なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(168)復刻版

 「黙想と祈りの夕べ通信(168)」復刻版を掲載します。    

      黙想と祈りの夕べ通信(168[-11]2002.12.15発行)復刻版

 今日はこの集いの前に、クリスマス礼拝で「信仰告白」をする予定の幼児洗礼を受けている少年
とその父親とで準備の時を持ちました。少年は中学1年生です。12歳の少年の信仰告白ははじめて
です。信仰告白とはどういう事柄なのかを、出来る限り分かり易く話し、自分からイエス・キリストを信じるという告白を公の場である教会の礼拝の中で言い表すことだと。少年はハイと言って了解しました。私はそのことだけを確認できれば、彼の信仰告白を教会として受け入れるように働きかけるつもりでしたので、彼の答えを聞いて、22日の役員会に諮り、了承されれば、その日のクリスマス礼拝で信仰告白式をするようにしたいと思っていましたので、彼にもそのように話し、お祈りをして終えました。以前に他の教会では小学生の子どもの信仰告白をしたということを聞いたことがありました。けれども、自分の所属する教会ではありませんでしたので、子どもが成人信徒の一人として在籍する教会において、その子どもを対等同等な一員として形成される教会はどのようなものなのかについて、余り考えて来ませんでした。と申しますのは、現在の教会の営みは、礼拝をはじめその他の集会も比較的元気な成人信徒を基盤にして形成されているからです。今回のことは、教会への一つの問いかけとして、これからの教会のあり方を考えて行きたいと思っています。

 上記の私の発言に続いて、伝道師からの発言がありました。このクリスマスに洗礼者・転入会者・信仰告白者があり、同じ道を歩む者が与えられることは感謝である。先週の日曜日の役員会で上記志願者の報告があったが、今週信仰告白と洗礼との違いについて数名の人から質問された。幼児洗礼者は堅信礼(信仰告白)を経て成人信徒になることを説明した。自分も幼児洗礼を受け、高校2年の時に信仰告白した。統計上幼児洗礼者は教団に約7000人位いる。ヨーロッパの国はキリスト教世界を経ているので、教会の幼児洗礼者は日本の教会と比べたら、その背景が異なり、比較にならない。最近日本のバプテスト教会の中には、本来バプテストは成人洗礼のみを認めている教派であるから異例なのだが、幼児洗礼を取り入れて教会形成をするところが出ている。その考え方としては、従来の成人洗礼のみだと、信仰が個人主義的になり、教勢も伸びない。幼児洗礼を認めていくことで、信仰も家族を基盤にすることができ、教勢の伸びに繋がる。幼児洗礼を受けた者が信仰告白をするかどうかは、それぞれに任せるというのである。個人主義的な信仰から家族主義的な信仰へということのようだが、それが良いのかどうかという判断は、私にはまだよく分からない。とにかく幼児洗礼者の信仰告白ということから、信仰告白と洗礼との違いについて考えさせられる機会を与えられ、同じ道を歩む者が与えられるということはうれしい。感謝である。

 また、一人の方から発言がありました。先週は風邪をひいて、家でゆっくり過ごした。最近よくスローライフという言葉を聞く。食事に時間をかけ、食材も無農薬の栽培でよく作る。今の社会は情報も得易く、旅行などもインターネットですぐ情報を得ることができる。昔なら時刻表で調べながら時間がかかった。しかし調べる過程でワクワクしたが、今はそうではない。ファックスも便利だが、宣伝も入ってきて、ゴミとして捨てるようになる。今日の日曜日も、朝からあわただしかったが、夕方ゆっくりする時間を持った。ローソクを灯し、音楽を聴き、その後テレビ「ようこそ先輩」を観ていたら、今日のテーマは食についてであった。その中で、小学生たちがお年寄りから指導を受け、栗と麦とでご飯を作ったり、小麦粉をねって団子汁を作ったり、豆腐を石臼から作ったり、手をかけ時間をかけて、グループに別れて食事を作る場面があった。時間の使い方と人間の心のあり方は並行しているのではないか。ゆったりした時には、いろいろなことを思い巡らすことができる。テレビの中で、お母さんの料理がおいしいのはなぜかを、子どもに聞かせると、自然のものを使っていることを知る。スローライフと重なり、教会も子供たちからお年寄りまでゆったりとした交わりが求められているのではないか。少しずつ昔のゆっくりでもやさしい社会に戻りたいと、強く思った。


      「主を受け入れた者」(『ルターによる日々のみことば』より)

  しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与え  たのである。
                       ヨハネ 1:12

 ここに神の子の来臨によってもたらされる、実にすばらしい栄光を見いだします。それは、主が世を助けるために、神からつかわされたかたであると信じ、信頼し、受けいれた人たちに、もたらされる栄光です。主の名を信じた人々には、神の子となる力と権利を与えてくださるとは、全く新しいわざであり、道であります。

 要約していえば、神の子とされるような高い栄誉とすばらしい自由と力にいたるには、ただキリストを知り、主を信じるだけであって、それ以外の道、方法、手段によっては決して得ることができないということです。この栄光は年ごとに、そして日ごとにわたしたちに向かってのべ伝えられ、差し出されていますが、あまりにも偉大であって、だれも十分に考え尽くすことができませんし、ましたや、ことばであらわすことはできません。アダムの時以来生まれつきこのようにみじめで罪に定められたあわれな罪人であるわたしたちが、この高いほまれと栄光のうちにはいり、そしてわたしたちはその子とされ、キリストはわたしたちの兄弟となり、そして、わたしたちはキリストと共同の相続人とされ、しかも愛する天使たちがわたしたちの主人でなく、わたしたちのしもべとなり、兄弟となるのです。このように偉大な圧倒的なものでありますから、このことを深く思いめぐらした人は全く驚いて、「愛する兄弟よ、そんなことがありえましょうか。それはまことでしょうか」と言います。

 それゆえ、ここでは、聖霊が主でなければなりません。ここでは、主はこの知識をわたしたちの心に書き込み、わたしたちの心にあかしされ、それによって、「しかり」とない、「アーメン」となり、わたしたちはキリストを信じる信仰によって、今も、とこしえまでも神の子となります。

                         ヨハネ福音書1章の講解