なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(5)

      使徒言行録による説教(5)使徒言行録1:15-26、
             
・最初期の信徒たちを悩ませた重大な問題の一つとして、イスカリオテのユダの裏切りをどう考えたらよいのかということがあったと思われます。それは、「神の子と信じられていたイエスが、事もあろうに十字架の刑に処せられ、無残な最期を遂げた」というイエスの字架の躓きと共に、誕生したばかりの教会が周囲の人々から受けた攻撃の一つだったかもしれません。自分の弟子に裏切られるような者は、ろくな存在ではないと、イスカリオテのユダの裏切りによって、イエス自身を貶める人々の嘲りが最初期の信徒たちを悩ませていたのではないでしょうか。

・十字架刑による無残な死を遂げたイエスについては、死から甦って、生ける復活の主イエスの顕現に出会って、弟子たちや信徒たちはその十字架の躓きを乗り越えていったと思われます。しかし、イスカリオテのユダの裏切りについては、イエスが彼を弟子に選んだことが失敗だったのか。イエスの選びが失敗でなかったとすれば、ユダの裏切りと死をどう考えたらよいのか?という問題に直面したのではないでしょうか。

・今日司会者に読んでいただいた使徒言行録犠15節以下、特に16節から22節までの使徒言行録におけるペトロの最初の説教では、そのようなイスカリオテのユダの裏切りが聖書(旧約聖書)の言葉の実現成就として語られています。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊ダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです」(16節)と。つまり、ユダの裏切りは、「イエスを捕らえた者たちの手引きをした」ということでは、「ユダの自由意思に基づくもで、神によって定められた行為ではないが、ユダの死とその結果は、聖書によって予言されている神の定めた計画と予知によるものだ」(荒井)というのです。

・ペトロの説教の中で、聖書の言葉として挙げられているのは、詩編の69編26節の「その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ」(20節)と、詩編109編8節「その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。」(20節)です。詩編ダビデの歌と考えられていましたし、ルカによれば預言者聖霊の器と考えられていましたので、「イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊ダビデの口を通して預言しています」と言われているのです。

・これらの詩編の言葉は、おそらくユダの裏切りと死について思いめぐらさざるを得なかった最初期のキリスト者たちが、この詩編の言葉に出会って、ユダの裏切りと死の理由をこの言葉に見出したということであろうと思われます。そのように既にあった初代教会の言い伝えを用いて、ルカはこのペトロの説教を創作したのでしょう。

使徒言行録の著者ルカにとりましては、イスカリオテのユダがその裏切りと死によって、イエスの12弟子の一人がいなくなってしまったということが重大なことでした。ルカは神の救済史としての「教会のはじめ」をこの使徒言行録で描きたかったと思われますから、イスラエル12部族を象徴的に表す12弟子の存在は欠かすことができませんでした。このことはルカ以前の初代教会の中にあった考え方で、そのためにイスカリオテのユダに代わる弟子となったマティアの選任が行われていたのかも知れません。もしそうであるならば、ルカはその伝承をこのペトロの最初の説教の中で用いたのでしょう。

・ところで、イスカリオテのユダの死については、このペトロの説教では、このように記されています。「ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルマダ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました」(18-19節)。

・しかし、マタイによる福音書27章3節から10節までのイスカリオテのユダの死についての記述では、ユダは自殺したことになっています。また、ユダはイエスを裏切ったことを後悔したことになっています。ちなみにその個所を朗読しておきます。「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし彼らは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げ、『これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない』と言い、相談のうえ、その金で『陶器職人の畑』を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで『血の畑』と言われている。こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『彼らは銀三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った』」。

イスカリオテのユダの死については、このように使徒言行録とマタイ福音書に記されているような二つの別の言い伝えがあったということでしょう。ルカは前者を選び、むしろユダの死よりもユダが12弟子の一人として与えられていたその務めに焦点を当てて、イスカリオテのユダに代わってマティアが選ばれたことを強調しているのではないかと思います。

使徒言行録の記述によりますと、イエスの昇天からペンテコステまでの間に起こった出来事の内で唯一記されているのが、この裏切り者のイスカリオテのユダに代わってマティアが12弟子の一人に選ばれたということだけです。ルカにはこのことが神の救済史にとっては大変重要な事柄だったのでしょう。けれども、イスカリオテのユダの裏切りと死については、ある意味では例外者の一人としての通り一遍の記述に終始していることにおいて、ルカの叙述やマタイ福音書の叙述だけでは不満が残ります。イスカリオテのユダの裏切りの問題は、私たち自身の問題として考える必要があります。

