なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイのよる福音書による説教(104)

12月13(日)待降節第3主日(10:30開始)

 (注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 ⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 ② 招きの言葉 「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ高低のある地は平らになり、険しい所は平地になる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。」            (イザヤ書40:4-5)

③ 讃美歌  241(来たりたまえわれらの主よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-241.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編113編1-9節(讃美歌交読詩編126頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   マタイによる福音書25章14-30節(新約49頁)

      (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌 231(久しく待ちにし)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-231.htm 

 

説教 「タラント」  北村慈郎牧師

祈祷

  「タレント」という言葉は、みなさんよく知っていると思います。

 テレビやラジオなどのマスメディアに職業として出演している芸能人などの総称です。アナウンサーなどの放送局関係者、文化人やスポーツ選手など他の分野での活躍がありながらもテレビ出演が目立つ人、芸能事務所に所属している人も概ね「タレント」と呼ばれています。

 実はこの「タレント」という言葉は、今日の聖書の「タラント」の譬えからできたものです。「この話が元になって、西洋諸語では『タラント』という語が個々人に神があずけた「才能、能力」を意味するようになり、それがやがて神と無関係に単に『才能』の意味になり、フランス語でtalentという綴りになり、英語でそれが『タレント』と発音され、ついに日本に上陸してタレントさんになってしまった」というわけです。

  ところで、今日のタラントの譬えについて、みなさんはどのように読んでいるでしょうか。

  このタラントの譬えは、キリスト教会の中では、これは金銭のことを語っているのではなく、人間一人一人が持っている能力(賜物)が神より与えられた「タラント」なのです。そして、能力を伸ばし活用するのを怠るのは、神より与えられた課題を果たさなかったことになると解釈されることが多いのではないでしょうか。

  このように個人的な賜物としての能力を活かして働くことが、神に与えられた課題を果たすことだということだとしますと、いろいろな場合に適用することができます。例えば、自分の能力を発揮して、大会社の社長になった信仰者を「忠実な良い僕、よくやった」とキリストにほめられるという解釈も成り立つわけです。

  しかし、私にはどうしてもそのようにはタラントの譬えをすっきりと理解できません。本当なのだろうか、という疑問が残ってしまいます。

  そこで、いろいろ調べて見ましたが、一番納得できるのは、田川建三さんの『イエスという男』の第二版で、「おそらく、この話の最も的確な解説は、現代ケニヤの作家グギ・ワ・ジオンゴの書いたものであろうか」と言って、グギの書いた『十字架上の悪魔』という本の中に出て来る「タラントの譬え」の解釈を紹介していますが、その解釈が納得できます。

  そのグギの解釈を紹介したいと思います。

  グギは、「(このタラントの譬え)に出て来る『御主人様』は、世界的な帝国主義経済の支配者である」と言うのです。通常この譬えに出てくる「御主人様」は神様と考えられているのではないでしょうか。しかし、グギは、この「御主人様」は、「世界的な帝国主義経済の支配者である」と言うのです。

  現在の帝国主義経済の支配者は誰かという、個人を特定することは難しいと思いますが、超富裕層と言えるかも知れません。帝国主義経済とは、搾取と収奪によって成り立っている経済です。先進国と言われる国でも働く人々である労働者の搾取があります。新自由主義による非正規雇用も労働者の更なる搾取です。それ以上にかつて植民地支配を受け、今も安い賃金と劣悪な環境で働かされているグローバル・サウス(途上国)の人々は労働だけでなく、自分の国の資源も先進国に奪われています。グギはグローバル・サウスの人たちの立場から、このタラントの譬えを読んで、「御主人様」は「世界的な帝国主義経済の支配者である」と考えたのでしょう。

  ですから、「タラントを預けられて、その資本を活用しながら儲けまくったのは、直接アフリカその他の旧植民地世界に進出してきた多国籍企業とそのもとにいる現地の企業家にほかならない」言うのです。

  「世界的な支配者は、その忠実な従僕のある者には50万シリング(ケニア・シリング=0.93円)もの資本を、ある者には20万シリングの資本を託しました。そしてその者たちはそれを元手に稼ぎまくって、(それを)御主人様に提出しました。それに対し、10万シリングしか預けられなかった者は、ふと疑問をいだきます。その御主人様はいつも、自分の持ち込んできた何ほどかの資本でもってこの国を開発、発展させてやったのだ、と自慢している。しかしそれなら、本当にその金が冨を生み出すものかどうか、見てみようと、その金を空き缶の中にしまっておいた」というのです。

  「しかしもちろん、その金が自分で利潤を生み出すわけがありません。しまっておいた金はいつまでも10万シリングのままです。そこで彼は御主人様に対して言います。実際に冨が生み出されているのは、労働者たちの労働なのだ。彼らが汗水流して働くことによって、此の世の冨が生み出されているのだ。それに対して、あなたは自分がかつてまったく蒔いたこともないところから摘み取る。自分が汗して働いたこともないところから収益を集める・・・・」と。

  そのようにこのタラントの譬えを解釈しているのです。もちろんグギ・ワ・ジオゴンは、この譬え話の学問的な解説をやっているわけではありません。単に、これに手がかりを得て、現代の世界の、自分たちの、状況を批判的に描きたかっただけです。けれども、グギの生きている状況と、かつてイエスが生きた状況とが、多くの点で共通するものを持つが故に、グギはおのずとこの譬え話の基本の質を読み取ったのではないか、と田川建三さんは言うのです。

