくられているのを見ても、エリヤがいかに強烈な印象を後の人々に残したことがわかるでしょう。

 

  • ですから、イエスの先駆者として登場した洗礼者ヨハネがエリヤの再来とされたこともうなずけるでしょう。

 

  • 山上の変貌(変容)の物語で、「(そ)の姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)イエスが、このモーセとエリヤと語っていたということは、イエスモーセとエリヤの偉業を引き継ぎ、それを完成させる救い主(メシヤ)であることを物語っていると思われます。

 

  • 3人が語り合っているのを見て、ペトロは、3人のために小屋を三つ建てましょうと、言い出したというのです。すると、≪ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という声が雲の中から聞こえた≫(5節)というのです。

 

  • エスに対して≪「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえた≫というのは、イエスが洗礼を受けた時も同じでした(マタイ3:17)。

 

  • エスの活動の出発点であった洗礼を受けた時と、イエスの活動が十字架に向かって一歩一歩近づいていく後半に移る起点となっている山上の変貌(変容)で、同じ「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声が聞こえたというのです。

 

  • 山上の変貌(変容)の天からの声には、「これ(彼)に聞け」が付け加えられています。

 

  • 髙橋三郎さんはこのように語っています。「そしてこれは、イエスモーセとエリヤのために、小屋を作ろうと申し出たことに対する答えと見るべき言葉である。弟子たちにいま求められているのは、霊的高揚の中で天的存在と一つに結ばれ、宗教的恍惚を楽しむことではなく、イエスの御言に聞き従うこと、そして死に至るまでの服従を貫くことである。それは十字架の道であらざるを得ない。しかし人の目には挫折また敗北と見えるこの受難の道は、父なる神のよみしたもう義の道と信じて、どこまでもイエスの御後に従うことができるための基盤が、ここに据えられたのである」と。

 

  • 天からの声を聴いた後、≪一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた」(9節)と言われています。

 

  • ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白に対して、16章20節で≪イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、弟子たちに命じられ≫ましたが、ここでも同じ沈黙が命じられているのです。

 

  • その理由は、栄光輝くメシア像が広まって行けば、見当違いなメシア待望論がそこから生まれることを、きびしく阻止するためであったと思われます。真のメシア観は十字架と復活を経て初めて、その全貌が明らかになるからです(高橋三郎)。

 

  • 事実この山上の変貌(変容)に立ち会った3人の弟子たちも、他の弟子たちと共に、イエスの受難と十字架への道行きの過程では、イエスモーセとエリヤの偉業を引き継ぎ、イスラエルの民を隣人の命と生活を奪うことなく、隣人と共に生きる神の民として解放するメシア、救い主と信じることができず、イエスを裏切ってしまいました。

 

  • 弟子たちはイエスの復活を通して、受難と十字架の道を極みまで歩まれ、命と生活が脅かされている隣人の友のなって生きたイエスに従って、自分たちも苦難を恐れず生きていくことへと招かれました。それこそが、隣人の命と生活を奪わずに、隣人と共に生きる神の民の一員として生きていくことなのだと。

 

  • エスは何より命と生活が脅かされている隣人の友として生きることによって、イエスを十字架にかけたピラトや大祭司たちを含めて、すべての人の友として十字架の人となったのではないでしょうか。イエスの十字架がイエスの大きな愛であるとすれば・・・。
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  • 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これ(彼)に聞け」。

 

  • この言葉を、本当に多くの人々の命と生活が脅かされているこの今の状況の中で、私たちにも語りかけられている招きの言葉として聞きたいと思います。そしてイエスに従って生きていきたいと思います。
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祈ります。

 神さま、今日も礼拝に連なることが許され、心から感謝いたします。

今日は山上の変貌(変容)の記事から、イエスが私たちにとってどのような救い主であるのかを教えられました。イエスの十字架の愛は、この世で命と生活が脅かされている人の友となった愛ですが、同時に隣人を収奪する人への怒りによる、そのような人々への愛でもあります。その意味で、私たちすべての人間の救いは、イエスの十字架の向こうにしかないことを、改めて知らされました。

 神さま、私たちは肉の思いから完全には解放されませんが、私たちの心に、イエスの十字架を負って生きることのできるあなたの霊の風を送ってください。

あなたの命を受けて、イエスの小さな友として隣人と共に生きていくことができますようにお導きください。

今も様々な苦しいの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 299(うつりゆく世にも)

讃美歌21 299(うつりゆく世にも) http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-299.htm

 

⑪ 献  金

(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

                     

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)

讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

 

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

 これで礼拝は終わります。