なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(44)

 マタイによる福音書による説教は、7月14日のものを2度アップしていましたので、一つを削除しまし

た。7月21日(日)の説教を掲載します。


    「元気を出しなさい」マタイ福音書9:1-8、2019年7月21日船越教会礼拝説教


・私には3人子どもがいます。その3人の子どもたちが小さかった時のことです。3人の子どもたちと私と

妻とで出かけたときのことです。2番目の男の子が、人ごみの中で他の人につかまって歩いていました。

その子は多分父親の私のからだにつかまって歩いていたと思っていたようです。安心しきって歩いていま

したが、途中で自分が見ず知らずの人につかまってあるいていたことが分かりました。びっくりして、お

ろおろしました。私も妻もそれを見ていましたので、その子が見知らぬ人について歩いていることが分

かって、おろおろしたときに、すぐに声をかけて安心させました。


・そういうことがありました。


・親である私や妻のどちらかにしっかりつかまっていて、人ごみの中を歩いていれば、子どもは安心して

歩きます。しかし、全く見ず知らずの人と一緒に歩いていることに気がつけば、その子は不安になるで

しょう。幼い子どもにとって親子の絆は絶対的なのです。


・余談になりますが、その子も、1970年生まれですから、もう50歳になろうとしています。中学生の頃

に、親子喧嘩をしたときに、その子は私に対して、「ただ説教をくっしゃべって、善良な市民からお金を

巻き上げてるだけではないか」と、牧師である私に対して、痛烈で本質的な批判をしました。その時、私

はその通りだと脱帽しました。そういう彼も、私の生業を大分かすめ取って生きてきていますので、そう

大きな口を聞けるわけではないのですが、その時のことは、今でも忘れることができません。


・さて、私たちと神との関係も、親子の関係として考えられることを、イエスは私たちに教えています。

エスは、「アバ、父よ」、「お父さん」と言って、父なる神に祈りました。親子の関係のように、神が

常に身近にいらっしゃることを、幼児のように親である神を信頼して生涯を全うされた、イエスご自身の

振舞によって、今も私たちに教えてくれています。


・このイエスの神を父とする表徴に、肉親の父から虐待を受けた子供時代を経験している人は、受け入れ

がたいかも知れません。そうであれば、神を父とする必要はありません。命を惜しまず私たちを極み迄大

切にしたもう存在が神なのですから、別の表徴によって言い表すことができると思います。ここでは、親

子の関係で話させてもらいます。


・この親子という神との親しく厳しい絶対的な関係を無視したり、逆らって自分勝手に生きたがったり、

実際にそうして毎日を生活しているのが放蕩息子、放蕩娘である私たち大人ではないでしょうか。聖書

は、そういう風に神に逆らって生きる私たちが死と病に支配されるようになってしまったと言っていま

す。


・支援会の通信第23号に掲載しました松本敏之さんの講演の中で、「ブラジル・メソジスト教会規則集、

1998」の中に、「子どもは、神の国の世継ぎとして、聖餐に与かるべきである」に触れてこのように述べ

ています。「子どもというのは、みんな信仰をもっているということか、大人になると、それがだんだん

怪しくなってくるので、逆に信仰告白をしなければならないのかもしれない」と。


・先ほど読んでいただいた「中風の人を癒した」イエスの物語では、「中風の人を床に寝かせたまま、イ

エスのところに連れてきた人々の信仰を見て」イエスは「中風の人に、子よ、元気を出しなさい。あなた

の罪は赦された」と言われました。親である神の、あなたは子どもなのだから、元気をだしなさい、とイ

エスは中風の人に言われたのです。イエスは自分が神の独り子でしたから、中風の人に、心の底から「元

気を出しなさい」と言えたのです。中風という病気なんかに負けるな。あなたには神の永遠の命、死や病

よりも強い甦りの命が親である神によって与えられているのだから。


・この権威に満ちたイエスの言葉によって、中風の人は、眠っていた人が目覚めるように、ああそうか自

分は神の子供なんだということに気づきます。自分のからだの一番深いところから、自分は決して一人で

はないんだ、見捨てられた人間でもないんだ、親である神の欠けがえのない子どもなんだという、何とも

言えないエネルギーのようなものが湧き上がってくるのです。


・その時、「元気を出しなさい。あなたの罪は赦された」と自分に言ってくださったイエスのことを、律

法学者の中には「神を冒涜している」と心の中で思っていた人がいました。律法学者たちは、信じていて

も信じていなくても全ての人の近くに共にいてくださる神ではなく、人間からは遠く離れた天にいる神を

信じていましたから、その神の教えを守っている自分たちのような人しか神の命は受けられないと思って

いました。イエスはその律法学者の思いを見抜いて、「人の子(であるイエスが)地上で罪を赦す権威を

持っていることを知らせよう」と言って、「中風の人に、『起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい』と

