なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(514)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(514)復刻版を掲載します。2009年8月のものです。


          黙想と祈りの夕べ通信(514[-43]2009・8・2発行)復刻版


 去る日曜日の礼拝説教ではマタイによる福音書25章14-30節のタラントの譬えをテキストにしてお話しを

しました。このタラントの譬えは、通常神から託された一人一人に与えられたタラントとしての賜物・能力

を生かして用いることの大切さを語るものとして理解されています。説教の中でもお話しましたように、こ

のタラントの譬えは、「すでにと未だ」の中間時の倫理として、キリストの再臨に備えてどう生きるかとい

キリスト者の課題を示しているというわけです。しかし、私はどうしても5タラント、2タラント主人か

ら預かった僕が、主人の旅行中にそれを2倍にしたという話にひっかかるものを感じていました。また、

1タラント預かって土の中に隠していた僕の「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所

からかき集められる厳しい方だと知っていましてので、恐ろしくなり地の中に隠しておきました。・・・」と

いう言葉にもひっかかるものを感じていました。ですから、このタラントの譬えを、イエスは言った、

「持てる者はますます多く持つようになり、肥え太る。持っていない者は、その僅かに持っているものま

で収奪されて、痩せ細る。こんなひどいことがあるのか!」というように、現代的に言えば巨大資本への

批判として理解すれば、よく分かるのです。私は田川建三さんの『イエスという男』の第二版からこのタ

ラントの譬えをそのような解釈に立って説教しました。この私の説教に対して何人もの人から応答があり

ました。別の解釈を示してくださった方もあり、私の説教を重く受け取って下さった方もありました。何

れにしろ私の説教を聞いて、聖書を読み直してその人なりに聖書のメッセージは何かを考える機会をもっ

てくださったことは、私には大変うれしいことです。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。4月はじめ天候の良い日が続いたとき、鶯が鳴

いた。その日から近所に道路を挟んでお寺があり、ずっと住職のお母さんが道路のお掃除をしていたが、

その方の体力の衰えが顕著だったので、自分もお手伝いを自分のためにとの思いですることにした。お掃除

の仕方によっては自分の体のためになるからである。それ以来毎朝ずっと続けている。今日お寺の住職の

お母さんが、本当に体がしんどくて助かりました、と言われた。お掃除は自分のためであり、またお寺の

周りが掃き清められてきれいになっていることも感謝である。毎日が感謝である。

もう一人の方の発言が続きました。私もタラントの説教を聞いていて、怠惰のすすめのようなものを感じ

た。資本主義社会の中で精一杯応えて働くことは資本家に資することになっているのではないか。家の子

供たちも、この社会について何かを感じているのか、労働ということでは比較的怠惰なように思える。親

から見ると、会社 でバリバリ働いて高い収入を得るという道ではなく、生きていければいいという感じ

で働いているように思える。ルカによる福音書の並行記事は牧師の言いたい事がより分かる気がする。

社会状況の中でまじめであることは、戦争という状況の中で真面目であるということは、戦争に積極的に

参与することになる。以前良心的兵役拒否をした ドイツ人の青年に会ったことがある。ドイツではそうい

う場合、外国でのボランティア活動が義務付けられるそうで、その青年はそのために日本に来たという。

これもタラントを土に隠した人に繋がるように思える。話は違うがたまたま関わっている方が教会のお隣

のケアプラザに来て、 教会の看板にある牧師の名前が見て、私の連れ合いかと聞かれ、そうだと答えた。

すると自分は結婚することになっているがその相手の方が家族で熱心なクリ スチャンで、毎週日曜日教会

に行くことが彼には考えられないらしい結婚を躊躇している様子。相手の大切にしていることが理解でき

ない場合 片方は喜び、片方は苦痛になる。 お互いに大切にしていることを理解した上でお互いの了解が

成り立つことが大切ではないか。その了解が成り立たないで、もし形式的に日曜日礼拝にいくことが求め

られると躓きになるかも知れない。クリスチャンの真面目さが他者を迷わし傷つけることもあるのではな

いか。何に真面目であるかが大切ではないか。

 更にもう一人の方の発言がありました。説教について後からいろいろ反応があるのはすばらしい。タラ

ントの二倍にした僕を評価する解釈には、カルヴァン主義の怠惰ではなく勤勉を大切にする考えが影響し

ているかもしれない。今ドイツ人の青年の兵役拒否の話が出たが、私も町田の作業所で働いていた二人の

兵役拒否のドイツ人の青年のことを知っている。勇気をもって良心的兵役拒否をすることはすばらしいこ

とだと思う。クリスチャンは真面目であるということだが、自分にもそういう面がある。その真面目さに

は、木を見て森を見ないというところもあって、今までも反省させられたが、同じことを繰り返してし

まう自分がある。自分には勘違いもよくあり、どうしようもないところがあるが、人との繋がりで成長

していけたらと思う。       



         「イエスによって取り払われる死とう宿命」 8月2日 


 神がイエスにおいて人となれたという受肉の神秘を通して、人類全体の体が神のいのちによって覆われ

ました。私たちのいのちははかなく、いずれ死ぬことが定められています。けれども、イエスを通して神

が、私たちの弱く死を免れない生を共にされてから、死はもはや最終の断を下すものではなくなりました。

いのちは勝利に満ちたものとなりました。パウロは次のように書いています。「この朽ちるべきものが朽

ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る時、次のように書かれている言葉が実現するの

です。死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるの

か」(Iコリ15:54-55)。イエスは私たちの存在から死という宿命を取り払い、私たちのいのちに永遠の

価値を与えてくださいました。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)