なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(80)

6月7(日)聖霊降臨節第2主日礼拝(通常10:30開始)

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

 

③ 讃 美 歌  16(われらの主こそは)を歌いましょう(各自歌う)。

https://www.youtube.com/watch?v=_rdeF_dqznA

⓸ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 

⑤ 交 読 文  37編23-29節(讃美歌交読詩編40頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書17章14-20節(新約33頁)

        (当該箇所を黙読する)

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 

⑧ 讃 美 歌    521(とらえたまえ、われらを)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-521.htm

説教 「山の下での出来事」 北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 天と地、栄光と悲惨、光と闇、希望と失望、生と死、信仰と不信仰、そのような対照的な現実に、私たちは戸惑い、揺れ動かされるものです。
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  • 今日のマタイによる福音書の記事と前回の17章1節から13節までの山上の変貌の出来事を描く記事とは、ちょうどそのような対照的な世界を私たちに示しているように思われます。

 

  • 山の上では、光り輝くイエスモーセとエリヤと語り合っていました。そして、その光り輝く雲に覆われていたペトロとヤコブヨハネの3人の弟子たちは、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という天からの声を聞いたのです。

 

  • 3人の弟子たちは非常に恐れました。するとイエスが彼らに近づいて手を触れて、「起きなさい。恐れることはない」と語りかけます。そして「彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった」というのです。
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  • この山上での光景は、山の下で繰り広げられています問題に満ちた世俗の世界の現実から超越しているかに思われます。この山上での出来事は、この世に生きている人間がさまざまに背負う苦しみから解き放たれた、終末の、神が全ての全てとなられる神のみ国そのものを垣間見せているのかも知れません。

 

  • それは、まさに、ヨハネ黙示録の著者が語るような世界です。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。・・・・そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(21:1,3-4)と。
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  • けれども、イエスと3人の弟子たちが山から下りてきて群集のところに行くと、≪ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言いました。「主よ。息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした」≫(14-16節)と。

 

  • ≪イエスはお答になった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」。そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた」≫(17-18節)というのです。

 

  • ここには、イエスと3人の弟子たちが山の上にいった後、山の下で残された弟子たちの間で起こっていた出来事が記されています。残された弟子たちのところに、てんかんの子を持つ父親が来て、その子の癒しを願ったのでしょう。しかし、弟子たちはその父親の期待に応えられませんでした。その子から悪霊を追い出して癒すことが出来なかったのです。

 

  • それに対してマタイのイエスは、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」と嘆かれたというのです。マルコの並行記事には、「よこしまな」という言葉はありません。「なんと信仰のない時代なのか」だけです。この「よこしまな」という言葉は、「まっすぐな道をねじ曲げる」とか、「正しい道から脇へそらせる」というような意味の動詞の受動態であって、手のつけようのない倒錯に落ちいっている様子を語る言葉です。

 

  • マタイ福音書記者の意図としては、山上の変貌の出来事を描く、山の上の栄光に輝く荘厳な世界と、悲惨の渦巻く山の下の地上の現実を、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」という「不信と倒錯」という言葉で対照的に描いたのではないかと思われます。

 

  • けれども、「父親が連れてきたてんかんの子を癒すことができなかった、山の下に残っていた弟子たちの無能と、苦悩を訴える父親の嘆き」を知って、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」とまでイエスが慨嘆されたというのは、話の筋だけを追う読者の心には、過剰な反応に感じられるのではないでしょうか。

 

  • 実はこの部分のマタイの記述は、マルコの並行記事(マルコ9:14-29)と比べますと、大幅にカットされています。マタイ福音書の記者はそれでよいと考えたのでしょうが、マタイの記述では過剰と思われるイエスの反応は、マルコの記述を読むと納得できるように思われます。

 

  • マルコ福音書の並行記事では、この過剰と思われるイエスの反応の前に、このように記されています。≪一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが。できませんでした。」≫(マルコ9:14-18)。

 

  • 「つまり山の麓では、重いてんかんに苦しむ子供をそっちのけにして、騒然たる議論が続いていたのである。しかも律法学者といえば、聖書の言葉に基づき、民に救いを示すべき責務を負う人々であった。しかし民の苦悩はその眼中になく、無意味な論争に明け暮れするこれらの宗教人の姿の中に、神不在なる世界の悲惨が、切実に露呈している。『不信仰な歪んだ(よこしまな)時代』というイエスの言葉は、まず第一に、この事態を突いているのではあるまいか」。

 

