なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(101)

11月22(日)降誕節前第5主日(10:30開始)

 (注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 ⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 ② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

           喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」

                         (詩編100:1-2)

③ 讃 美 歌     151(主をほめたたえよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-151.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編50編1-6節(讃美歌交読詩編54頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   マタイによる福音書23章37節-24章14節(新約46頁)

            (当該箇所を黙読する)

 ⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 ⑧ 讃 美 歌 425(こすすめも、くじらも)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-425.htm

説教 「終わりの始まり」  北村慈郎牧師

祈祷

  確か1973年だったと思いますが、小松左京の『日本沈没』という本が出ました。覚えていらっしゃる方もいると思います。1972年には連合赤軍によるあさま山荘事件がありました。連合赤軍のメンバーが、管理人夫婦を人質にして立てこもった事件で、警察が取り囲んで、最後はクレーンに大きな鉄の球をぶら下げて、それをあさま山荘に何度もぶつけて、突入したのです。その様子がテレビで一日中放映されて、たくさんの人が釘づけになって観ていました。私もその一人でした。1970年の安保改定、大阪万博に向けて学生運動が高揚していたのが、権力による弾圧によって、追いつめられて起こった事件があさま山荘事件でした。その翌年に『日本沈没』が出たので、この本の影響もあって、当時日本はもう終わりではないかという空気が多くの人に蔓延したのではと思います。

 この「この世も終わりではないか」という感覚は、社会が混とんとして、このまま滅んでしまうのではないかという危機感の表れではないかと思われます。1970年代前半にはそういう空気が多くの人を飲み込んでいた状況がありました。今、新型コロナウイリス感染拡大の第3波が来ていると言われていますが、このまま感染が拡大して、医療崩壊を来たし、自殺者や失業者がどんどん多くなっていったとしたら、「この世も終わりではないか」という諦めと絶望が蔓延しないとも限りません。

  マタイによる福音書24章、25章には、終末(おわり)についての教えが記されています。

  先ほど司会者に読んでいただいた24章3節以下には、新共同訳聖書の表題にもありますように、「終末の徴」が記されています。その中に、≪戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろう≫(6節)とか、≪民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々で飢饉や地震が起こる≫(7節)ということが言われています。ここには、この世の破局的な状況が語られていますが、それを終末の徴と言っているのであります。

  先ほど1970年代前半の日本社会の状況をお話し、『日本沈没』が象徴するように、あさま山荘事件のような事件も起こって、日本も終わりではないかという感覚をもった人が多かったと、お話しました。この破局的な状況は、マタイ福音書の「終末の徴」に近いと言えるかもしれません。

  ところで、終末とは、「最後の事柄」を意味します。聖書において最後とは、終わりであると同時に完成です。破局的な状況が終わりなのではありません。破局的な状況は終末(おわり)の徴ではあっても、終末の出来事そのものではありません。聖書において終末とは、神の到来を意味します。神によって人間の営みとしての歴史が成就、完成する時です。

  例えばボンフェッファーは、「待ちつつ,祈りつつ、正義を行って生きる」ことを、信仰によって現在のキリスト者の倫理であると考えていました。そしてボンフェッファーは、歴史が神によって成就完成するのだと、強烈に信じていたのです。ですから、ナチスの時代のドイツとう絶望的な情況の中でも、その来るべき神の成就完成を信じて、収容所の中でも人々に聖書に基づいて希望を語り、慰め励ますことができたのです。

  ご存じのようにボンフェッファーは、ナチズムに抵抗し、ヒットラーの秘密警察ゲシュタボに逮捕され、獄中生活を強いられ、最後は処刑されて殺されてしまいました。そのボンフェッファーの獄中生活における信仰と生活を獄中書簡から知る限り、ボンフェッファーの終末(おわり)への信仰は、今、私たちがどう生きるかに深く関わってくるのであります。

  24章3節に弟子たちがイエスにこのように質問したと記されています。「イエスがオリーブ山に座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。』・・・」

  ここで弟子たちが「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。」と言っているのは、明らかに23章27節以下に記されています「エルサレムのための嘆き」と「神殿崩壊の予告」のことです。

  そして、「また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」は、キリスト再臨と世の終わりについての問いです。

 この弟子たちの問いには、紀元70年のエルサレム神殿破壊においてあらわに示された神の裁きを、キリストの再臨と世の終わりから注意ぶかく区別しようとしているところが見られます。

  そこには神殿崩壊の出来事と終末の出来事との間に、イエスを信じる者たちの教会がおかれていることへの強い認識があると考えられます。それは、マタイによる福音書が書かれたマタイの教会がエルサレム神殿崩壊を過去の出来事として知っていたからです。

  エルサレム神殿の崩壊を手がかりに、キリスト来臨と終末を正面から取り上げ語るにあたって、マタイによる福音書はその教団が置かれた厳しい信仰の現実にふれなければなりませんでした。

  まず第一に、終末を語るこのテキスト(24:3-14)は、風雪に耐え抜いたものの象徴であるとされた、イエスが時代のエルサレム神殿が崩れ落ちると告げられたのち、弟子たちはこの神殿破壊の問題とキリストの来臨・終末の問題とを結びつけてイエスに問いかけている点に注目したいと思います。

  そこにはすべてのものの終わり、没落、最後が到来するそのところに、神の勝利が訪れることが明らかに示されています。絶望的な恐ろしさをはらむ事柄のなかに、この終末を語るテキストは、ひとつの不思議な安らかさの影におおわれていることを見逃すわけにはいきません。

