なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(81)

6月14(日)聖霊降臨節第3主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットで平井さんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

 

③ 讃 美 歌  17(聖なる主の美しさと)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21 17(聖なる主の美しさと) http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-017.htm ⓸ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 

⑤ 交 読 文  詩編29編1―11節(讃美歌交読詩編30頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書17章22-27節(新約34頁)

        (当該箇所を黙読する)

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 

⑧ 讃 美 歌    418(キリストのしもべたちよ)

讃美歌21 418(キリストのしもべたちよ) http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-418.htm

説教 「躓かせないために」 北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 現在の安倍政権の、F35戦闘機105機爆買いや辺野古新基地建設強行のような、税金の使い方からすると、納税するのを考えてしまいます。給与生活者は所得税源泉徴収されますし、消費税も自動的に物価に反映されていますので、税金を払わないということが、なかなか難しいわけです。以前自衛隊の存在は憲法9条違反なので、軍備費分の税金を払わないという運動がありました。インターネットで調べてみましたら、今でもその運動は続いているようです。「良心的軍事費拒否の会」という会があって、その会ではこのような呼びかけをしています。
  • 「軍隊のための 税金を わたしたちは もう払わない。 払うのは やめよう!!/ご存知ですか?/私たちが知らず知らずのうちに憲法違反の自衛隊という軍隊のために税金を払い、しかも世界有数の、“軍隊”に育てあげていることを、あなたはご存知でしょうか。その額は私たちの税金のうち、毎年6%ほど。自衛隊憲法違反であることを考えてみれば、この分は全く支払う義務のないものです。人間のいのちは、ほかの何ものにもかえられません。/また軍隊が「国家」「防衛」の名による大量殺人である戦争をする組織であり、そのために、私たちの税金が使われることは、良心的にも許しがたいことです」。そこで「良心的軍事費不払い」を、と呼びかけているのです。確定申告をする方は、税額から軍事費分の税金を差し引いて税金を払います(支払い留保)。サラリーマンなら源泉徴収されている税金から軍事費にあたる分を戻せと請求します(還付請求)。
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  • 私は面倒くさがりなので、その趣旨は賛成ですが、申し訳ないですが、実際には還付請求をしていません。

 

  • 最初に税金の話をしましたのは、今日の聖書箇所が税金の話だからです。

 

  • マタイによる福音書では、イエスの2回目の受難予告の後に、ほかの福音書には出てこないマタイによる福音書だけに出てくる「神殿税を納める」かどうかを巡る問答が続いています。こういうマタイによる福音書だけにしか出てこない部分を、マタイの特殊資料と言います。
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  • 当時のユダヤ教徒の20歳の男子は、毎年2ドラクマ(半シケル)を神殿税として納める定めでありました。「半シケルは、当時は大人一人が宿屋にかなりの日数泊まれる額であった」と言われます。ですから、結構な額だったようです。その起源は遠くモーセ時代にさかのぼるとされています。出エジプト記30章11節以下の記述によれば、イスラエルの民に属する20歳以上の男子は、会見の幕屋(つまり聖所)の費用に当てるため、半シケルを主に捧げるように指示された、と言われています。これによって罪の贖いが得られると考えられていたようです。そして富める者も,貧しい者も、等しくこの額を納めたと記されている。これが神殿税の起源とされているのですが、これは神殿を中心とする宗教団体への帰属の証しであると共に、聖所の営みを支える経済的基盤でもありました。

 

  • しかし、マタイによる福音書が書かれた時には、既にエルサレム神殿はローマによって破壊されてありませんでした。にも拘らず、神殿税を納めるかどうかについてのこの説話をマタイが自らの福音書に書き残したのは何故でしょうか。

 

  • マタイが福音書を書いた時にも、税金を納める神殿は違いますが、ユダヤ教徒には神殿税と同じ額の税金がローマの官憲によって課せられていて、それはジュピター神殿に納入されていたと言われます。

 

  • 元々神殿税は、地中海沿岸の様々な地方に散在していていたユダヤ人を含めて、ユダヤ人が毎年祭りの時都上りをするという巡礼の旅と併せて、ユダヤ教団の統合(一体性)を現実に支えていたのです。神殿が紀元後70年にローマ軍によって破壊されるまでユダヤ人は神殿税を納めていました。70年後は、ユダヤ人にとってはローマの官憲によって督促されて、ジュピター神殿に神殿税として納めさせられていたのです。

 

  • 新しく生まれたキリスト教徒にとって、神殿税を納めるか納めないかは、たとえ70年以後のエルサレム神殿崩壊以後も、特にマタイの教会はユダヤ教徒との関係が密接でしたので、切実な問題でした。

 

