なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(515)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(515)復刻版を掲載します。2009年8月のものです。


         黙想と祈りの夕べ通信(515[-44]2009・8・9発行)復刻版


 8月は黙想と祈りの夕べはお休みです。
 昨年の夏に関西神学塾と「教会と聖書」共催の夏期合宿が丹波篠山で行われました。私はその夏期合宿の

講師に呼ばれ、「キリスト教イデオロギー批判を課題として~既存の制度的教会に留まりながら~」という

題でお話をしました(その時の合宿が記録となって『この世の最も小さなもの』という小冊子になっていま

す。その時の講演の前半部分が、私の『自立と共生の場としての教会』という本の「第3章 自分史との関

わりで」の内容になっています。その合宿のもう一人の講師が桑原重夫さんでした。その桑原重夫さんが

関西神学塾で最近「戦後50年の教団史を問う」という講義を3回に分けて行ないました。その講義の中で桑

原さんは私の『自立と共生の場としての教会』について「好著である」と言って下さっています。批判的に

は大変厳しい桑原さんがそう言ってくださったのは何故か、自分なりに考えてみました。

 桑原さんはこの講義の最後で〈「聖書解釈」と「歴史認識」の問題〉について述べています。少し長くな

りますがそのところから引用します。「この数十年、世界の『聖書研究』や『神学研究』の成果はめざまし

い。その成果が、今日私たちの目にふれる所でも溢れている。かつて、殆どバルトが席捲していた領域に、

現在、実に多様な神学者の名を連ねて説をたてている。それは私などが紹介することでないが、ただ一つ、

その『読み方』に、尚問題を感じるのではないか? つまり、聖書の『言語的』あるいは『神学的』理解に

よる聖書の『解釈』が、今も私たちの教会の『主流』になっているのではないか、という問題である。

 基本にその問題は疎かにすべきではないことは勿論だが、その『解釈』よりも、その聖書の成立した事実

をもっと直視したらどうか、ということである。『解釈』よりも『歴史』を、というべきか。」

 ここで桑原さんが、「解釈」よりも「歴史」を、と言っていることではないかと思います。例えばイエス

の十字架について、「贖罪論」は初代教会のイエスの十字架の解釈です。しかしイエスの十字架は歴史的な

事件です。歴史的事件としてのイエスの十字架はどうして起こったのでしょうか。それは権力者によるイエ

スの殺害です。なぜ権力者はイエスを排除しようとしたのでしょうか。それは、イエスの生前の活動によっ

て社会的に虐げられている人が自分の足で立って生きていくという解放の出来事が起こったこと。一方虐げ

られた人々を差別していた人たちが自分たちの差別に気づいて、今までいかに自分たちは差別的な人間であ

ったかということに気づかされ、その呪縛から解放されて、自分の足で立って歩み出し、それまで虐げられ

ていた人々と同じ地平に立って仲間として歩み始めたこと。すなわち上と下というような階層的な人間関係

ではなく、神の前に対等同等な仲間の関係としての人間集団がイエスの周りに生まれて、それまでのユダヤ

教社会では考えられなかった新しい運動となっていったのでしょう。イエスに従った彼ら・彼女らの運動は、

エスの宣教した「神の国」の住民にふさわしい人間集団としてユダヤ社会の中で根づいていこうとしてい

たのではないでしょうか。そのことは権力者からすれば、自分たちの存在そのものを無化するものと考えら

れ、イエスを十字架につけ、イエスとイエスによって始まった運動を抹殺しようとしたのではないでしょう

か。

 私は、福音書のイエスの出来事をイエスの歴史に即してそのようにとらえました。その私の姿勢は、イエ

スの十字架の神学的「解釈」よりも、イエスの十字架の「歴史」認識に近いと思います。その点を桑原さん

は評価してくださったのではないかと思っています。
         


            「愛の生けるしるし」       8月9日 


 イエスの全生涯は、御父がどれほど愛してくださる神であるかを証しするものでした。イエスは、従う者

たちに、ご自分の名によってその証しをし続けるようにと呼びかけています。私たちはイエスに従う者とし

て、神の無条件の愛の、目に見えるしるしとなるようにこの世界に遣わされています。したがって、私たち

が裁かれるのは何よりもまず、私たちが何を言ったかについてではなく、私たちがどのように生きたかにつ

いてです。「見てごらん、あの人たちがどれほど互いに愛いしあっていることか」と人々が私たちについて

語る時、人々はイエスがお告げになった神の国をかいま見、磁石に引き付けられるように神の国に引き付け

られるでしょう。

 対立、怒り、憎しみによってこのように引き裂かれている世界にあって、すべての隔てを取り払い、すべ

ての傷を癒す愛の生きたしるしとなるというすばらしい使命を、私たちは与えられているのです。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)