  田川建三さんは、「少なくとも確かなのは、「蒔かないところから刈り取り、散らさないところからも集める御主人様」が絶対的な正義の神であって、「タラント」を託されているのは、世の中にいるすべての敬虔なクリスチャンたちである、などと説教する聖書学者よりは、この御主人様のやり方は非人間的であり、「タラント」を託されたのはその世界支配の手先となって働く巨大勢力の連中だ、と読み取った点において、グギの方がはるかにこの譬え話の心を理解している、とうことだ」。イエスは言った、「持てる者はますます多く持つようになり、肥え太る。持っていない者は、その僅かに持っているものまで収奪されて、痩せ細る。こんなひどいことがあるのか!」と言っているのです。

  どうでしょうか。私は、社会の底辺で苦しむ人や貧しい人の荷を負い、共に生きたイエスのことを考えると、グギ・ワ・ジオゴンのこのタラントの譬えの解釈と田川建三さんの言っていることが、説得力を持っているように思えてくるのです。

  とすれば、このタラントの譬えをイエスが語った時には、神ではなく資本=お金に心を売る者を批判して語ったとことになります。それを天国の譬え(25:14)として受け止めたのは、後の教会なのでしょうか。後の教会のメンバーがある程度持てる者が中心になり、個人的な賜物としての能力を活かして働くことが、神に与えられた課題を果たすことだというように、このタラントの譬えを解釈したのかも知れません。

  私は最近船越通信に斎藤幸平の『人(ひと)新生(しんせい)の「資本論」』を少しずつ引用しながら紹介しています。斎藤幸平は、この本で晩期マルクスの思想を手掛かりに、人類の滅亡に繋がる現代の気候変動危機を乗り越えるためには、帝国主義的経済である、経済成長優先の資本主義に代わる新しい社会システムを作り出さなければならないというのです。資本主義は、労働者からの搾取と資源の収奪によって成り立っていて、資本主義が続く限り、グローバル・サウスの人々の犠牲は続くし、二酸化炭素排出量削減も難しく、気候変動危機を乗り越えらないと。

  斎藤幸平は、水とか電気は、土地も、公共のものではないかと言うのです。ですから、それらは本来みんなで管理するものだと。資本主義社会では電気も土地も企業のものになっています。資本主義社会では、資本家と政治が結託して、上からの支配が行われています。その現在の社会システムが気候変動危機を生み出しているので、賃金生活者の私たちはそういう現在の資本主義という帝国主義的経済に包摂されていて、帝国主義生活様式を無自覚に取ってしまっている、と言うのです。大量生産・大量消費の社会の中で、本当に必要なものではないものを、欲望を煽られて買って、この資本主義社会、帝国主義的経済を下から支えてしまっているというわけです。そのような自分自身に気づいて、一から出直さないと、気候危機による人類滅亡は食い止めることはできないというのです。

  そして資本主義に代わる新しい社会システムを晩期マルクスの思想に基づいて「脱成長コミュニズム」と呼んでいます。トップダウンではなくボトムアップというか、下から築いていく社会で、自治と相互扶助に基づく様々な社会運動の連帯による積み重ねとして描かれている社会です。その社会運動の意思決定も、民主主義による対等な話し合いにおいてなされます。斎藤は国家は認めています。ただ今のように資本と結託するような政府ではなく、下からの運動に呼応する政府の存在を思い描いています。ですから、民衆と政府が一体となって、現在のような経済至上主義に代わって、「脱成長」によって二酸化炭素排出量を削減し、誰一人除外しないでみんなで共に生きるコミュニズムによって、気候危機を乗り越えて、持続可能な社会を創るのだと。

  私は、この斎藤の「脱成長コミュニズム」という社会に、聖書の神と人間の契約共同体との類似性を感じました。誰一人除外されない、すべての人の尊厳を大切にする中で、それぞれ与えられた力を出し合って、共同して創る社会が、イスラエルの契約共同体であり、新しいイスラエルとしてのコイノーニアとしての教会でもあると思うからです。

  資本と権力に抗して、自治と相互扶助による連帯に参与することが、神が私たちに求めていることで、貸し与えられて資本を何倍かに増やすことではないのではないでしょうか。

  私たちは、このタラントの譬えによって、個人的に与えられた賜物を用いて働くことの大切さを、現在の資本主義社会の帝国主義的経済活動の枠の中で考えてきたのではないでしょうか。その結果、私たちは資本に仕えてきてしまったのではないでしょうか。

  今日の新自由主義的なグローバルな世界の状況からしても、イエスのタラントの譬えは、ケニアの作家グギ・ワ・ジオゴンや田川建三さんの解釈に説得力を感じます。資本の増殖とそれを造り出す人間の能力崇拝を批判するところにイエスのこのタラントの譬えの意味があるとするならば、その批判を共有することを大切にしたいと思います。そしてこのイエスの譬えを換骨奪胎して、私たちや教会に合わせて解釈することだけは避けたいを願わずにはおれません。

  そして、さらに出来れば、資本と権力に抗して、下から生まれている自治と相互扶助に基づく連帯に、神を信じ神なしに生きる者として参与していくことができればと願います。

  主がその道を私たちに開いてくださいますように!

 

祈ります。

 神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。

 神さま、今日はタラントの譬えから、私たちがあなたから与えられた賜物を生かして働くということが、どういうことなのかを考えさせられました。私たちは現代のグローバルな資本制社会の中に包み込まれていて、その社会の一員として一生懸命生きることによって、下からその社会を支えているのではないかと不安になります。私たちの社会は帝国主義的な経済活動によって、グローバル・サウスの人々を搾取し、その国の資源を収奪することによって利益を生み出し、豊かな生活を享受してきました。どうかこの不正から私たちを自由にしてください。資本に仕えるのではなく、私たちの自治と相互扶助によって、公平で誰一人排除されない新しい、あなたの御心にふさわしい社会を築く力を私たちに与えてください。

 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

 この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌 516(主の招く声が)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-516.htm 

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。