なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(479)

船越通信、№479 2020年12月13日 北村慈郎

  • 12月6日(日)の礼拝後船越教会の皆さんが私の誕生日(12月4日)ということで、昼食を用意してくださいました。コロナのこともあり、会食は控えた方が良いと思いましたが、折角ですので、注意して距離を置きながら、みんなでいただきました。また、私のためにハッピー・バースデイの歌も歌っていただきました。ありがとうございます。その日の説教の前触れでも、「誕生日を迎えて、79歳という年を意識させられて、かえって気持ちも年寄りになったようです」と申し上げた通りです。会食後、12月役員会を行いました。この日の役員会では、去る11月29日(日)礼拝後開催しました臨時教会総会で可決承認されました教会裏の崖地に関する今後の手続きについて話し合い、近隣住民の関係者にお手紙を出して説明し、来年2月以降に説明会を行って、承認していただくようにしました。ただ新型コロナウイリス感染のことがありますので、予定通り進めることができるかどうかは分かりません。できることは、しておこうということです。私の冬期休暇は1月3日(日)にさせてもらいました。役員会では1月3日の礼拝は、私の説教を読んで、その後話し合いをすることにしました。役員会を終えたのが午後1時半過ぎで、この日私が船越教会を出たのは午後3時過ぎで、鶴巻のマンションに着いたときには、もう暗くなっていました。
  • 12月8日、戦後75年の年の「開戦の日」になります。この日の東京新聞社説には「鶴彬(ツルアキラ)獄死の末にある戦~開戦の日に考える~」と題して、川柳家鶴彬(本名・喜多一二〈カツジ〉、1909年生)のことが記されていました。私の父も川柳家でしたが、この人の存在については、この社説を読むまで全く知りませんでした。1938年9月に29歳で亡くなっています。私が生まれたのは1941年で、そのとき父は既に40歳を越えていましたので、この川柳家は父より十数歳若い人です。
  • 社説に紹介されていた鶴彬の作品を紹介します。15歳の時の作品〈静な夜口笛の消え去る淋しさ〉(24年「北国柳壇」)、「『蛇が来る』などと忌み嫌われた夜の口笛を吹いても、何の反応もない寂しさ。少年期の感傷的な心象風景が素直に表現された作風がこのことの特徴でしょう」(社説記者)。19歳の時の作品〈聖者入る深山にありき「所有権」〉(28年「氷原」)、「このころの都市部では労働運動、農村では小作争議が頻発、政府は厳しく取り締まりました。持てる者と持たざる者、富める者と貧しい者との分断と対立です。修験者が入る聖なる山にも俗世の所有権が及ぶ矛盾、そこに目を向けない宗教勢力への批判でもあります」(同上)。28歳の時の作品〈万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た〉、〈手と足をもいだ丸太にしてかへし〉、〈胎内の動きを知るころ骨がつき〉、「召集令状一枚で男たちは戦場へ赴き、わが家に生還しても、ある者は手足を失い、妻の胎内に新しいわが子の生命の胎動を知るころに遺骨となって戻る男もいる。鶴が川柳に映しだした戦争の実態です。いずれも37年11月「川柳人」掲載の作品です」(同上)。
  • 特高はこうした表現を危険思想とみなし、同年(37年)12月、治安維持法違反容疑で鶴を摘発し、東京・中野区の野方署に勾留しました。/思想犯に対する度重なる拷問と劣悪な環境。鶴は留置中に赤痢に罹り、東京・新宿にあった豊多摩病院で38年9月に亡くなりました。29歳の若さでした」(同上)。
  • 最後にこの社説の記者はこのように記しています。その思いを共有したいと思います。「安部政権以降、日本学術会議の会員人事への政府の介入や、政府に批判的な報道や表現への圧力が続きます。今年は戦後75年ですが、戦後ではなく、むしろ戦前ではないかと思わせる動きです。/戦後制定された憲法の平和主義は、国内外に多大な犠牲を強いた戦争の反省に基づくものです。戦争の惨禍を二度と繰り返さない。その決意の重みを、いつに増して感じる開戦の日です」。
  • この週は散歩に出たくらいで、私の出席する集会や委員会もなく、ずっと鶴巻にいました。そのお陰で、今まで何回か読んできましたし、以前紅葉坂教会時代には入門講座のテキストにも使いました、秋田稔さんの『聖書の思想~キリスト教思想の根柢』~(塙新書23、1968年第一刷)を再度読み直すことができました。秋田稔さんは、この著書の「あとがき」の中で、「いかなる現実の体制の重圧下にあっても、平和の君イエスにつづくものとして、現実への根柢的批判と、平和への不退転の意志を、たとい一進一退はあっても、持ちつづけようとする、それがキリストに従おうとするものの平和への態度であろう」と述べています。私自身もそのようにありたいと思っています。
  • 斎藤幸平『人新生の「資本論」』④、斎藤は、≪(気候変動危機)の破局を避けるために、2100年までの平均気温の上昇を産業革命前の気温と比較して、1.5℃未満に抑え込むことを科学者たちは求めている。/すでに1℃の上昇が生じているなかで、1・5℃未満に抑え込むためには、今すぐ行動しなくてはならない。具体的には、2030年までに二酸化炭素排出量をほぼ半減させ、2050年までに純排出量をゼロにしなくてはならないのである。/その一方で、もし現在の排出ペースを続けるなら、2030年には気温上昇1.5℃のラインを超えてしまい、2100年には4℃以上の気温上昇が起こることが危惧されている。/気温上昇が4℃まで進めば、当然、被害は壊滅的なものになり、東京の江東区墨田区江戸川区のような地域では、高潮によって多くの場所が冠水するようになるといわれている。大阪でも、淀川流域の広範囲の部分が冠水するだろう。沿岸部を中心に日本全土の1,000万人に影響が出るという予測もある。/世界規模でみれば、億単位の人々が現在の居住地から移住を余儀なくされることになる。そして、人類が必要とする食料供給は不可能になる。経済的損失の莫大で、年間二十七兆ドルになるという試算もある。こうした被害が恒常的に続くのだ≫と記す。この気候危機の深刻さは、主に先進国に住む私たちの生活様式に原因がありながら、なかなか実感できません。最近台風やゲリラ豪雨による被害が頻発するようになり、それが気候変動によるものと思われますので、少しは感じられるようになっています。どうしようにも何もできなくなる前に、気候変動危機を乗り越え、持続可能な社会を創り出さなければなりません。そのために私たちは何ができるのか