なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(94)

9月27(日)聖霊降臨節第18主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 ⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 ② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

                             (ローマ5:5) 

③ 讃 美 歌  4(世にあるかぎりの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-004.htm
④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 ⑤ 交 読 文  詩編103編14-22節(讃美歌交読詩編112頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 ⑥ 聖  書  マタイによる福音書22章1-14節(新約42頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 ⑧ 讃 美 歌 357(力に満ちたる)

(この讃美歌の奏楽ユーチューブを掲示できませんでした。ごめんなさい)

 説教 「天国にも選別があるのか?」 北村慈郎牧師

祈祷

  私は若い時に名古屋の御器所教会という教会の牧師をしていたことがあります。1977年4月から1995年3月までの18年間です。私の年齢からしますと35歳から53歳までです。名古屋には南山大学というカトリックの大学があります。その中に神言神学院という神学校があります。私が名古屋にいた頃、神言神学院の新約学を三好迪(みおしみち)さんという、荒井献さんと同世代の当時カトリックの司祭であり、ルカを専門とする学者が教えていました。この人がルカ福音書のイエス誕生物語について講義したことがあり、その時私は聴講をお願いして、神言神学院の新約聖書の三好さんの講義に出させてもらいました。ある時三好さんは、その講義に出ていたシスターを見ながら、「もし天国が司祭やシスターだけだったら、そんな天国には行きたくないね!」と、ジョークのようなことを言ったことがありました。天国は悪人を含めて色んな人がいるところで、聖人君子ばかりだったら面白くないと言いたかったのではないかと、その時私は思いました。その三好さんの言葉が、今でも忘れられません。

 今日の説教題は「天国にも選別があるのか?」としました。?マークをつけています。今日のマタイ福音書の個所は、天国の譬えですが、このマタイ福音書の譬えによれば、天国にも選別があるように思われるのです。

 最初に今日のマタイ福音書の天国の譬えを見ておきたいと思います。22章1-14節です。2節に、「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と言われています。

 この王子の婚宴には招待されていた人々がいました。「王は家来たちを送り、婚宴に招いていた人々を呼ばせ」ました。ところが、王子の婚宴に招かれていた人々は来ようとしませんでした。そこで、王は別の家来たちを使いに出して、婚宴に招かれていた人々にこう言」(4節)わせました。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」(4節)と。「しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ」(5節)て行ってしまいました。「また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」(6節)というのです。「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」(7節)というのです。随分荒っぽいことがこの譬えの中には書かれています。

  この譬えの記事は、ルカによる福音書に並行記事があります。14章15-24節です。しかし、マタイとルカでは、この譬えの細部が大分違います。マタイによる福音書の6節、7節の「また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そのこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」という荒っぽい描写は、ルカ福音書にはありません。また、マタイによる福音書の22章11-14節の部分は、マタイにだけあって、ルカ福音書にはありません。

  ルカによる福音書では、そもそも王子の婚宴ではありません。ただ「ある人が盛大な宴会を催そうとして、多くの人を招いた」となっています。招かれた人たちが色々な理由をつけて断ってこなかったのというのです。そこでその報告を聞いた主人が僕を遣わせて、「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と言います。僕はそのような人を連れて来ましたが、それでも余地があったので、無理やり他の人たちもつれて、一杯にしたというのです。 

  マタイによる福音書ルカによる福音書の記事では、大分違いますので、マタイとルカの福音書記者が既に文章化された一つの譬えに基づいて書いたのではないだろうと言われています。口伝の譬え話を、それぞれ自由にアレンジして現在のマタイ福音書ルカによる福音書に入っている譬え話になっているものと考えられています。

  いずれにしても最初に招かれた人々はユダヤ人を意味するでしょう。後に招かれた人々は教会のメンバー、キリスト者を意味するものと思われます。ユダヤ人は神の招きを受けながら拒絶し、ユダヤ人に代わって教会が神の招きに集まってきた人々の群れであるというのです。

  マタイ福音書では、その教会の人々の中にも「善人も悪人も」おり、礼服を着ていない人のように宴席から放り出されてしまう人もいるのだというのです。良い麦と毒麦の譬えと同じことが言われています。麦が育っている間に、毒麦を抜き取ると、よい麦も抜き取ってしまう危険があるので、収穫の時までまって、収穫の時によい麦と毒麦を分けて、毒麦は火で焼いてしまうというのです。

  マタイによれば教会は善人と悪人の両方を含む混合体であって、終末にお いて裁かれねばならない存在なのです。

 マタイ福音書だけにある11節から13節には、このように記されています。「王は客を見ようと(婚宴の席に)入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう』」と。

