今日は「牧師室から(40)」を掲載します。これも2001年に教会の機関誌に書いたものです。
牧師室から(40)
今は少しずつ工藤信夫氏の「心の援助シリーズ」三部作を読んでいます。多くのことに気づかさ
れていますが、その中の一つを紹介したいと思います。それは「評価的態度」と「理解的態度」の
違いです。
「私たちの人間に対する態度が、その人を理解しようとするよりも、すぐその言動を評価し断定し
てしまう傾向(評価的態度)を強くもっている」ことを指摘し、この評価的態度のもつ問題点を二
つ挙げています。一つは、評価的態度は自分の価値基準や判断基準を基に、相手に対して評価や判
断を行うため、両者の関係は、攻める者と守る者、さばく者とさばかれる者といった対立関係に陥
りやすい。もう一つは、評価的態度は価値基準があくまでも自分の側にあるために、相手への関心
は、どのようにすれば相手を「望ましい方向」へ変えることができるかというところに向かい、そ
こでとられる方法は、説得、説教、命令、注意、忠告、あるいは、おだてる、なだめるなどであ
る。そして、これらの方法では、相手は理解されず、人格としても尊重されないというのです。こ
れに対して理解的態度というのは、他者を人格として尊重しながら、その人を内側から理解しよう
と努め、その態度は、その人をあるがままに受け入れる受容と共感、積極的傾聴を基にするもので
あると。
すべての人間関係に言えることですが、実際には前者の態度の多い自分を反省させられました。
2001年5月
6月のエイジグループ婦人会で「福音書のイエス物語における『共生と自立』について」話すこ
とになって、荒井献さんの『聖書の中の差別と共生』を読んでいいました。その中で以前読んだこ
とがある岡真史『ほくは十二歳』の中にある詩が引用されていました。それはこういう詩です。
「かえしてよ/大人たち/なにをだって/きまっているだろう/自分を/かえしてよ/おねがいだ
よ/ぼくは/しぬかもしれない/でもぼくはしねない/いや しなないんだ/ぼくだけは/ぜった
いにしなない/なぜなら/じぶんじしんだから」
岡真史は在日朝鮮人作家高史明とその日本人妻岡百合子との一人息子で、彼は、中学一年生、十
二歳になったばかりの生涯を自ら絶ち切ったのです。
この詩にあります大人たちに向かっての子どもの叫び、「自分をかえしてよ」という叫びは、今
子どもたちの心の中でも叫び続けられているのでしょうか。荒井さんの本の中でこの詩に再び出会
って、そんな自問自答をせざるを得ませんでした。女にとって男が抑圧者であるように、子どもに
とって大人がそうなのでしょう。私自身は1948年に小学生になり1960年に高校を卒業して
いますので、戦前の規範の強い社会の空気も吸わず、大人が自信を喪失した戦後のドサクサのうち
に少年時代を過ごしましたので、子ども時代にそれほど大人を抑圧的には感じませんでした。大人
も子どもも何とか生き延びなければならなかったからです。
2001年6月
最近『吉本隆明が語る戦後五十五年』が12巻の予定で三交社という出版社から出ています。既
に1巻から5巻までが出ました。5巻の中に、山本哲士が小川国夫をインタビューした記事が掲載
されています。題は「聖書は『信とは何か』を解き明かしている」です。
その中で、「信仰というのは…もともと希望なんです。…『人間は希望する。希望は神から賜った
ものだ』ということなんです。希望している意味内容は、神がこれを希望しろといったものなんだ
から、私が希望した場合はその実現が神に委ねて大丈夫だと、そういう考え方ですね。僕はこれは
すごい哲理だと読んだんです」と、小川は語っています。聖書の信仰觀についての大変興味深いこ
の小川の考え方もさることながら、私が考えさせられたのは、森前総理の神の国発言についての小
川の指摘です。「森総理が『日本は神の国だ』と言ったでしょう。それでみんな笑いましたね。で
も戦争中だったら笑えなかったですよ。日本人の大部分は、日本は神の国だと信じていましたか
ら、そういうことが、なぜ大多数の人間の気持ちを支配したのか。そのために死んだっていいとい
う気持ちになるのか。そういうことこそ問題にすべきですね。神の国であるとかないとかいうこと
は、とりたてた問題じゃありません。それだけだったら、幼稚で不毛な論争です」。
この小川の指摘は大変本質的な問題提起ではないかと思いました。
2001年7月