(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ高低のある地は平らになり、険しい所は平地になる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。」 (イザヤ書40:4-5)
③ 讃美歌 202(よろこびとさかえに満つ)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-202.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編96編1-13節(讃美歌交読詩編106頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 マタイによる福音書25章1-13節(新約49頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 469(善き力にわれかこまれ)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-469.htm
説教 「備えている」 北村慈郎牧師
祈祷
「備えあれば憂いなし」と言われます。あらかじめ準備しておけば、失敗や災難を防ぐことができるということを意味し、中国の故事からきている言葉です。
先ほど読んでいただいたマタイによる福音書の箇所に出て来ます、「ともし火と一緒に、壺に油を用意していた五人の賢いおとめたち」は、まさに備えあれば憂いなしでした。
ところが「ともし火は持っていましたが、油を用意していなかった五人の愚かなおとめたちは」、備えを怠ってしまったために、遅れてやって来た花婿の到来と共に始まった婚宴の席に着くことができませんでした。
愚かな五人のおとめは、油を用意していなかったために、花婿が来たてから、油を買いに行ったために、油を用意して帰ってきたときには、花婿と賢い五人のおとめは婚宴の席に入り、その家の戸が閉められた後だったのです。彼女らはその家の主人に、戸を開けてくださいと頼みましたが、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」とその家の主人に言われてしまったのです。
このマタイによる福音書の譬えの背景には当時のユダヤにおける婚宴が考えられます。 ユダヤにおいて婚宴は通常、夜開かれました。
婚礼の客は花嫁の家で接待を受けながら、花婿が来るのを花嫁とともに待つのです。花婿は花嫁を迎えに来るのであって、彼が到着すると、ともし火を明るくともして歓迎します。そして花婿と花嫁は、客と一緒に祝いの行列をつくって、花婿の父の家に行き、本格的な祝宴となります。
この譬えに登場するおとめたちは、花婿が来るとき、婚宴の広間や行列の道中を明るく照らすため、たいまつと油をもって花嫁の家で待っているのですが、あまりに花婿が遅いので居眠りしてしまいます。
この譬えでは、花婿が遅れてきたことには言及されていますが、遅れてきた理由は何も問題にされていません。遅れること、突然来ること、が重要なのです。これは、再臨のキリストを待ち望んでいるキリスト者も、再臨のキリストが突然やってくることに注意しなければならないと、暗に示しているのでしょう。
おとめたちの持っていたたいまつは、油を浸透させた布を棒の上部に巻きつけたもので、点火すると火は15分くらいしか持続しませんでした。そこで、予備の油が必要であったのですが、愚かなおとめたちは油まで用意していませんでした。そこで、あわてて買いに出ている間に、花婿はすでに家に入り、彼女らが閉め出されてしまうのです。
小さな村で婚宴がある夜は、夜中でも店が開いていることがあったのでしょう。賢いおとめが油を分けてやらないのは、終末への備えは各自すべきもので、いざとなって人に頼ることはできないことを示しているのでしょう。
戸の外に立って発する彼女らの叫びは、マタイによる福音書7章22-23節に似ています。
マタイによる福音書7章21節には、「わたしに向って、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」とあり、22節、23節が続きます。「かの日には、大勢の者がわたしに『主よ、主よ、わたしたちはみ名によって預言し、み名によって悪霊を追い出し、み名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」と。
終末には、花婿を「主」と呼んで懇願しても、過去のいきさつを述べて訴えても、間に合いません。ですから、この譬えそのものの教訓は、終末まで準備を怠ってはならないこと、それが、メシアである花婿の祝宴に入る資格となる、というのです。
この譬えでは、備えを怠ってはならないということが強調されていて、ともし火と油を用意するということが何を意味するかについては触れられていません。それは、マタイによる福音書25章の14節以下の「タラント」の譬えに委ねられているのでしょう。
この十人のおとめの譬えは、明らかに初代教会が悩んだ終末遅延問題を反映していると思われます。その意味で、現在の形の譬えは、イエス自身が語られたというよりは、後の教会によって作り出された譬えと言ってよいでしょう。
初代教会にとって最も深刻な信仰上の問題は、イエスの再臨の遅れという、終末遅延の問題でした。
初代教会のキリスト者である彼ら・彼女らは、メシア(救い主)であるイエスの再臨を熱望していました。そして、その時に、究極的に救いが実現すると信じていました。そしてそれが時間上において切迫していると信じ、その信仰によって、迫害やあらゆる困難にも耐えることができたのです。苦難は、今しばらくのことである、と考えることができたからです。
しかし、終末は容易に実現しないと感じ始めたとき、問題は信仰の本質に関わるものとなりました。もうすぐキリストがやってきて、終末が到来するという、彼ら・彼女らの信仰による将来への確信が揺らぎ、その結果、今現在をどう生きるかという倫理的緊張感が薄れ、失望と放縦が生じました。
