なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(102)

11月29(日)待降節第1主日(10:30開始)

 (注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 ⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう   (各自黙祷)。

② 招きの言葉 「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ高低のある地は平らになり、険しい所は平地になる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。」

                        (イザヤ書40:4-5)

③ 讃美歌  171(かみさまのあいは)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-171.htm
④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編24編1-10節(讃美歌交読詩編25頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   マタイによる福音書24章36節-51節(新約48頁)

      (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌 160(深い悩みより)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-160.htm

 

説教 「目を覚まして待つ」  北村慈郎牧師

祈祷

  今日はアドベント第一主日です。今日からアドベントが始まります。アドベントとは、教会の暦でイエスの誕生であるクリスマスを待ち望む時期を意味します。教会においてイエスの誕生であるクリスマスを祝い、クリスマスを待ち望むようになる前に、初代教会ではキリストの再臨を待ち望んでいました。

 待ち望むということで言えば、イスラエル預言者の中にも「主の日への備え」という信仰がありました。「主の日」とは、神が到来する終わりの時を意味します。そして預言者アモスにとりましては、その日は神の裁きの日でした。アモス書8章9節以下にこのように言われています。

  「その日が来る、と主なる神は言われる。/わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする。/わたしはお前たちの祭りを悲しみに/喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え/どの腰にも粗布(あらぬの)をまとわせ/どの頭の髪の毛もそり落とさせ/独り子を亡くしたような悲しみを与え/その最後を苦悩に満ちた日とする。」(8:9-10)と。

  先ほど司会者によってマタイによる福音書の24章36節以下を読んでいただきましたが、その少し前の29節以下にも、アモスの預言と同じようなことが記されています。

  「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる、/そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる方と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのである。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから、天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(24:29-31)。

  初代教会では、この人の子の到来とキリストの再臨が重ね合わされていました。

  アモスでは、主の日の到来は神の審判で、人々にとっての悲しみと苦悩の日として語られていますが、マタイでは、人の子の到来は、救われる人と滅びる人の選別であり、人の子によって選ばれた人たちが四方から呼び集められると言われています。そこには、おそらくイスラエルの民に変わる新しい神の民の誕生が暗示されていると思われます。

  人の子の到来の前には、様々な苦しみや異常なことが起こると言われていますので、そのことによって人々は絶望するが、それを耐え忍んで、裁きによる選別を通して救いに与かる希望を失ってはならないと語り掛けられているのであります。

  預言者イザヤも、主の日の到来を示す終わりの日について語っています。「終わり日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる」(2:2)。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(2:4)と。

  このイザヤ書の終わりの日についての預言では、その日には、すべての人間の罪と争いが裁かれて、神の救いが完成するのです。剣や槍という昔の人が戦いのための武器にした道具が、鋤や鎌という昔の人が畑を耕したり、草を刈り取ったりする道具になり、もう絶対にどんな国も他の国と戦争をすることがなくなるというのです。それが、神が最も望まれることで、神がこの地上にやってこられる時には、その神のみ心が実現するというのです。

  ある人は、「もしイザヤが、この救いの日の到来を、現代のことばで語ったなら、どう表現したでしょう」と言って、このように言っています。「核兵器やミサイルの製造に使うお金が、飢えている人びとに還元され、一部の人に独占されている土地が、家のない人びとの住まいとなる」と。

  わたしたちは、皆が武器を捨てて、争いをやめ、互いに助け合い、すべてを分かち合い、共に生きるようになる世界が来ることを、待ち望んでいます。救いの日とは、それが実現する時だと。その日には、すべてのものが、イエスと共に神のもとに集められ、人類があらゆる罪と争いの奴隷状態から解放されて、まことの平和が実現すると言うのです。

  マタイ福音書では、この日が来ることを、用意して待っている者、常に目覚めている者と、そうでない者とが、決定的に分けられると言われています。

  40節、41節には、「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」と記されており、人の子の到来は、片や救いに片や滅びに選別する終末の審判の到来を指し示しているのであります。

  「だから、目をさましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるか、あなたがたには分からないからである。」(42節)。「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(44節)と。

  「目を覚ましている」ことが、45節以下では「忠実で賢い(思慮深い)僕」を例に出して語られています。「忠実」とは、主人の意志を誤りなく聞き分け、それを守ることです。ですから、「目を覚ましている」とは、再臨の主イエスの御前にふさわしい者として見出されるように、神の御心にふさわしく、義と平和を求めて生きて、備えることを意味しています。