 それは全てのものの終わりを徹底的に告げられた方が、弟子たちの前に立たれるイエスご自身であることに、何ものにも優る慰めの源を見出しているからであります。弟子たちは終末の背後に立ちたもう方のあることを、その時まで苦しみ耐え忍ぶ者とともにいます方のあること、すべての望みが消え果るその時に彼方から招きたもう方が立たれることを見つめているのであります。

  次にこのテキストが、神殿破壊の出来事、それは当時のユダヤ人にとって正にショッキングな事件であったことを想い起こす必要がありますが、その神殿破壊の出来事を、キリストの来臨と終末とから区別していることです。なおかつ後者の終末を強調するに当たって、不法がはびこり愛が冷えるという恐るべき事態に教会が苦しめられることをあからさまに語っている点に目を向けたいと思います。

  イエスは終末に起こる破局的な出来事を語った後に、≪しかし、これらすべては産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える≫(24:8-12)と言われているところです。

  キリストの来臨を待望するということは、決してひとつの確固とした人間的な確信を持っていることを意味するのではありません。信仰がもしそのようなものであり、終末の期待が単なる人間の願望の成就であるにすぎないならば、不法がはびこり愛が冷えるというぬきさしならない現実のきびしさに教会が苦しめられる時には、それは何の力にもなり得ないのであります。しかもそれは避けられない、決してなくなることのない現実としてわれわれに襲いかかることを、このテキストは示しているのです。

  そこでは、試練と疑いと苦しみの炎の中にわれわれの信仰が立たされ、真に見上げ仰ぐべき方は誰であるかという選択を、教会は迫られることが語られていうのであります。

  第三に、この終末が語られているテキストにおいては、不法がはびこり愛が冷えることに苦しめられながら、教会は最後まで耐え忍ぶことを求められている点にあらためて注目したいと思います。13節、≪しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる≫。

  しかも、この忍耐は福音の宣教という教会のかけがえのない使命とはなれることなく結びつけられているのであります。14節、≪そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る≫。このことは、教会はその受ける試練と苦しみが強く深くなれば、それだけ自己の使命が何であるかを知らされ目覚めさせられることを意味します。それのみならず、教会はその使命を忘れずにいる限り、自ら受けねばならない苦悩のもつ重さをかみしめなければならないのです。

  よろこびの福音は、これに従って生きる者たちの闘いと証しをともなって前進すると言うのです。すべての民に対する証しとして、全世界の民に福音は宣べ伝えられるのです。

 このテキストでは、世の終わりがどのような形でもって表れるかについては何一つ語っていません。前兆は語られています。先ほども引用しましたように、≪戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろう≫(6節)とか、≪民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々で飢饉や地震が起こる≫(7節)と。しかし、それはあくまでも前兆に過ぎません。キリストの来臨と世の終わり自体が、どのような形で起こるかにつては、なんらかの意味で目に見える形で固定化することは根底から拒否されているのです。

  このテキストは我々に語りかけています。

  最後まで耐え忍んでキリストを待ち望むことを。イエスが弟子たちに語りかけ、ともにいましたもうがゆえに、彼らは終わりまで耐え忍び、希望を失うことなく来臨の時を待つのです。そしてわれわれの教会もまた、いまも主がともにいましたもうことを信じるがゆえに、来るべき成就のときを待ち望むのであると。

  この社会に正義が踏みにじられ、不法がはびこり、他者を切り捨て、排除し、自分さえよければという人が増え、愛が冷えることによって、私たちは苦しまざるを得ません。

  経済成長最優先の新自由主義的なグローバリズムによる格差拡大と、新型コロナウイリス感染拡大が重なって、今世界大で不法がはびこり、愛が冷えている状態ではないでしょうか。このような状況の中で、私たちの教会が福音宣教に励むということは、どういうことなのでしょうか。そのことを考える時に、どうしてもボンフェッファーの信仰のその生き方に導かれざるを得ません。不法がはびこり、愛が冷えていても、イエスを信じて、神がすべてのすべてとなる終末の到来を「待ちつつ,祈りつつ、正義を行って生きる」。このことに尽きるのではないでしょうか。今イエスの福音を宣べ伝えるということ、そういうことではないでしょうか。

  新しい週も、そのことを心に深く受け止め、それぞれが与えられた場にあって生きていきたいと願います。

 

祈ります。

  神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。

 今日は、マタイによる福音書の終末についてのテキストから、あなたの語りかけを聞きました。あなたは水平の人間の歴史に生きる私たちに、上から垂直に語りかけてくださいます。水平の人間の歴史には、安定と混乱が繰り返されています。そのような水平の歴史の中で、私たちはあなたを信じて、イエスの仲間の一人として生きています。不法がはびこり、愛が冷えた状況にあっても、あなたの究極的な勝利を信じて、イエスに従って、あなたを愛し、他者を愛して生きていくことができますように、私たちをお導きください。

 今新型コロナウイリス感染によって苦しんでいる方々を支えてください。特に医療現場を支えてくださっている方々を支援する体制を、国や自治体も、そして私たち一人ひっとりも、作っていくことができますように導いてください。

 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

 この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌 440(備えて祈れ)

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)

讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷⑭ 黙  祷(各自)

 主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

 

 これで礼拝は終わります。