なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(84)

 

7月5(日)聖霊降臨節第6主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

 

③ 讃 美 歌   37(いと高き神に)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21 37(いと高き神に) http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-037.htm

⓸ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 

⑤ 交 読 文  詩編126編1-6節(讃美歌交読詩編143頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書18章21-35節(新約35頁)         

        (当該箇所を黙読する)

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 

⑧ 讃 美 歌    484(主われを愛す)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21 484(主われを愛す) http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-484.htm

 

⑨ 説教 「赦し合い」 北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 今日のマタイによる福音書の記事は、説教の題にもそのようにつけたのですが、「赦し合い」についての教えであります。そのことは、特に21節22節と最後の35節にはっきりと記されています。
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  • 21節22節は、「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」

 

 

  • 35節「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
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  • マタイによる福音書記者は、35節で「あなたがたの一人一人が、・・・」と言っていますので、ここでは、マタイの教会メンバー相互の赦し合いについて言われていると思われます。

 

  • そして、24節からのイエスの天国のたとえからしますと、私たち一人一人は、神に無限に赦されているのだから、お互いに赦し合おうではないかということになります。

 

  • ところで、この赦し合いの教えが、教会のメンバーならば、誰もが守らなければならない規範、倫理課題のようなものになりますと、大変悲惨なことになりかねません。

 

  • 例えば、教会の交わりの中で起こるセクシュアル・ハラスメントの問題を考えてみたいと思います。

 

  • 私たちの日本基督教団の中で起こったセクシュアル・ハラスメントの事件があります。一人の牧師が同じ教会で働いていたキリスト教教育主事の女性に加えたセクシュアル・ハラスメントです。この女性が訴えた裁判でも、牧師のセクシュアル・ハラスメントを認めています。しかし、その牧師は居直り続けて、裁判後もずっとその教会で牧師を続けていました。今も続けているかは分かりません。一方その牧師からハラスメントを受けた女性はPTSD(心的外傷)を受けて、ずっと苦しんでいました。おそらく今も苦しんでいると思われます。

 

  • こういう性的暴力が教会の交わりの中で起こり、その暴力が継続して行なわれ、女性が傷つくことになった原因の一つに、主任牧師と教育主事というある種の雇用関係があって、ハラスメントを受けたときに、すぐ抗議できなかったということがあったと考えられます。

 

  • それに加えて、私は「互いに愛し合う」とか「赦し合う」という、教会の中で繰り返し語られている教えもその原因の一つになっているのではないかと思っています。

 

  • 赦し赦されるという、赦し合いの関係が生き生きと実現するためには、前提条件が必要です。それは、その一人一人が、神の前に赦されるに値しないこの私が赦されて生きることができるという感謝をどれだけもっているかということです。

 

  • それがお互いの間になければ、愛することや赦すことを一方的に相手に求めて、自分は全く関係ないという人によって、この赦し合いの教えが歪曲されて、傷つく人が生まれるのです。

 

  • ですから、この教えが成り立つ前提をしっかりと踏まえることが大切です。これが成り立つのは、繰り返しますが、神によって多く赦され、多く愛されたことを感謝して生きる者同士の間なのです。神に自分が犯した過ちが赦されたからといって、過ちを犯してもいいのだと考える人はいないでしょう。これを単なる規範、倫理としてしまった場合には、本来のこの教えの持っている豊かさが失われます。失われるだけでなく、私たちの人間関係を壊す働きをすることすらあり得うることを忘れないようにしたいと思います。
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  • そのことが23節以下の譬えで示されているのではないでしょうか。23節以下のイエスの譬えでは、王である神に1万タラントの借金のあった家来(奴隷=下僕)が王の前に連れてこられて決済が行なわれました。しかし、その人は返済できませんでした。王はその家来の財産を売って返済するように求めます。家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願いました。すると王は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやったのです。

 

  • ところが、その家来が外に出て、自分から百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と迫りました。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼みました。しかし、その家来は承知せず、その仲間を引っ張って行って、借金を返すまでと牢に入れたというのです。

 

  • ≪「・・・仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げました。そこで、主君はその家来を呼びつけて言いました。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』と。そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡しました」≫(31-34節)。

 

  • ここまでがイエスの譬えです。35節の言葉は、マタイ福音書の著者が加えたものです。

 

  • ≪「・・・あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたにおなじようになさるであろう。」≫(35節)。
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  • 田川健三さんによれば、このイエス本来の譬えは、この世の権力者に対して語られたものだと見ています。マタイはそれをマタイ教会の兄弟間、つまり教会員同士の赦し合いの譬えにしていると言うのです。

 

  • 田川さんによれば、「この『1万タラント』はあくまでも神と人間社会の関係を比喩したものである。古代人は一般に、国家の政治権力者は神によってその地位に据えられたのだ、と考えていた。とすると、神によって『1万タラント』に相当するほどの地位を託されたのは、帝国のごく一部の権力者の人間にほかならない。「1万タラント」は人間に対する借金ではなく、神様に対する借金である。此の世で程度以上の大量の収入、程度以上の権力等々を手にしている者どもは、神様の前では、嘘みたいな多額の借金を背負っていると思え、という趣旨。彼らはよい政治をする責任を神によって託されたのだ。だから、良い政治をしない国家権力者は、神によって裁かれる」。これがイエスの譬えの言わんとしていることだと。