 王は婚宴の客を謁見し、礼服を着用しない人を最後的に排除し、地獄に投げ込むのです。マタイは、「礼服」で、教会員が神の国にふさわしい実を結ぶか、結ばないかという教会員の倫理性をここで問題にしているのです。この11節から13節のマタイにだけある記事を、マタイは天国の譬えの中に付け加えることによって、招きを受け入れた者がすべて救われるとは限らないと教えています。これは善悪の混在する教会への厳しい警告ですが、最後の救いへの基準を信仰者の倫理性に求めるところに、マタイの思想的な特色がみられる(以上、新共同訳聖書注解による)と言われています。・ 「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(14節)のです。

 田川建三さんは「・・・・マタイは、神によって「最初に招かれた」はずのユダヤ人がそれにふさわしくなかったので見捨てられた、というだけで話を終わりたくなかった。代わりに招かれたキリスト教徒の中にもふさわしくない者が存在する、という意識がマタイには非常に強い。後の神学者たちはマタイのこの教会観にcorpus mixtum(混成集団)という名前をつけた。キリスト教会もまた救われるべき者だけの集団ではなく、滅ぼさるべき者も多く混じっている「混成集団」だというのです」と言っています。

 このマタイ福音書の記者の考え方に対して、パウロは全く違う考え方をしています。パウロはローマの信徒への手紙9章から11章のユダヤ人問題で、ユダヤ人の拒絶にあって異邦人に向かった福音が異邦人に広がって、そしてまたユダヤ人に向かい、すべての人に神の憐れみが与えられると語っています。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたのであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。』すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン」(ローマ11:32-36)。

 この「罪人たる人間がみな例外なく神の恩恵によって救われる」というパウロの絶対主義からすると、パウロとマタイは明らかに違います。

  私は、考え方としてはパウロの方が、自分の好みから言えば、好きです。マタイ福音書の方は、少し倫理主義的な感じで、人間の側の行為の善し悪しに焦点が当てられすぎているように思えます。

  バルトは「人間は神に応答するもの、パートナーとして創られているのですから、神と断絶していません。信仰のあるなしにかかわらず、神のものと定められている」と言っています。

  私も、この人間観に立ちたいと思います。自分も他の人も、すべての人は神に応答するもの、神のパートナーとして神によって創られた被造物であるということです。私たち人間は、神との関係性において生きているものだということです。そういう神のパートナーとして創られている限り、誰も人間は神と断絶していないのです。バルトは、「信仰のあるなしにかかわらず、(人間はすべて)神のものと定められている」と言うのです。

 バルトは続けて、こう言っています。「そしてこの定めは破壊されないものです。極悪人であっても、ヒットラームッソリーニであっても、この定めは保たれています。この絶対的で永続的な定めを人間がみずから損なうとき、人間は本当に不幸になります。しかしそれでもこの定めはなくなりません」(以上K.バルト、宗像『バベル』224号から又引用)。

 私たちは、神のパートナーとして神のものであるという定めを与えられながら、その関係を無視して自分勝手に生きてしまいます。「この絶対的で永続的な定めを人間がみずから損なうとき、人間は本当に不幸になります」と言われていますが、現代はその不幸が地球規模で襲っているのではないでしょうか。自分が神であるかのように自己本位に生きる多くの現代人によって、世界の格差を生み出し、世界には貧困で苦しむ多くの人々が存在しています。20世紀には戦争という暴力によって多くの人が犠牲になり、今も犠牲になる人が絶えません。より多くの富を得るために、自然の破壊も留まりません。

 それでも、イエスを信じる私たちは、この世界の現実に絶望することなく、私たち人間はすべて神のパートナーであり、神のものであるという定めを信じて、からし種一粒であっても、その定めにふさわしく生きていきたいと、切に願います。

                                           

祈ります。

  • 神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。
  • マタイは私たち教会には、「善人と悪人」、救われる人と滅びる人が混在していると言っています。そう言われますと、犯人捜しをするように、自分はどちらの人間だろうかと不安になります。
  • 神さま、私たちがそのような不安を持つことなく、信仰と希望と愛の確かさを信じて、私たちがあなたのパートナーであり、あなたのものであることを信じて、そのような自分自身の存在にふさわしく生きていけますように、お導きください。
  • この私たちに与えられています定めは、信仰のあるなしに関わらずすべての人のものです。けれども、このあなたの定めに気づかずに、自分本位に生きることによって、自分自身にも周りの人にも不幸を呼び寄せてしまっている人も多くいます。どうぞそのような人にも、このあなたの定めへの気づきを与えてください。そして、このあなたの定めに生きる豊かさを味わわせてください。
  • あなたが与えてくださっている定めを無視して私たちが自己本位に生きることによって犠牲となっている多くの人を、あなたが支えてくださいますように。
  • 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌   540(主イエスにより)

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                  

⑬ 祝  祷

 主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン

⑭ 黙  祷(各自)

・ これで礼拝は終わります。