なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(112)

2月14日降誕節第八主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。            (ヨハネ3:16)

③ 讃美歌    17(聖なる主の美しさと)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-017.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編107編10-22節(讃美歌交読詩編120頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書26章69節―27章10節(新約55頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  298(ああ主は誰がため)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-298.htm

 

説教 「ペテロの否認とユダの裏切り」  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • エスの受難と十字架の出来事には、私たち人間の現実の姿が赤裸々に描かれているように思われます。

 

  • 貧しい人々や苦しんでいる人々を癒し助け、神の国の福音を宣べ伝えていたイエスガリラヤ伝道時代には、イエスに従う弟子たちは、イエスによって無理解を批判されることはありましたが、一致してイエスの働きに加わっていました。イエスに対して、よもや弟子たちの中にイエスを否定したり、裏切ったりする、イエスに従い得ない人間としての暗闇があるとは思えませんでした。イエスガリラヤ伝道時代には、そのような弟子たちの人間としての暗闇は露になっていませんでした。覆い隠されていたのです。

 

  • エスガリラヤ伝道時代を平常時だとすれば、エルサレムにおけるイエスの受難と十字架は非常時といえるかも知れません。実際私たち自身においても、平常な時には覆われ、隠れていた自分自身の悪しき本質が、非常時には見事に表れてしまうという経験をした人は多いのではないでしょうか。イエスの弟子たちにとっては、ガリラヤ伝道時代の平常時には覆われ、隠れていたイエスを否認し、裏切るという自分自身の悪しき本質が、エルサレムにおけるイエスの受難と十字架という非常時に現れてしまったということかも知れません。

 

  • 苦しんでいる民衆がイエスをメシアとして期待します。その期待感が人から人へと伝わって大きなうねりになっていきます。民衆の指導者であった律法学者、ファリサイ人にとっては、彼らの立場を危うくし、ユダヤ社会の秩序を乱すものとして、イエスとイエスの運動が見えました。彼らはイエスに論争を挑みますが、ことごとくイエスによって論破されてしまいます。もはや論争ではイエスに勝てないと思った彼らは、律法違反者としてイエスを訴えようとします。

 

  • そして、ホサナ、ホサナという群集の歓呼の叫びに迎えられて、イエスと弟子達の一行はエルサレムに入城しました。あたかも王様の到来を歓迎するような群衆の動きに、大祭司をはじめとするユダヤの権力者たちも、その背後にあってユダヤを支配していたローマの総督ピラトも、恐れを感じたことでしょう。彼らは暴動が起きて、彼らの地位が覆るのではないかという不安をもったかも知れません。

 

  • 先ほども触れましたように、律法学者、ファリサイ人からは、イエスとその弟子たちはユダヤ社会の秩序を乱す律法違反者だという訴えもありました。ユダヤの権力者たちは、イエスを逮捕し、裁判にかけて、神を冒涜したとして、ピラトに引き渡します。ピラトは大祭司らの意をくんだ民衆が十字架につけよと叫ぶのを聞いて、イエスを十字架刑、磔刑に処します。

 

  • このイエスの受難と十字架の出来事の中で、弟子達も彼ら自身の本質を露にさせられてしまいます。その弟子達の代表として、片やペトロがおり、片やイスカリオテのユダがいます。イエスの受難におけるペトロとイスカリオテのユダの振る舞いにについて、今日のマタイによる福音書の箇所が私たちに伝えています。

 

  • ペトロは、イエスの予告どおりに鶏が鳴く前に3度イエスを知らないと言って、イエスを否認します。ペトロのイエス否認の2番目の言葉は、「そんな人は知らない」(26:72)です。「そんな人」という言い方には軽蔑がこめられています。そのペトロは、イエスがペトロの否認を予告した時には、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(26:35)と言っていたのです。

 

  • 人間って弱いですね。イエスは、大祭司のところに連れて行かれて裁判を受け、ピラトに引き渡され、十字架刑に処せられようとしているのです。イエスの生涯の中では一番大変で辛い時です。人間としてのイエスにとっては、そのような自分に寄り添ってくれる他者がいたら、どんなに慰められたことでしょうか。まさにそのような時に、一番弟子のペトロが、「そんな人は知らない」と言ったわけです。イエスはそういう自分を否認する弟子のペトロの弱さも背負って黙々と十字架に赴いていくのです。

