なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(580)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(580)復刻版を掲載します。2010年11月のものです。


         黙想と祈りの夕べ通信(580)[Ⅻ-06]2010・11・7発行)復刻版


 1日の月曜日午後、久しぶりにFさんが教会を訪ねてきました。インターホーンが鳴って出てみますと、

Fさんが立っていました。小集会室に入ってもらい30分ほど話をしました。比較的元気そうで、顔つきも

安定しているように感じました。Fさんとは、私が紅葉坂教会に1995年4月に着任してからの関係です。最

初の頃は大変攻撃的で、紅葉坂教会は差別的な教会だから、是非改革してほしいと、何度も何度も訴え続

けました。その訴えは今でも変わりません。その頃は個人攻撃も激しく、時には暴力沙汰に及ぶこともあ

りました。連れ合いも以前西区役を出たところで、Fさんに蹴飛ばされたことがありますし、私も教会懇

談会の分団で小集会室にいたところ、そこにFさんが入ってきて、いきなり机をひっくり返そうとしたの

で、止めようとしたところ、後頭部を殴られたことがあります。幸い連れ合いも私も軽かったので、大事

には至りませんでした。Fさんもどこかでコントロールして暴力を振るっていたのかも知れません。そうい

うことがあってからは、どのくらいだったでしょうか。頻繁にかかってくる電話も、一時中断しました。

しかし、その後、半年か1年後には、また電話が来るようになりました。最近は今回と2ヶ月前にも一度

、教会にやってくるようになっています。もちろん電話も来ます。もう何年前になるでしょうか。彼が胃

を悪くして、根岸にありました日赤病院に入院したことがあります。病院から電話が掛かってきましたの

で、私は見舞いに行ったことがあります。その頃は大分痩せていて、精悍だったFさんとは見違えるような

様相でしたが、今は体調も戻っているようで、最初にあった頃の体型というわけにはいきませんが、元気

そうです。

 さて、彼との話の中で、私が教団から免職されたことを話しましたら、それはオメデトウと彼に言われま

した。長い彼との付き合いの中で彼が話したことによれば、彼はいろいろな教団の教会に顔を出していて、

教会によってはトラブルを起こし、警察を呼ぶぞと言われて、追い返されたこともあったようです。私の聞

いた教会と牧師では、唯一T教会のO牧師のことは悪く言いませんでした。そのような教団の諸教会および牧

師との関わりの中で、教団の教会に対する彼の評価ができてしまったようです。それは何かといえば、本当

に救いを必要としている苦しんでいる人、困っている人に対して、教会は冷たいという、彼の体験による認

識です。彼は聖書もよく読んでいますので、イエスと現実の教会は違うということではないでしょうか。今

回の私の免職は、ある意味でこの問題に通底しているところがあるように思います。信仰告白と教憲教規を

バリアにして、聖餐についての論議を一切することなく、一方的な教憲教規の解釈によって、私を免職にし

た教団という現実の教会は、イエスからかけ離れているとしか思えないからです。

 今回の教団総会で選ばれました議長石橋秀雄氏は、審判委員会の委員長として私の上告を退け、教師委員

会の私への戒規免職決定を是とした人です。彼が議長に選ばれた後、抱負を語って言ったのは、「目に見え

る教会は信仰告白と聖礼典と教会法により現実化します」です。このような教会観は一面的過ぎます。余り

にも教会を固定化して見ています。教会は目に見える教会と目に見えない教会の緊張関係の中で現実化する

もので、石橋さんが言うような一面的な見方は神学的にもおかしいとしか言いようがありません。プロテス

タントの教会は宗教改革にその出自と神学的な根拠を置いています。それは「聖書のみ、信仰のみ、万人祭

司」というルターが立った場所ですし、カルヴァンによる「み言葉によって改革され続けるところに教会が

ある」です。「信仰告白、聖礼典、教会法」は教会の伝統であって、伝統を超える聖書を教会の唯一の規範

(カノン)とするところに、プロテスタントの教会のアイデンティティーがあるのです。聖書と伝統につい

て、カトリック教会は伝統を聖書の優位に置いています。伝統はカトリック教会にとってローマ法王の聖書

解釈です。そのローマ法王の聖書解釈から逸脱した聖書解釈はカトリック教会では認められません。ただカ

トリック教会では、その判定が下される前に教会法廷が開かれて、その主張を開陳する場が与えられている

そうです。私の場合、そのような教会法廷もなく一方的に免職にされました。

 そういう意味では、私が教団から免職されたことは、Fさんが言うようにオメデトウと祝福を受けるに値

する事なのかも知れません。


         「イエスの物語を語る」   11月7日


 教会は、イエスの福音をすべての人々、すべての国々に宣べ伝えるように呼びかけられています。教会は、

多くの慈しみの業によって、イエスの愛を人々が目にすることが出来るように励む必要があります。そして

さらに、そのような慈しみの働きの他に、イエスの生涯と苦しみ、死と復活を通してなされた神の救いの大

いなる神秘を、喜びをもって告げ知らせるようにも招かれています。イエスの物語は、宣べ伝えられ、祝福

の内に記念されるべきものです。ある人々は喜んで耳を傾けるでしょう。また、ある人々は無関心でいるで

しょう。そしてある人々は敬意を抱くことでしょう。イエスの物語は、常に人々に受け入れられるわけでは

ありません。けれども、イエスの物語は語られねばなりません。

 イエスの物語を知って、それを生きようとする私たちは、イエスの物語を他の人々にも伝えるという喜ば

しい務めがあります。愛と感謝に満ちた心から私たちが語る時、その言葉は実を結びます。私たちが実際に

その結果を見ることが出来ようと出来まいと。 
 

(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)