  • このマタイの説話では、イエスキリスト教徒も神に仕える神の子どもだから、ユダヤ教徒の神殿税は本来納める必要はないが、ユダヤ教徒を躓かせないために、納めなさいと、イエスは言っています。そしてイエスは、奇跡によって得た銀貨で、ペトロに向かって「わたしとあなたの分として納めなさい」と言っているのです。
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  • 税金は、税金を納めるところに私たちが所属していることを表すものです。所得税や消費税を私たちが納めているのは、この二つは国税ですから、日本の国家に所属していることを示しています。地方税の場合は、横須賀に住んでいる人ならば、県税は神奈川県に、市税は横須賀市に納めます。そのことこによって自分が神奈川県と横須賀市に属していることを示しています。

 

 

  • マタイによれば、キリスト教徒は、オーム真理教のように自分たちの国をこの世につくろうとはしません。心はこの世の国や共同体に所属せず、イエスと神のみ国を仰ぎ望んでいますが、体はこの世の国に言いなりというわけではありませんが、一応死ぬまで属しています。いわゆるアナキスト無政府主義者ではありません。

 

  • このマタイ福音書の個所では、神の国の民の一員として、この世の国に属しているわけではないので、税金は本来納める必要はないのですが、人々を躓かせないために税金は納めるようにと、イエスがペトロに語っているのです。

 

  • 果たして本当にイエスは、このようなことを語ったのでしょうか。自分たちは神の子なのだから、本来は税金を納める必要がないが、≪彼ら≫(徴税人)をつまずかせないためという理由で納税を肯定しているのです。このイエスの姿勢は、「しなくてもよいことをするというのであって、これは自由を放棄して現実に妥協することに近い」ものです。もしこのようなイエスの姿勢であれば、イエスは十字架にかかることもなかったのではないでしょうか。

 

  • これは明らかにユダヤ教を信じるユダヤ人集団の中にあったマタイ教団が、ユダヤ教団との軋轢を避けるために、イエスをしてそのように語らせたものではないかと考えられます。

 

  • それにしても人を「躓かせないために」というのは、大切なことですが、難しい課題です。「人を躓かせない努力をすることと、そのために本質的なところで譲歩することとの関係について十分な反省をしていない」と、人を躓かせないためにという理由で、譲歩してはならないことまで譲歩してしまうこともあり得るからです。

 

  • 同じような躓きの問題をパウロは、偶像に備えられた肉を食べるかどうかで、コリントの信徒への手紙 一、8章13節でこのように語っています。≪それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません≫と。

 

  • この場合のパウロは、「兄弟への愛のゆえに、してもよいことをあえてしないという自制の方向」で、躓かせないためにと言っているのです。ですから、パウロの場合は、本質的なところを譲歩しているわけではありません。

 

  • 私たち信仰者は、パウロの言うように「国籍は天にある」とは言え、一市民として現実社会の中で生活しています。私たちが生活しているのはこの日本社会です。日本人であれば日本国籍を所有しています。その意味で、キリスト者はある種の二重国籍をもつ者と言えるかもしれません。

 

  • パウロは「この世の有様は過ぎ去る」(第一コリント7:31)と信じていました。しかもその定められた時が迫っていると信じていました(同7:29)。ですから、パウロはコリントの教会の信徒にこう言っています。

 

  • 「今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです」(同7:29-31)と。

 

  • さらにパウロは申します。「思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしたちが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えるためなのです」(7:32-35)。

 

  • 最後に『教会を必要としない人への福音』という本の中にある一つの証を紹介して終わります。

 

  • 「私は幸せで、満ちたりていました。私には毎日がほんとうに喜びにあふれていて、祝福が降り注ぐ中で生活していました。そのとき、主イエスが私に示してくださったです。自分の幸福を利己的に追求することや、自分の問題でかかり切りになることから抜け出すとき、もっと大きな喜びの生活を迎えることができるようになるということを、他者のために、そして主イエスと主イエスのみわざのために自分のいのちを失うことによって、私に与えられている祝福を自分よりもずっと大きなことのために用いることによって、私はほんとうの人生を見出したのです」

 

  • この世に属しながらこの世を超えて生きる道を、イエスと共に歩んでいきたいと思います。
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祈ります。

 神さま、今日もこの船越教会で礼拝を共にできましたことを、心から感謝いたします。

今日はマタイ福音書の神殿税の物語から、この世に生きながら、この世の束縛から自由に生きる、私たち信仰者の生き方について考えさせられました。

 私たちは、イエスに従って生きることによって、この世に平和と和解の喜びをもたらすことができると信じています。この社会の現実に妥協して、信仰を歪めることなく、私たちがイエスに従って生きることができますように、聖霊の導きを豊かにお与えください。

 まだまだこの地球では、新型コロナウイリス感染が拡大しています。今後医療体制の整っていないアフリカの国々や難民キャンプでの感染拡大が心配です。どうかすべての国が協力し合って、このコロナ感染拡大に対処できますようにお導きください。

 今も様々な苦しいの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 342(神の霊よ、今くだり)

讃美歌21 342(神の霊よ、今くだり) http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-342.htm

⑪ 献  金

(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

                     

⑫ 頌  栄  28(み栄えあれや)

讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo 

祈 祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

 これで礼拝は終わります。