なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(70)

天国のたとえ」 マタイ13:44-52

                        2020年3月22日 礼拝説教

 

  • 以前名古屋にいたころ、箪笥貯金ということを聞いたことがあります。税金対策なのかどうかよく分かりませんが、現金を銀行などに預けないで、自分の家にしまっておくということのようです。中にはどこにしまったのか忘れてしまう人もいるのではないかと思います。或いは収入を申告しないで、自分の家に隠して脱税する人もいるようです。「マルサの女」ではありませんが、それを国税局の査察官が探し当てるというのが、映画やテレビドラマになっています。
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  • 実はイエスの時代には、人々は財宝を壺に入れて土の中に隠したそうです。強盗や兵隊の略奪から守るためにです。それがイエスの時代には最も安全な方法だったと言われています。当時は銀行の貸し金庫のようなものは何もありませんでしたから、自分で財宝を守るためには壺に入れて土の中に隠すのが、一番よい方法だったのでしょう。

 

  • しかし、持ち主が死んでしまったり、古代社会ですから、奴隷にされてよその国に売り飛ばされていなくなると、土の中に隠された宝物が偶然に発見されるまでは、隠れたままになったのです。

 

  • 先ほど司会者に読んでいただいたマタイによる福音書の44節の「畑の中に隠された宝」の譬えでは、ある小作の農夫が(彼は地主ではない!)、たまたま畑に隠された宝を見つけて、宝を掘り当てます。その宝物は、この農夫の労働の成果ではありません。つまり自分の業績ではないのです。またその宝物は、その畑で働いていた農夫さえ知らなかったものです。発見した農夫は大喜びです。そしてその畑を手に入れるために、これまで彼の生活を支えていた一切のものである「持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」というのです。

 

  • 私はこの譬えを繰り返し読んでいて、ひとつ疑問に思いました。なぜ畑で見つけた宝物だけをこの農夫は持ち帰らなかったのだろうかということです。何もこの農夫がそれまでこつことと働いて得てきて、今の彼の生活の基盤になっている全財産を売り払ってまでして、畑そのものを買う必要はないのではないかということです。みなさんはどう思われますか。

 

  • ただこういうことは言えるのではないでしょうか。もし宝だけを持ち帰ったり、畑に隠しておき、いつかそれを利用しようとしたりして、全財産を売り払って畑そのものを買わなかったとすれば、この農夫は自分の生活を変えないで、永遠の命を欲しがった「富める青年」と変わらないということです。

 

  • 富める青年の物語では、その青年に対してイエスは全財産を貧しい人に施して、私に従って来なさいと言われました。すると青年は悲しい顔をして立ち去っていったというのです。つまり自分の今の生の根拠を根本的に転換しないで、宝物だけを獲得しようとしても、それは無理だということなのでしょう。
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  • この宝が隠された畑の譬では、宝は畑から離せないものとして考えられています。ここにこの譬えを理解する鍵があるのです。この宝が隠された畑を、今までその人の生活を支えていた一切にものを手放して買ったその人は、もう小作人ではなく、自分の畑を耕す自立した自営農民の一人になったのです。

 

  • 45節から47節の「真珠」の譬えも、裕福な大商人が一個の真珠をみつけると、それを手に入れるために彼の蓄えた全財産を手放す物語です。この譬えでも、発見した真珠への驚きと、それを入手するために一切を捨てる心です。そのような心を大商人に起こさせたのは一個の真珠という発見物への喜びと希求です。

 

  • マタイによる福音書が伝えるイエスが語られたという、この二つの小さな天の国の譬えから教えられることは、天の国(神の国)は、一切のものを手放してでも手に入れるに値する喜びであり、その喜びのために一切のものを手放すことを、その発見者に実践させる宝物だというのです。

 

  • 私はこの天の国の譬えをそのように読みながら、神の国をこの譬えの農夫や商人のように、今までの自分が築いてきた一切のものをそれに賭けるほどに、喜びとし、希求する心をもっているだろうかと自問自答させられました。

 

  • そしてあのヨハネ黙示録の言葉が浮かんできました。「あなたがたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい。熱くも冷たくもないので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(3:15-16)という言葉です。このヨハネ黙示録の箇所は続いてこのように記されています。

 

  • 「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることがわかっていない。そこであなたがたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身につける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまたわたしと共に食事をするであろう」(3:17-20)。

 

  • 福音書が伝えるイエスの活動は、マタイによる福音書でも神の国の宣教と病者の癒しです。4章23節に「イエスガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病や患いをいやされた」と記されています。

 

  • このイエスの天国=神の国の福音を、畑に隠されていた宝物のために全財産を売り払ってその畑を買おうとした小作人のように、また高価な一つの真珠を買うために、自分の持ち物をすべて売り払った商人のように、私たちは求めて生きているでしょうか。

 

  • 先日大石さんからアンゲラ・メルケルの『わたしの信仰』という本を紹介されました。私はその時、この本についてほとんど知りませんでした。手に入れて読んでみたいと思っていましたが、連れ合いのことがあって、本を読む状態ではありませんでしたので、そのままにしていました。連れ合いが帰天してから、連れ合いの部屋を整理していましたら、このアンゲラ・メルケルの『私の信仰』が出てきて、今読んでいます。

 

  • この本の中に「信仰する心を養う」と題して、2005年の福音主義教会大会におけるマラキ書2章17節から3章24節までについての聖書講解が収められています。現在のドイツの首相が教会の大会でかつて聖書講解をしたことがあるというのは、日本では考えられないことです。

 

  • メルケルはこのマラキ書の聖書講解で、このように語っています。

 

