なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(46)

「喜びの時に・・・」マタイ9:14-17、2019年8月11日(日)船越教会礼拝説教

 

  • カップルである二人の合意に基づいて行われる結婚式とその祝いの席である披露宴には、本質的に喜びが支配しているのではないかと思われます。実際には二人の合意に基づいた結婚が自分の家族や相手の家族が反対する場合がありますから、二人の合意に基づいた全てのカップルの結婚が喜びであり、祝福されるかは分かりません。ケースバイケースではないかと思われます。
  • 結婚がすべてではないと思いますが、少なくともパートナーを得て、結婚生活を選ぶ二人にとっては、その出発点は喜びにあふれているに違いありません。
  • エスの時代のユダヤの国では、ヨハネによる福音書2章1節以下のカナの婚礼の物語に書かれていますが、結婚のお祝いの宴会が何日も続いたそうです。
  • 現在の私たちの結婚式のお祝いは、二次会、三次会があっても、大体はその日一日で終わります。お祝いの席では、美味しいものを食べ、お酒やジュースを飲みます。そのような席で、水くらい飲むだけで、何も食べない断食をする人はいません。そういう人は、結婚式のお祝いの席には来ません。
  • 結婚した二人をお祝いするために、みんな集まっているのですから、喜びの時に、悲しみや苦しみと関係する断食をするのはふさわしくないからです。喜びの時には、その喜びをみんなが共に喜び、その喜びの気持ちを表すのです。
  • 今日の聖書、マタイによる福音書9章14節以下では、イエスが洗礼を受けたといわれるバプテスマのヨハネの弟子たちが、イエスのところにきて、こんな質問をしました。「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と。
  • その質問にイエスは答えてこう言われたというのです。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」と。このイエスの言葉では、「花婿」はイエスご自身のことです。「婚礼の客」は弟子たちやイエスの下に集まっている群衆を指していると思われます。イエスと弟子たち及びイエスの周りに集まる人々との関係は、花婿と婚礼のお客であると、イエスはおっしゃっているのです。
  • そして「花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」と言って、イエスが十字架にかけられるときは断食するだろうと言われています。これは、イエスの未来預言とも取れますが、後の教会の創作とも取れます。イエスの十字架の出来事、そして復活の出来事を通して誕生した、後の教会ではバプテスマのヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々と同じように断食をしていましたので、それに合わせて、イエスの語った言葉としてここに加えられたのかもしれません。
  • 今日の箇所の前半の部分で大事なのは、「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」というイエスの言葉です。
  • 今日の箇所の後半には、新しい布切れを古い服に継ぎしたり、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりすると、服の破れがもっとひどくなり、古い皮袋は破れてしまうというという、イエスが語ったと言われる比喩のような言葉が続いています。新しいものには新しい入れ物が必要で、古い入れ物に新しい物を入れようとしても、それはできないというのであります。
  • マタイ福音書のこの箇所で、イエスが語っている大切なこととは何でしょうか?
  • そのことを知るためには、イエスが、私たちと同じ一人の人間として、自分自身をどのようにとらえていたのかを理解しなければなりません。イエスは、「・・・自分自身というものは、神様が用意して下さった舞台に、一つの生命の約束を帯びて、生み出されてくる」と信じていたと思われます。それがイエスの出発点です。「そこにあふれてくるエスの生命人ではない神様の恵みが、人であるということに逆に含まれている、それがあふれてくる、ということがイエスでありますから、そうすると、生命があふれてきます」。「そこから、イエスの喜び、イエスの悲しみというもの、イエスが罪人たちと一緒に友達として暮らしたということも、イエスのまた抑圧者に対する闘いというものも、そこから出てきております」。「それは世界の内部にあふれてくるものですから、おのずと一つの形をとります。そうするとその形が、あふれてきた生命の入れ物のようになるわけです」。イエスにおける、人ではない神の恵みによって人が生かされる、その生命があふれてきて、イエスの弟子集団が生まれ、後の教会が生まれ、キリスト教が生まれたわけです。   だから、そこに出てくる形はむしろ、その形に吸収して、すべてのものを取り込んでしまうのではなく、そういう形が成り立ってきた根元にいつも人を立ち返らせ、人の眼を向き返させるというような契機を帯びていなくてはならないのです。そういう形でないといけないということになるでしょう。」(以上、滝沢克己による)