24章48節に出てきます「悪い僕」のように、です。この「悪い僕」は、《主人は(帰りが)遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしている》と言われているのであります。再臨のキリストの到来という終末の遅延によって、緊張感を失ったキリスト者は、倫理的にも破綻した生き方をしてしまうと言うのです。
新約文書中には、マタイ福音書だけでなく、終末遅延に対して教会が与えたいくつかの解答が見出されます。
たとえばルカは、間近い終末期待を誤解として退け(19:11)、終末までの永い期間に教会がしっかり宣教に励むべきことを主張します。
ヨハネ福音書は、時間線上での終末によって救われるのではなく、イエスを信じる信仰においてすでに信仰者は救われ、永遠の命に入っているのだ、と言います。究極的救いは未来にではなく、信仰の「今」に持ち込まれます(5:24-25,11:25-26など)。
また第二ペトロ3:8以下では、時間の尺度をすっかり変えてしまい、神の目には一日も千年も同じである、という考え方を提示します。
けれども、マタイは、なお時間の延長線上の終末がやってくるという期待を手放さずに持っています。そのため、一方では、終末が突然やってくることを強調します(25:6)。他方、最後の裁きの恐ろしさを示して(12節、イエスによる最後的拒否)、終末に備えるべきことを教えるのです。
終末に現れる真理による審きは、自分の死後に予想される天国か地獄かへのふりわけというようなことではありません。この自分たちの歴史の中に突入してこられた真理そのものであるキリストの前に、これに備えている者として、いつでも立ちうるかどうかを問う事柄としてとらえられるようになった、と思われます。
しかもマタイは、13節で「その日その時があなたがたには分からない」と言います。
それは、再臨が遠い将来におしやられたということではなくて、再臨のキリストを迎える「用意のできている」生活が、日常的なものとなるようにということなのです(10節)。
終末論的な事柄を、非日常的な、彼岸的な、あるいは特殊・異常な事柄としてではなくて、このような日常的なものとして、マタイは語っているのであります。この世における日常的生活の原理また基準を、この世の内部にあるものに限定するのではなく、むしろ、この再臨のキリストに求めているのです。いついかなる時にキリストが来られてもよいのだという、用意ができているかどうかが問われているのです。
ですから、すべては、キリストに集中します。このキリストに、すでに死の克服を見ることもできるし、自らもまたキリストを迎えるべき生活を日常の生活とすることによって、死に勝つことができる。いや、それのみではありません。そのことによって、この世に生きる限り味わう、さまざまな弱さや悩みにも打ち勝つことができる。たとえば、このキリストの勝利にあずかる望みの中で、現実に味わう愛の不毛に耐えることができる。なぜ、報いられること少ない愛に生きるのか。なぜ、この世の利害打算をよそに、正義に生きようとするのか。等々の問いに対して、われわれは・・・花婿キリストを迎えるという一点に集中することなくして、キリスト者の生活のエネルギーの生じるところもないのである、と。
マタイはこのテキストで、そのように語っているのではないでしょうか。
このように考えてきますと、このテキストは、終末の審判への恐れを呼び起こすことでもなく、自分は、このむすめたちのいずれの側に属するか、不安げに問うことを促すものでもありません。私たち信仰者に、希望を呼び覚ますことにあるのです。希望が、この世を超え、しかもこの世に深く関わるキリストに、ひたすらな思いを抱くときに、私たちの生活は、この世においても確かなものになり、そのことを、主イエスは深く望んでおられるのだと。
内村鑑三は、不敬事件を起こし、既存の教会からも冷たくあしらわれて、無教会活動に進んでいきますが、それからしばらくして、内村は再臨信仰を強く持つようになります。その時期はちょうど第一次世界大戦が起こった頃です。内村は、最初アメリカが戦争の調停をしてくれるのではと思っていたようですが、そのアメリカが参戦して、大変失望します。その時に内村は再臨信仰を熟慮の末に語るようになります。世界の「行き詰まり」の解決をキリストの再臨実現に見出したと思われます。今から見れば、この時の内村が再臨信仰を強調したのは、「(欧米から生まれた)近代精神に対しキリスト教真理を確認する証言の性格が強い」と言われます。第一次世界大戦を起こした欧米の近代精神に絶望し、聖書のキリストの再臨信仰から、平和を大切にするキリスト教信仰を再確認したということでしょうか。
希望を失ったとき、私たちの生活も投げやりになってしまうのではないでしょうか。それは、キリスト者にとっても同じことです。時がよくても悪くても、私たちはイエスに招かれ、「平和をつくり出す」者として立てられていることを見失ってはならないと思います。希望をイエスに賭けて。
祈ります。
神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。
今私たちの中では、新型コロナウイリス感染の不安が蔓延し、閉塞感が強くなっています。日本の社会も格差が広がり、経済的に困窮している人も多くなっています。環境問題も厳しくなり、未来は暗く閉ざされた感じが強くなっています。このような時、投げやりになってしまう人も多くなるのではないかと、心配します。
神さま、このような時にこそ、希望を持って、自分から主体的に生き、互いに助けう力を、私たちが持つことができるようにお導きください。
今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 230(「起きよ」と呼ぶ声)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-230.htm
⑪ 献 金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
- これで礼拝は終わります。