・まずイスカリオテのユダが裏切ったからイエスは殺されたのでしょうか。イエス殺害の下手人はイスカリオテのユダだという見方がありますが、たとえイスカリオテのユダが裏切らなかったとしても、イエスの殺害は避けられなかったのではないでしょうか。エルサレムの警察権を握っている大祭司を中心とするサンヒドリンの追跡を受けていたイエスは、イエス自身が逃げ出さなければ、逮捕されることは必然的だったと考えられます。イエスは逃げ出さなかったでしょうから、イスカリオテのユダの裏切りがなかったとしても、イエスの殺害は避けられなかったに違いありません。

・また、ユダはイエスによって選ばれ、イエスから弟子の一人として信頼されていたにも拘わらず、イエスを裏切ることになった訳ですが、それまでにはユダはユダなりに長いこと逡巡したに違いありません。ユダは当時のユダヤ人の中にいたローマからの独立を願う民族主義的な過激派である熱心党の人々と同じ精神を持っていたとすれば、イエスを政治的なメシアとして期待していたにも拘わらず、段々とイエスの振る舞いからそうではないことに気づいて、自分の期待とイエスの生き様との間に矛盾を覚え、その違いをどう考えたらいいのか悩んだに違いありません。そしてついにユダはイエスを裏切るという行為を選びとったということになります。ただユダがもしそのような思いを持っていたとすれば、何故率直にイエスに打ち明けなかったのでしょうか。また、彼はイエスを裏切ることを他の弟子たちには最後まで隠し通しました。そこにはユダの意志の強さを感じます。それだけに、彼は自分の考えと意志を貫き通したということになります。その結果、イエスは捕らえられ、死刑に処せられてしまいます。その時になって、事の重大性に気づき、ペトロのように泣き伏すこともなく、むしろ自殺するっことによって、自ら自分を処理する道を選びました。ユダの問題は、そのことにあるといえるのではないでしょうか。

・ユダはイエスを裏切り、自殺するまで、自分の思いにとらわれ、イエスがどのようなお考えなのか、イエスがこの自分のことをどんなにか大切に考え、神の前に共に生きる者として思っていてくれるのかということは、この時のユダには思いいたらなかったのではないでしょうか。つまり、ユダはイエスの弟子でありながら、イエスとの関係性に自らを賭けるのではなく、自分を貫いて、彼に与えられているイエスからの働きかけを見失ってしまったのです。その意味では、イスカリオテのユダは特別な人物ではありません。私たちが、悩みの深さと背負うべき重荷の重さと日々の思い煩いの中で、どうして自分はこうなのかという思いにとらわれてしまって、そのような自分にも太陽の光が注がれ、この自分を生かせてくれている方の存在があることを見失ってしまうのと、ユダの在り様とには、それほどの違いがないと思われるからです。その意味で、イスカリオテのユダは決して例外的な人物ではありません。

・高橋三郎さんはこのように言っています。「彼の裏切りは、たしかに憎むべき罪であった。しかし彼は、決して極端な例外者ではない。むしろすべての人の心にうごめく背きの衝動を、彼は一身に具現したのである。イエスは最後の晩餐に先立ち、その頭にナルドの香油をそそいだ女をたたえて、『全世界のどこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この女のした事も記念として語られるであろう』(マルコ14:9)と言われたが、これとは別の意味において、イエスの十字架が宣べ伝えられるところでは、どこでもユダの裏切りが語られるに至った。しかしこれは、一例外者に対する憎悪の発露であってはなるまい。むしろ罪とは何か(さし出された恵みを拒絶することこそそれだ)ということを、全世界に語り伝えるために、ユダは立たされているのではあるまいか」と言って、次のようにユダの存在からの語りかけをまとめています。「ユダはその全存在を挙げて、罪の実態をわれわれにさし示しつつ、死ぬなよ、絶望するな、主イエスのもとに立ち帰れと、地獄の底から叫んでいるのではあるまいか。われわれは痛ましい挫折のうちに終わった友人をここに見出すと共に、紙一重のきわどい所で救われたおのが身の幸いを感謝しつつ、ひたすらなる依り頼みによって、神のみもとに帰りゆきたく願うのである」(高橋三郎『使徒行伝講義』32-33頁)と。