  • 「しかしそれと併せて、弟子たちの無能ということも、彼らにおける『神不在』の現れとして、指摘されているであろう。そしてまた、このてんかんの子を持つ父親が、彼らの無能を訴えざるをえなかった心境は、無理からぬこととして一応理解できるとしても、単なる詰責に終わっているところに、地を裁く心の高ぶりが露呈している。つまりここに登場するすべての人々を通して、『不信仰な歪んだ(よこしまな)時代』の種々相が、明るみに出たのである」(高橋三郎)。

 

  • アフリカの格言だそうですが、「人の病の最高の薬は人である」という格言があるそうです。この格言からしますと、子供から悪霊を追い出すことのできなかった弟子たちは、病んでいる子やその子を持つ父親の薬になれなかったということではないでしょうか。しかし、子供から悪霊を追い出したイエスは、その子と父親の薬になれたのです。

 

  • その違いは何でしょうか。イエスには奇跡力があって、弟子たちには奇跡力がなかったということでしょうか。もしそうだとしても、では奇跡力とは何でしょうか。「人の病の最高の薬は人である」ということからすれば、病んでいる人やその肉親にどう寄り添うかということではないでしょうか。

 

  • マタイによる福音書の8章14節以下に「多くの病人を癒す」イエスについて記されていますが、その最後に「それは、預言者イザヤを通して言われていることが実現するためであった」と言われていて、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」という第二イザヤの苦難の僕の一節が引用されています。

 

  • 子どもの病を癒すことが出来なかった弟子たちは、その病んでいる子どもとその子の父親の重荷を一緒に負い、担えなかったのでしょう。けれども、イエスはそれができたということではないでしょうか。共に苦しむ人が共に喜ぶことができるからです。

 

  • マタイによる福音書の17章19節以下には、弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った、と言います。するとイエスは、「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとりになる。あなたがたにできないことは何もない」と答えたとあります。

 

  • 山を移すほどの力となる「からし種一粒ほどの信仰」ということで、イエスは何を言っているのでしょうか。

 

  • おそらくイエスはご自身の信仰(信)について言っているのではないかと思います。イエスは、マタイによる福音書では誕生の時に「インマヌエル」と呼ばれる、と言われています。その名は「神われらと共におられる」という意味です。

 

  • 「神われらと共におられる」とは、神不在ではなく、神の臨在です。神が与えてくれた命をもって、神との関係において様々な他者との関係を自分らしく生きるということでしょうか。神が共におられる者にはそれが可能なのです。

 

  • からし種一粒ほどの信仰」とは、そういう神との関係において、からし種一粒ほどでも関係があるなら、ということを言っているのではないでしょうか。

 

  • 神の命を川の水に譬えてみたいと思います。洪水は私たちにはマイナスのイメージですが、神の命を水に譬えますと、洪水はプラスのイメージに変わります。

 

  • 通常洪水を避けるために、川の両岸には堤防が築かれていて、人が住んでいるとことまで川の水が溢れてないようにしてあります。神無しに生きる人間は、堤防を頑強に作っている人です。しかし、その堤防に小さな穴が開いているとします。大雨が降って激流となった川の水は、小さな穴から堤防を突き破って侵入してきます。

 

  • エスの奇跡はそういう人間の側の堤防が決壊して、全面が水浸しになる様を表しているのでしょう。てんかんの子は社会の規範から解放されて、その子らしく受け止められて、その子と共に生きるインマヌエルの世界に生かされて生きる希望が、イエスによって与えられたのです。父親にもです。

 

  • からし種一粒ほどの信仰を与えられて、私たちもインマヌエルの世界を、神が臨在する世界を、この神とは堤防によって隔てられた神不在の現実社会にあって、共に生きていきたいと切に願う次第です。
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祈ります。

 神さま、今日も礼拝を共にすることが許され、ありがとうございました。

 今日は、神不在の悲惨な人間の現実を嘆く、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」というイエスの言葉を思いめぐらしました。この言葉は現在の私たちの生きる時代に向けられている言葉でもあります。そのような時代の中にあって、からし種一粒の信仰を私たち一人一人にも与えてください。

今田んぼには水が注がれて、新しい苗が植えられています。その一本一本の苗のように、私たち一人一人が神の命の水によって成長していくことができますように。そのようにしてこの悲惨な時代と世界に私たちが灯を掲げていくことができますように、お導きください。

今も様々な苦しいの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 356(インマヌエルの主イエスこそ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-356.htm

 

⑪ 献  金

(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

                     

⑫ 頌  栄  28(み栄えあれや)

https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

 

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

 これで礼拝は終わります。