なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(11)

      使徒言行録による説教(11)、使徒言行録2:42-47

・今日の使徒言行録の個所は、ルカが記している最初の教会の様子が記されています。ここに記されている最初の教会の姿が、たとえルカの理想化された教会の姿であったとしても、現在の私たちの教会の姿と比べてみますと、随分違います。この使徒言行録に記されている教会の姿と比べますと、私たちの教会は、ある人が言っていますように「讃美歌付き講演会」と言われる礼拝に毎週集まってくる集団に過ぎないということがよくわかります。ここでルカが描いている最初の教会は、一種のコンミューンのような信仰の一致による生活共同体の姿を取っていたように思われます。

滋賀県能登川というところに止揚学園という知恵遅れの人たちの施設がありますが、そこではある種のコンニューンのような共同生活をしています。施設で生活している知恵遅れの人たちと職員と職員家族が、通いの職員を除いて、すべて昼も夜も一つの場所で共同生活をしているのです。外からみますと止揚学園は、そこだけで成り立っている一つの世界のようにも思われます。日本の社会は競争社会ですが、止揚学園は弱さを持った人たちが大切にされている、強い者が勝利する競争社会ではなく、弱い者も強い者もお互いに支え合い、助け合う共同体をめざしています。ですから、日本の全体の社会の中では止揚学園は、ある面で社会から隔離されて、強い者が勝つ競争社会から遮断されている場所になっています。現在では、そういう形でないと、社会的弱者を守ることができません。

・教会も同じように、古代社会では特にその土地の社会の中にあって、社会とは遮断された特別の人間集団であったのではないでしょうか。今日の使徒言行録でルカが描いている最初の教会も、そのような形態をとっていたように思われます。最初の教会に集まってきた人々を一つに結集したのは、「使徒たちの教え」であり、「交わり」であり、「パン割き」であり、「祈り」だったと、ルカは記しています(42節)。そして「信じた者たちはみな同じ場所に居て、一切を共有していた」(44節)とも言われています。「また財産や所有物を売って、必要とする者がいれば、それを誰にでも分けた」(45節)とも言われています。このように記されている教会は、明らかにエルサレムの町の中にあって、外から見れば閉鎖的な一つの信仰集団を形成していたと思われます。使徒言行録1章15節では150人ほどの集団が、2章41節では、それに三千人が加わったと記されていますが、どちらも誇帳があるとしても、最初の教会は小さなコンミューンだったとは言えるのではないでしょうか。

・イエスをキリスト、メシアと信じる人たちが、エルサレムというユダヤ人社会の中で存在するためには、相当強固な結集軸によって一つになっていなければ不可能だったに違いありません。ユダヤ人社会には孤児ややもめのような社会的弱者への配給があったようですが、同じようにイエスをキリスト、メシアと信じる者たちの中に社会的弱者がいたとして、彼ら・彼女らにユダヤ教徒と同じように配給があったかというと、それはほとんどあり得なかったと考えられます。その点では政教分離の上に立つ近代社会、現代社会と、古代社会は根本的に違います。ユダヤ教徒は異教徒と自分たちを基本的に分けていたと考えられるからです。イエスをキリスト、メシアと信じる人たちが、一生懸命神殿参りをして、自分たちはユダヤ教徒と何ら変わらないのだとユダヤ教徒に示したとしても、十字架につけられたイエスをキリスト、メシアと仰いでいる人たちが、実体としてその最初期の教会がユダヤ教の一分派であったとしても、ユダヤ教徒たちは自分たちと同じ仲間とは考えなかったのではないでしょうか。ですから生活面からも新しく誕生した最初の教会に集まった人々は、自分たちで相互扶助をしなければならなかったのでしょう。近代社会である現在の日本の社会のようであれば、政教分離に立って、公共の社会に生きている者はどんな宗教を信じていても、生活保護社会福祉の恩恵を受けることができますが、古代社会ではそういうわけにはいきませんでした。ですから、使徒言行録でルカが描いている最初の教会はルカによって理想化されてはいますが、イエスをキリスト、メシアと信じる信徒たちが同じ信仰によって一つになって、何らかの生活共同体的な集団を形成していたことは事実ではないでしょうか。

・この使徒言行録の描く最初の教会は、消費における共同は描かれていると思いますが、生産における面ではどうなっていたのかは、何も記していませんので分かりません。多分イエスの再臨が近いという終末観を強く持っていて、財産を売り払って教会のメンバーを経済的に支え合ううちに終末が来ると思っていたのかも知れません。