 

  • ペトロの否認だけではありません。イスカリオテのユダの裏切りもあります。イエスを裏切って、銀貨30枚で祭司長たちにイエスを売ったユダは、イエスに「有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った」(27:3,4)というのです。大祭司たちは「『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」(27:4,5)というのです。

 

  • このユダの自殺の記事は、使徒言行録の中にはありますが(使1:18-19)、福音書ではマタイだけにしか出てきません。

 

  • このユダの自殺の記事が事実を伝えているとすれば、ペトロ以上にユダはまじめな人間だったように思われます。ユダは、大祭司らに銀貨30枚でイエスを売って、イエスに対する裏切り行為をしたのです。ところが、イエスがすんなりローマ総督ピラトから有罪判決を受けたのを知って、後悔したというのです。

 

  • 後悔するくらいだったら、ユダはイエスを裏切らなければよかったのに、と思います。でも、ユダは銀貨30枚でイエスを売って、イエスを裏切りました。このユダがイエスを裏切った時、ユダは後で自分が後悔するとは思っていなかったのでしょう。ユダは銀貨30枚が欲しくて、イエスを裏切ったわけではありません。ユダは自分の裏切り行為に触発されて、イエスがメシアとして立ち上がり、ユダヤの国を変えてくれることを願ったのかも知れません。そういう解釈もあります。しかし本当のところ、ユダの思いは分かりません。

 

  • ただこのことだけは事実のように思われます。ペトロはイエスを三度知らないと言ってイエスを否んだにも拘わらず、イエスの復活後に誕生したエルサレムの教会では代表的な指導者になったということです。それに対して、イスカリオテのユダは、自分がイエスを裏切ったことを後悔してか、首をつって自ら命を絶ってしまったということです。

 

  • このペトロのイエス否認とイスカリオテのユダのイエスに対する裏切りと自殺という出来事は、何を物語っているのでしょうか。同じイエスの弟子の一人であり、否認と裏切りという行為の違いはありながらも、イエスに最後まで従うことができなかったということにおいては、二人は全く同じです。否認だから赦され、裏切りだから赦されないということではないと思うのです。

 

  • エスを否認したペトロでも、復活したイエスとの出会いもなくて、一人で自分の犯したイエス否認という負い目を担い続けていかなければならなかったとすれば、ユダと同じように自死しないまでも、精神的には死んだ人間として歩み続けなければならなかったのではないでしょうか。そうだとするならば、ペトロは、イエスの復活後に誕生した教会の担い手の一人になることもなかったに違いありません。ましてペトロがエルサレム教会の指導者の一人になるなんて、あり得ないことです。

 

  • エスを十字架につけたのは、ローマの総督ポンテオピラトであり、ユダヤの大祭司たちと長老たちであり、彼らにイエスを訴えた律法学者、ファリサイ人たちであり、そして、彼らに扇動されたユダヤの民衆でした。けれども、それだけではありませんでした。イエスを否んだペトロも、裏切ったイスカリオテのユダも、そして逃亡した他の弟子たちも、イエスを十字架につけた共犯者たちなのです。

 

  • けれども、ペトロとイスカリオテのユダの二人は、後の教会の歴史の中で、全く違った運命を辿っていきますが、それはなぜでしょうか。

 

  • 私は、イスカリオテのユダとペトロとの間には、イエスとの関係性において、わずかですが違いがあったように思います。しかし、そのわずかな違いが、私たち人間にとっては決定的な事柄を含んでいると思うのです。

 

  • 否認と裏切りは、二人が自分からイエスとの関係を断ち切った行為です。もし二人がイエスの受難と十字架の出来事において、イエスとの関係性に自分を賭けるとすれば、ユダもペトロもイエスと共に受難し十字架刑に処せられることにならざるを得ません。

 

  • 二人は、イエスの受難と十字架には関わりたくなかったのです。ですから、イエスとの関係性から退いて、自分単独での行為を選んだのです。それが、ペトロのイエス否認であり、ユダのイエスに対する裏切りだったのです。その他の弟子たちも逃亡という形で、イエスとの関係性から退いて、自分単独の行為をとりました。

 

  • そのために、イエスは独りで、孤独に、受難と十字架を引き受けていかなければなりませんでした。十字架上における「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか」は、孤独なイエスの悲痛な叫びです。