  • 【・・・キリスト者としてわたしたちはーー旧約聖書における終末の予感とは違ってーー神の最終的な来臨が地上の時間のなかで起こるとは思ていません。神の国、救いに満ちた神の秩序の実現は、地上的な時間やこの世のカテゴリーのなかで測れるものでhないのです。神の国は、直線的に流れている歴史的時間の延長として、それを完結するものではありません。というのも、神の国とは神の作品にほかならないことを、わたしたちは知っています。/「主の日」が来れば、何ごとも昔のままではありえないでしょう。神が救いに満ちた存在秩序を最終的に打ち立てるならば、それは同時に、暗いもの、悪いもの、神に敵対するものすべてに対する裁きともなるでしょう。それは避けられないことです。それが、神の来臨が持つ二つの面です。/しかしながらイエス・キリストに対する信仰を通して、「恐ろしい日」(マラキ3章23節)というイメージはなくなりました。わたしたちは何よりもまず、神の福音に従って生きています。プロテスタントとして、わたしたちは自分の救いが自分自身や自分の行いから得られるものではない、と知っています。キリストによって、あらゆる「律法の説教」以前に福音があることを、わたしたちは知っています。/しかし、預言者マラキにおいてもーー彼の言葉がとても暗い響きを持っているとしてもーー最終的には、喜ばしい福音のメッセージが中心にあります。「マラキ書」が終わるあたりの3章20節に、しばらしい言葉があるのです。「わたしの名を恐れるあなたがたに正義の太陽が昇り、その翼の下に救いがあるだろう」。/これは非常に美しいイメージです。かつての教会はこれに基づき、救いにつていの理解の帰結として、「正義の太陽」はキリストのことだと解釈しました。クリスマスのお祝いで光のシンボルを使う起源はーー世の光としてのキリストーーこのことを、文化史的にわかりやすく具象化したのかもしれません。・・・】(70-71頁)

 

  • そのように語った後、「正義」という言葉について説明しています。

 

  • 【・・・わたしたちが「正義」と訳しているヘブライ語の「ツェダカ」はーーこれについての専門家の説明を聞いたのですがーー実際は「共同体への忠誠」の実践として訳すべきなのだそうです。そしてそれは、神と人との共同体なのです。/旧約聖書における考え方は、次のようなものです。神に忠実な人は――そしてもちろん、神の律法を遵守する人はーー共同体に忠実であり、それゆえ「正義」なのです。そのような人はしっかりと神に結びついているので、まるで自然の発露のように祝福と救いが与えられます。ですからこの聖書箇所は、何人かの翻訳者がやっているように「救いの太陽」と言い換えられるかもしれません。/そのように理解された「正義」とは、絶えず連帯と実践することでもあります。・・・】(71-72頁)

 

  • と語って、この正義の実践は、現代でもすべての人に求められてることを強調し、このすべての人が置かれている基本的な状況が、現代のドイツからは、かなりの部分失われているのではないかと指摘して、【あらためて以前より強く、わたしたちのルーツや価値観の基礎について考える必要があるのではないでしょうか】(73頁)と問いかけて、最後にこのように語りかけています。

 

  • 【ここで結論に入りたいと思いますが、この結論はある意味で、今回の教会大会のテーマもしくはモットーと、この聖書箇所をつなぐものであります。「マラキ書」の最後の節には、非常に美しいビジョンが示されています。すなわちそこには、神が「父たちの心を息子たちへ」そして「息子たちの心を父たちへと立ち返らせる」だとう、と書かれているのです(マラキ3章24節)。「世代間の公正」と「世代間の扶助」を意味しうる、適切な表現はあるでしょうか? そして、わたしたちが預言者マラキから何か現代への教えを受け取るとするならば、わたしたちにとってそれは、人間としての尊厳を大切にする未来のために本当に支えとなる基礎や前提条件は、ドイツにおいても一義的に政治の課題を果たすことだけではないのだ、という考え方なのです。特に重要なのは、わたしたちの共通の価値の方向づけ、であり、子どもたちの教育であり、またとりわけ共通の信仰、希望、そして信仰告白です。「きみの子どもが明日、きみに尋ねるなら・・・」というのが、「申命記」6章20節からとられた今回の教会大会のモットーです。今年の教会大会のテーマソングを作ったシンガーソングライターのハインツ・ルドルフ・クンツェさんは、ぴったりの歌詞を書いてくれました。

 

 「もしきみの子どもが明日、きみに尋ねるなら、

  ぼくたちは何のためにこの世にいるのかと、

  その子が不思議に思い始めるなら、

  何が大切なのか、知りたいと思うなら…

  答えをはぐらかしたりしないでくれ、

  たとえ答えがどんなに難しくても」

 

 これが私たちの使命です。キリスト者としてーー教会でも政治の場でも、職場や家庭でもーーこうした問いに答えをはぐらかすことは許されません。わたしたちはこのことを、政治家として自覚しつつ申し上げます。これは神と人の前で果たすべき責任です。

 共に新しい道に進む勇気を持ちましょう! 一緒に歩んでいくことが重要です。キリスト者として、わたしたちはいずれにせよ勇気をもつことができます。なぜならわたしたちの行く先には、「正義の太陽」が約束されているのですから。】(73-74頁)。

 

  • 「イエスの天国=神の国の福音を、畑に隠されていた宝物のために全財産を売り払ってその畑を買おうとした小作人のように、また高価な一つの真珠を買うために、自分の持ち物をすべて売り払った商人のように、私たちは求めて生き」ていくとは、このメルケルさんの問いかけに答えて生きていくことではないでしょうか。