言われ」ました。すると、「その(中風の)人は起き上がり、家に帰って行った」というのです。


・病気の癒しは,今日のイエスの物語においてはつけたしのようなものです。かんじんかなめなのは「罪

の赦し」ということです。


・先日癌で召された高座渋谷教会のメンバーであるNさんの葬儀が茨木の守谷で行われた、私も出

席しました。そのお礼の手紙がNさんのお連れ合いから、つい数日前に来ました。その手紙には、

最初にヨハネ福音書の11章、ラザロの復活の記事の最後に出て来る言葉、「わたしは復活であり、命であ

る。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはな

い」(11:25,26)という言葉が記されていました。そして、「静子さんは幼いころから両親や兄姉に愛さ

れ、神さまに愛されて、幼子のように神さまを信じて召されて行きました。静子さんの人生はこのヨハネ

福音書の言葉を実証していると思われます」という趣旨のことが書かれていました。


・Nさんのお連れ合いは、Nさんは確かに癌を患って、その肉体は死んで、滅んだが、神の幼子として今も

神の下にあって生きていると、信じているのでしょう。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じ

る者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」とのイエス

言葉のようにです。


・一方、たまたま大変高額なホームに入居している知人の話では、そのホームの入居者の話は健康を維持

して、どうしたら長生きできるかということばかりで、その人は、「みなさん、いつまで生きるつもりな

のでしょうね?」と、おっしゃっていました。このことは、そのホームに入居している多くの方の関心

が、出来るだけ長生きすることにあるということ。その人の人生の目標が長生きにあるということではな

いでしょうか。


・私たちが「生きる」ということは、「長生きする」ということなのでしょうか。もしそうであるなら、

沢山お金があって、病気になったら最高の医療を受けることができ、年を取って、夫婦の場合であれば自

分たち二人で、独り身の場合には自分だけで生活するのが困難になった場合、サポートが充実している高

額のホームでの生活を選ぶことがベターということになります。


・聖書では、確かに長寿は祝福であると記されていますが、それはたまたまその人が長寿を与えられたと

いうことであって、私たちの力や財力で勝ち取った長寿を意味しているわけではありません。聖書で私た

ちが「生きる」ということは、「罪赦されて、神と隣人と共に生きる」ということです。


・幼子は、ある意味では自己中ですが、他者を信頼しなければ生きていけません。身近なお父さんを、お

母さんをはじめ、他者への信頼こそが、幼子が生きていくことができるベースです。本来神はその幼子の

信頼を、幼子の身近な他者である親や保護者にその幼子を大切にする愛の力を与えてくださって、裏切ら

ないようにしてくださっているのです。しかし、身勝手な大人の自己中という罪と、相互扶助をうしなっ

現代社会のひずみによって、幼子が虐待を受け、その命が奪われてしまうということも、最近は頻繁と

言えるくらいに起きてしまっています。


・今日の聖書の箇所をもう一度振り返ってみたいと思います。2節に「人々は中風の人を床に寝かせたま

ま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出し

なさい。あなたの罪は赦された』と言われた。」とあります。


・このイエスの言葉は、中風の人をイエスの所に連れて来た人々の幼子のような信頼としての信仰を見

て、中風の人に「子よ」と呼び掛けています。そして「元気を出しなさい。あなたの罪は赦された」とい

うのです。


・この中風の人は、長年病気を患って、自分は神に見捨てられた人間だと思って、孤独に生きていたので

はないでしょうか。けれども、この時、この中風の人は、人々の信仰によって支えられていました。そし

て、イエスによって「子よ」と呼び掛けらました。その時、この中風の人は、自分が神に命与えられ、神

の慈愛の下に生かされている子どもの一人であることに気づかされたに違いありません。「元気を出し

て」、幼子のように神を信頼し、隣人である他者を信頼して生きていっていいのだと、覚醒させられたの

ではないでしょうか。


・すでにその時に、この中風の人は、病気である中風から解放されたのではないでしょうか。イエス

よって、人間の思惑が突き破られて、太陽の光が燦燦と降り注ぐように、神の慈愛と隣人の支えによる信

頼の世界の中で生きていることを発見したからです。罪赦されて私たちが生きるということは、そういう

ことなのではないでしょうか。


・人間の罪によって覆い隠されてしまった、神と隣人との共生に招かれることによって、この中風の人も

「元気を出して」生きることができたのです。


・わたしたち自身もイエスから「罪の赦しにおいて生きる」恵みを与えられていることを覚えたいと思い

ます。


・現実の社会は、神を追放した罪ある人間中心の社会です。権力と資本は、一人ひとりの存在をかけがえ

のない尊厳において認めることはなく、また相互扶助を追放し、競争による人間同士の分断を押し進めて

います。


・そのような現実において、神と隣人との絶対的な関係を信仰において受けとめ、死に打ち勝つ命を共に

いきていきたいと願います。また、この人間として生きるための深く大切なゆるしに、一人でも多くの人

があずかるための私たち自身もそのために力を注いでいきたいと思います。イエスによる神の臨在を信じ

て。