 

  • けれども、ペトロとユダは、同じようにイエスとの関係性から退き、否認や裏切りという自分単独の行為をとりましたが、その後の二人の歩みは全く違うものとなりました。ユダはイエスを銀30枚で売って、イエスを裏切ったことに後悔し、自死を選んでしまいます。

 

  • ペトロは、イエスが十字架にかけられて殺された後も生き延びて、他の弟子たちと自分たちにも危害が加わるのではないかと恐れて、隠れていました。そこに復活したイエスがやってきて、「平安があるように」と声をかけてくれたことが契機となって、再びイエスのとの関係性を取り戻し、イエスの弟子としてその後の彼の人生を全うするのです。

 

  • ユダは自分の裏切りという罪を後悔して、自分で自分自身に決着をつけて自死を選びました。しかし、ペトロは否認という自分の罪を後悔はしたでしょうが、ユダのようには、自分で自分自身に決着をつけることはしませんでした。その罪を抱えて生き延びる道を選んだのです。

 

  • ペトロ等にとって、復活のイエスとの出会いは、完全に受け身でした。イエスを否認し、逃亡した彼らは、復活したイエスが彼らのところに現れなかったならば、二度と再びイエスとの関係性に立ち返ることは無かったに違いありません。復活したイエスの方が彼らのところにやって来て、「平安があるように」と彼らに手を差し伸べたのです。だからペトロは再びイエスの弟子として立つことができました。

 

  • ルツはこのように言っています。マタイ福音書の著者は、そのペトロの否定的な面である「闇は根本においてそれほど悪くないというふうには理解せず、むしろ常に「インマヌエル」(神我らと共に)イエス・キリストの力は最高の闇よりも強いという経験から理解する。マタイはペトロの背反を軽く受け止めなかった。さもなければ、彼はペトロに信仰で最も中心的なものを、すなわち『イエスと共にいること』(69節、71節)を否認させはしなかったろう。しかし、彼はペトロにキリストの不屈と隠れたる勝利を対置させ、ペテロの副次的物語をキリストの本物語に埋め込む。その物語によってマタイの男女読者は方向づけを得て、自分たち自身の不安、自分たちの変節、また自分たちの悔恨でもって彼らが表現するものよりもっと力強い観点が存在することを経験するはずである。この観点から読まれると、ペテロの物語もまた一つの希望の物語となる」と。

 

  • イスカリオテのユダの裏切りについても、ルツは宗教改革の認識を紹介して、このように言っています。「宗教改革は、ユダの罪が『われわれの』罪であることを認識した。神の恵みに絶望した(ユダの自死は神の恵みへの絶望だと言っているのです)ユダは、宗教改革の神学においては、「「自分自身の内へと曲がりこんだ人間」の原型となる。すると、まさしく彼にとって、恵みによってのみ義と認められるという福音が有効である。なぜなら、キリストはあらゆる人間の罪のために、まさしくユダのためにも、死んだのだからである」と。

 

  • 私たちは、自分の弱さや自分の犯した過ちや罪に打ちのめされることがあっても、イエスとの関係性だけは自分からを断ち切らないようにしたいと思います。イエスにおける神の恵みの優位性を信じて。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイリス感染拡大が止まりません。そのために、教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 神さま、イスカリオテのユダはイエスを裏切り、後悔して自死したと、聖書は伝えています。ユダは、彼のためにもイエスが死んでくださったという、イエスの方からのユダへの働きかけを遮断して、「自分自身の内へと曲がり込んだ人間」として、自らの命を自ら断ってしまいました。このユダの自死は、私たち一人ひとりへの大きな問いかけのように、私には思われます。
  • 神さま、私たち一人ひとりも、イエスを通したあなたとの関係に自分自身を本当に開いているかが問われています。どうか神さま、イエスを通したあなたとの関係から、「自分自身のうちへと曲がり込む」誘惑に落ち込むことから、私たちを守ってください。そして幼な子のようにあなたを全面的に信頼して生きていくことができますように、私たちをお導き下さい。
  • コロナのワクチン接種が日本でも始まろうとしています。グローバル・サウスの人々がワクチン接種からとり残されるようなことがないように、すべての人が公平に摂取できるように世界の政治を導いて下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    197(ああ主のひとみ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-197.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                   

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

これで礼拝は終わります。