・ただ、彼ら・彼女らは、「思いを一つにして毎日神殿に居つづけ、また家ではパンを割き、喜びと純粋な心をもって食事を共にし、神を賛美し、民のすべての者たちに好まれていた」(46,47節)と言われています。また、使徒たちは、イエスのように病者の癒しや悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出す「奇跡と徴」を行っていたので、「すべての人に恐れが生じた」(43節)ということですから、ますます人々の中には、新しく誕生した最初の教会のグループに、自主的に加わって来る者もいて、「主は救われる者を日々一緒に加えてくださった」(47節)というのです。

・この最初の教会は、ルカによればイエスをキリスト、メシアであるとするペトロの説教を聞いて洗礼を受けた者たちによって成立したと言われています。けれども、ペトロの説教の基盤となっているナザレのイエスの生涯と死と復活という出来事が、ペトロの説教を聞いた人々の中にも、まざまざと甦って来ただろうと思います。神の国の福音を宣べ伝え、病者を癒し、悪霊に憑かれた者から悪霊を追い出し、虐げられた者たちと共に生きたイエスの生き様を想い起し、この方こそ神が私たちのために遣わして下さった救い主、メシアなのだという信仰です。そして成立した最初の教会の中には、イエスがもたらした福音の喜びが充満していたに違いありません。

・教会はイエスの出来事への感動によって生まれた信仰共同体であると言えるのではないでしょうか。

・そのような最初の教会の姿から、現在の私たちの教会を振り返ってみますと、イエスの福音が第一にあると言えるでしょうか。教会が第一になってはいないでしょうか。教義と信仰告白と教憲教規によって、洗礼から聖餐へというサクラメントを正しく守らなければ教会ではないという人たちにとって、最初期の教会は教会ではないのでしょうか。「使徒たちの教え」と言っても、ルカには1世紀後半の教会の状況を最初の教会に当てはめて語っている傾向がありますのが、後の教会が言うところの「使徒伝承」が最初の教会にあったわけではありません。イエスとイエスの福音との関係からすると、現在の教会は逆さというか、倒錯してしまっているのではないでしょうか。

・クリストフ・ブルームハルト、ブルームハルト父子からすると子供の方ですが、この人の中国で宣教師として働いている娘婿に送った書簡を編集したものが日本語に訳されて一冊の本になっています。序文でこの本の編集者は、「ブルームハルトは、『イエス・キリストの福音』と『キリスト教徒の福音』とを鋭く区別している。『キリスト教徒の福音』は、等しいかあるいは類似した信仰を持つ者たちの教義学的で信仰告白に適った組織的統一化という意味での教会と教会建設とを目指す。『イエス・キリストの福音』は神の国を目指し、それはどんな宗教的分派主義とも無縁である。・・・・・『キリスト教徒の福音』は窮屈さへ向かう。それは、神の国に取って代わり、人間を自らに服従させようと欲する『宗教』と『教会主義』とに向かうが、その際『教会のキリスト』が『支配の原理』となることは避け難い。それに対してイエス・キリストの福音は、広さへと向かい、神の国へ通じている。それが意味するのは『宗教』と『教会主義』に対する裁きであり、神の国に捉えられた人々を、人間に対する支配者ではなく、神の奉仕者とする。この意味において『キリスト教徒の福音』はキリスト教あるいは宗教と同一であり、また『イエス・キリストの福音』が、キリスト教や宗教に対立するのもこの意味においてである」9-10頁)。

・教会の建設が自己目的化すると、イエス・キリストの福音に対立する危険性があるということを十分知った上で、イエス・キリストの福音によってたつ教会建設をしていかなければならないと思います。

・そういう観点からしますと、寿の炊き出しに関わっている人が、ここに教会があると言われたことを忘れることはできません。寿の炊き出しにはイエス・キリストの福音が具体的に表されているのではないかと思えるところがあるからです。寿では毎週金曜日に炊き出しが行われています。仕事にもつけず、食べることにも不自由している人がいるなかで、そのような人たちと共に食い、共に生きようとして炊き出しが行われています。今日の使徒言行録に、「喜びと真心をもって一緒に食事をし」と記されていますが、この使徒言行録では教会に集まっている人たちだけで、誰でもがというわけではないと思いますが、信徒同士の中での「炊き出し」と言えるのではないでしょうか。持てる者と持たざる者がいて、「財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った」と記されていますので、相互扶助的な生活があったということでしょう。福音書の中にある5000人、4000人の共食の物語が神の国の祝宴の先取りと言われるならば、寿の炊き出しも神の国での祝宴の先取りと言えるのではないでえようか。教会はその喜びを共有し、神の国の実現をめざし、そのために働き、十字架につけられ殺されたイエスが、甦って今も私たちの先頭に立って歩んでいて下さるから、イエスと共に神の国を生きる者たちの交わり(コイノニア)ではないでしょうか。