 

  • 田川さんは、このイエスの譬えそのものは、「これだけはっきりと『一万タラント』を左右するようなけしからん経済的最上層階級の人物についての譬えなのに、マタイはそれを『兄弟の間で赦し合いましょう』という説教として解釈しようというのだから、いささかひどすぎないか」と言っています。

 

  • マタイは教会内の兄弟間の「赦し合い」という教えとして、本来権力者や金持ちを批判したイエスの譬話を換骨奪胎して用いたということでしょうか。

 

  • マタイのこの記事にはそういう問題があるということを踏まえた上で、私たちが互いに赦し合って神の前に生きていくことの大切さを心に留めたいと思います。このお互い同士の赦し合いは、マタイのように教会員同士の課題に限られません。

 

  • マルコ福音書では、祈りについて語られているところで、このように記されています。≪立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる≫(マルコ11:25)と。ここでの「だれか」はマタイのように「兄弟」である教会員に限定して語られてはいません。文字通り信仰者であろうがなかろうが、「だれか」です。

 

  • この「赦し合い」は、お互いが犯す罪・過ちを認めることにならないか。そうしたら収拾のつかない無秩序な状態に、私たちの人間関係が陥るのではないかという疑問を持たれる方もあるかもしれません。

 

  • この「赦し合い」はお互いの犯す罪・過ちを認めることではありません。

 

  • 旧約偽典(聖書におさめられています旧約聖書諸文書以外のもの)の一つに『十二族長の遺訓』と言う文書があります。その中にこういう言葉が出ています。≪互いに心から愛しあいなさい。もし誰かがあなたに罪を犯すなら、その者とおだやかに話し、心に悪だくみ(恨んで仕返しをしてやろうなどという)を抱いてはならない。もし悔い改めて(それを)言い表したならば赦しなさい。しかしたとえ(改悛を)拒否しても怒ってはならない」(6:3-4a)。こう語ったのち、最後に次の言葉で結ばれています。≪しかしもし恥知らずで悪事を続けたとしても、復讐は神にまかせなさい≫。

 

  • パウロもローマの信徒への手紙12章19節で、≪愛する人たち、自分で復讐せず、神に怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります≫と記しています。

 

  • 「義なる神が、厳然とその審きを貫徹してくださる。だから信徒たる者は、安んじてすべてを御手に委ねることができる。この義なる神の愛に支えられてこそ、信徒はこの無限に赦す心を、聖霊の賜物として頂くことができるのである」(高橋三郎)ということでしょうか。

 

  • 私たちは先ほど祈りました「主の祈り」で、「我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈っています。私たちは礼拝だけでなく、主の祈りを繰り返し祈りながらキリスト者として生活しています。このことからも、私たちキリスト者は、キリスト者相互においてだけでなく、この世の「だれか」との関係においても、互いに赦し合いながら、和解しあって生きることへと招かれているのではないでしょうか。

 

  • 神の国の到来とは、和解の到来にほかならず、父なる神の赦しとは、われわれ相互の赦しを必然的内容として含むことがのっぴきならぬ形で示されている。そして本来人を赦すことのできぬわれわれ「古き人」の中に、聖霊による新しい生命が臨むとき、それは和解を実現させる赦しの霊をして働く。かくてキリスト信徒とは、人を赦しうる者に化せられた人の意にほかならない」(高橋三郎)。

 

  • 今日はこのことを噛みしめたいと思います。

祈ります。

 

 神さま、今日もこの船越教会で礼拝を共にできましたことを、心から感謝いたします。

今日はマタイ福音書の「赦し合い」の教えについて学ぶことができました。過ちを犯しやすい私たちは、赦されてこそ生きていける者です。ともしますと、私たちは自分を棚上げにして、他者の犯した過ちをあげつらって、他者を責めてしまいがちです。審きは神に委ね、互いに赦し合いながら、他者と共に生きてゆくことができますように、神さま、私たちを導いてください。

 今新型コロナウイリス感染の恐れと不安の中で、今までの経済至上主義的な私たちの生き方そのものが根本から問われています。また、自分が自粛し、どこにも出かけずコロナ感染を防ぐ行為が、経済活動を停滞させて、他の人を苦しめることにつながってしまう、矛盾の中に今私たちは置かれています。また、コロナのために、今まで当たり前と思っていたことが、当たり前でなくなってしまい、確かに思えていた今までの私たちの生活基盤ががたがた崩れるような思いに迫られています。

 神さま、この不安と恐れの中にある一人一人を支えてくださいますように。また、このことを通して、私たちがお互いの関係を見直して、コロナのような問題が起きていても、お互いを支え合い、助け合って、共に生きていけますように、お導きください。

 今日礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

 今も様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩  197(ああ主のひとみ)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21   197(ああ主のひとみ) http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-197.htm

⑪ 献  金

(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

                     

⑫ 頌  栄  28(み栄えあれや)

讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo 

祈 祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

 これで礼拝は終わります。