  • しかし、生命があふれてきて、それが形を成した弟子集団や教会やキリスト教にしても、いつもいつもイエスの溢れる生命によって形づくられているとは限りません。受け皿である弟子集団も教会もキリスト教も、古いこの世の秩序の中に埋没する危険性は常にあります。その形がすでに既成のものになってしまったときには、イエスによる新しい生命を取り込むことはできず、無理に取り込もうとすれば破れてしまいます。新しい生命はいつも新しく沸いてくるわけで、でき上がった形の中に沸いてくる生命そのものを取り込もうとすると、それはだめだということがまずあります。
  • 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする」(マタイ9:17)。私たちは、新しい革袋として新しいぶどう酒であるイエスの溢れる生命を入れる器となっているでしょうか? それとも、新しぶどう酒であるイエスの溢れる生命を無理やり古い革袋に入れるために、自らも破れ、新しいぶどう酒も無駄にしていることはないでしょうか。
  • 既成教会は、多かれ少なかれ、この問いから逃れることは出来ないように思います。日本のプロテスタントキリスト教史を振り返ってみますと、1887年(明治20年)前後の政府の天皇制絶対主義的な国家形成が明確になる頃から、誕生したばかりのプロテスタントキリスト教会は、天皇制絶対主義的な日本の国家の枠組みの中で生き延びる道を選択したと思います。その結果、日本のプロテスト教会は、「国体」という日本国家の秩序の中に組み込まれざるを得ませんでした。一方当時は、国は「富国強兵」路線を邁進していましたので、まだ福祉の働きにまで政治が手を差し伸べることができませんでした。ですから、その間隙を突いて、日本のキリスト者・教会は弱者への働きを積極的に担いました。ハンセン病へのキリスト教の犯罪的な関わりもありますので、その働きのすべてが肯定されるわけではあしません。けれども、イエスの生命を受けたキリスト者、教会が、その社会の中で見捨てられがちな人々のことを憶えて、女子教育や社会的な困窮者に対する扶助など、当時としては先駆的な働きを担ったことは事実です。そういう形で、当時のキリスト者・教会は、新しいぶどう酒としてのイエスの福音を入れる新しい革袋になろうとしたのではないでしょうか。
  • しかし、戦後福祉の領域にも公的な手が差し伸べられるようになって、女子教育や社会的な弱者に対する福祉の働きが、特別にキリスト者・教会の働きとは言えなくなりました。キリスト者がそのような働きを担う時も、一市民であるキリスト者が、他宗教を信じる人や非宗教の人と共に公共的な社会の中で、ある意味で匿名のキリスト者としてその働きを担っていくようになっています。そこでは、キリスト者には、「神の前で、神と共に、神無しに生きる」(ボンフェッファー)非宗教的な生き方が求められます。 
  • その意味で、今日キリスト者・教会にとって、新しいぶどう酒としてのイエスの福音を入れる新しい革袋は、ボンフェッファーが言うように、「「神の前で、神と共に、神無しに生きる」(ボンフェッファー)非宗教的な生き方」を通して、イエスの福音に生きるキリスト者・教会として現れるのではないでしょうか。
  • 日本基督教団に属するキリスト者・教会の大勢は、教勢を増やす護教の方向に向かっているように思われます。そのような中で、私たちは、ひとりのキリスト者としても、船越教会としても、「「神の前で、神と共に、神無しに生きる」(ボンフェッファー)非宗教的な生き方」と通して、イエスの福音に生きるキリスト者・教会の道を、私たちなりにめざしていきたいと思います。
  • そのことを通して、イエスがご自身を花婿に譬え、婚礼の客を弟子たち及びイエスと共に生きようとする群衆に譬えた、イエスの福音がもたらす婚宴の喜びに与かって、この時代と社会の中で私たちも生きていきたいと願います。
  • その道とそれぞれの課題を私たち一人ひとりに、神が示してくださり、その道を一歩一歩生きていくことができるように、私たちの下に聖霊を送ってくださるように祈りたいと思います。
  • 祈ります