  25章1節以下に「十人のおとめのたとえ」が出てきますが、そこでは五人は愚かで、五人は賢かったと。賢さは知的な賢さではありません。時を判断し、そなえることのできる能力です。愚かさは備えを忘れる怠惰を意味します。この譬えについては、次回学びたいと思います。

 ここには、マタイの思想が、この上なく明瞭に表現されています。すなわち、信仰とか忠実とかいう概念は、行為と切り離された精神的な態度や心の持ち方ではなく、具体的な生活や振る舞いにおいてのみ認められる行動原理なのであります。

  しかし、その行動原理は自分から何かを仕掛けるということよりも、目をさまして主の到来に備えること。待つことであると語られているのであります。

  演出家の竹内敏晴さんと哲学者の木田元(げん)さんの対談が本になっています。『待つしかなかない、か。~二十一世紀の身体と哲学~』という本です。この本の中で竹内敏晴さんは「待つこと」について、このように述べています。

  ≪私は無明を抱えて(煩悩にとらわれて)、なんとか愛智の道を学ぼうと努めるに過ぎないものなので、「しぶとく生きる」という言い方しか見つまりませんが、これは「待つこと」でもあろうかとは思っています。「待つ」とは何もせず坐っていることではなく、仕掛けよう支配しようとすることを絶つこと、生起して来るものへ向って身を謙虚に保ちつづけることだろう、と」。

  そして、こんなことを言っています。「仮面のレッスンに『火になって燃える』という課題があります。表情のない面を着け床(ゆか)に横たわって、ただしんと集中を深めてゆくと、突然からだの内から波うつ火が噴き上げて来る。この「来るものを待つ」には自分を澄んだ一点に、と言ってもよいし、ただカラッポになって、と言うこともできる。自分を追い詰めつづける正確さが要ります。エネルギーを使い果たすような、この身を澄ます努力が「待つ」ということだろうと思う。」と。

  目をさまして来るべき主の到来に備えるとうことは、イエスを自分の中に迎え入れるということではないでしょうか。「生起してくるものへ向って身を謙虚に保ちつづける」とき、生起してくるものに私たちは自分のからだを明け渡すことができるのでしょう。

 私たちは今の世の中を憂えます。もっと人の命と生活が脅かされない、平和で安心して暮らしていける世の中になってもらいたいと。おそらく多くの人がそのように思っておられるでしょう。

  けれども、現実はなかなか良い方向にはいかずに、むしろますますひどい状態になっていくのではないかと不安になります。そして絶望してしまい、投げやりになってしまう危険性があります。そのような中で、それでも希望を持ち、あきらめないで生きる力を与えられたいと思うのです。

  ナチの時代の強制収容所の生活を描いた『夜と霧』の作者、ヴィクトール・E・フランクルは「もはや何一つ変えることができないときには、自分たち自身が変わるしかない」と言っています。

  「強制収容所」という状況を変えることができないわけですが、フランクルはその強制収容所に入れられて、「自分自身を変えるしかない」と考えて、絶望的な状況の中で、絶望せずに希望を持ち続ける自分自身に変えて、生き抜いたということではないでしょうか。

  わたしたちも、毎日の生活に忙殺されて神の呼びかけに鈍感にならないよう、つとめたいものです。神のみこころがどこにあるか、探し求めながら、イエスが再び来られる日に向けて、一日、一日を、「目覚めて生きる」ことができますように。待降節の日々は、特にわたしたちにこのことを思い起こさせてくるのではないでしょうか。  

 

祈ります。

 神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。

 今日からアドベントになります。今日は「目を覚まして待つ」ことの大切さを、マタイ福音書から教えられました。現代の情報社会に生きています私たちは、資本主義社会から発信されるあふれる情報の海に沈められて、資本と権力の奴隷にさせらて、あなたを見失ってしまいかねません。どうか「目を覚まして」あなたと主イエスの到来を待つ者へと、私たちを導いてください。そして私たちが、あなたと主イエスの到来を「待ちつつ、祈りつつ、正義を行う」者となることができますように。

 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

 この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌 575(球根の中には)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-575.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)

 讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

 主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 これで礼拝は終わります。