なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(406)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(406)復刻版を掲載します。2007年7月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(406[-41]2007・7・8発行)復刻版


 7月3日に神奈川教区常置委員会主催の「聖餐についての学集会」が蒔田教会で行われました。この学集

会は、神奈川教区として宣教研究委員会の答申に従って聖餐について学びを深めることと、最近未受洗者

に開かれた聖餐式を教会総会で決め、教会規則変更を教区常置委員会に提出し、教憲教規の枠を越える案

件は常置委員会では扱えないと返戻された教会から聖餐についての学びを深める機会を教区として作って

欲しいという要望に応えて開かれました。

 その教会の牧師Kさんが未受洗者に開かれる聖餐式ついて、未受洗者の陪餐を認めない側からF牧師が洗

礼者に限られた陪餐の聖餐式について、それぞれ違った立場からの発題がありました。

 I教会の牧師Kさんは、I教会に所属する救世軍出身者の信徒が(救世軍は洗礼も聖餐もありませんの

で)陪餐に与るには洗礼を陪餐の条件としないこと、それがI教会の未受洗者陪餐への最初の問いかけで

あったと言われました。救世軍は戦時下、軍の呼称が政府によって禁じられ、救世団と改称を強要されま

した。教団に所属する時も、本来救世軍は按主礼も洗礼も聖餐も執行していなかったのにそれらの執行を

強要されました。そういう歴史がある救世軍出身の信徒に対して、I教会は洗礼を強要することなく、本

人の希望を重んじて陪餐を認めていたというのです。また、重度の知恵遅れの方や心に病をもつ方をも無

条件にイエスは招いておられるということに基づいて、そのような方々にも聖餐に与ってもらいたいと願

い、未受洗者に開かれた聖餐への道を模索し、6年半近くかかって、本年3月26日の定期教会総会で規則変

更して「オープン聖餐・主の食卓」(I教会ではそのように呼んでいる)に踏み出したのです。

 紅葉坂教会は1999年3月総会で陪餐規定のある教会規則8条削除し、未受洗者に開かれた聖餐式を実施し

ています。I教会は「現住陪餐会員」という呼称にまで踏み込んで規則を変更していますので、紅葉坂

会より徹底しているところがあります。

 Fさんの発題は、伝統的な聖餐理解を披瀝し、「…しかし教団に留まっている以上、教憲教規を無視し

て「既成事実」を作ってしまうことは、教団の一致と信頼を損ねる暴挙であると共に、宣教協約を結んで

いる他の教会に対する背信行為である」と結んでいます。

 質疑の中でHさんが、「暴挙」というのは言いすぎではないかと発言しましたが、Fさんは撤回しません

でした。

 Kさんの方は、Fさんのような立場を否定するのではなく、両方あってもいいのではないかと、多様性を

認め合おうと繰り返し発言していたのに、Fさんの方は、一方的に未受洗者に開かれた聖餐執行は教憲教

規違反であり、教団の一致と信頼を損ねる暴挙であるというのです。

 話し合いの中で、フロアーから「聖書では洗礼が聖餐の条件になっているとは言えない」という発言が

あり、それに対してFさんからは明確な応答はありませんでした。多分Fさんの聖書の読み方は信条主義的

な読み方ですので、新約聖書における聖餐には未受洗者に閉じられる場合(パウロ)も開かれる場合(マ

ルコ)もあるという荒井献さんの見解を十分には理解できないのだと思います。

 来週の9日(月)から10日(火)にかけて教団の常議員会があります。そこで、私も「聖餐について」

の発題をすることになっています。未受洗者に開かれた聖餐が本当に教憲教規違反なのかどうかを含め

て、聖餐に関する根本的な問いを出そうと用意しています。
           


               「傷ついた癒し人」  7月8日


 誰も傷つくことから逃れられません。肉体的にであろうと感情的にであろうと、精神的にであろうと霊

的にであろうと、私たちの誰もがみな傷を負っています。大切なことは、恥ずかしい思いをしないですむ

ように「傷をどうやって隠せるか」ではなく、「私たちの傷をどうやって人々のために役立てられるか」

という問いかけです。私たちの傷が恥の原因ではなくなり、癒しの源となる時、私たちは傷ついた癒し人

となったのです。

 イエスは、神から来た傷ついた癒し人です。イエスの傷によって私たちは癒されます。イエスの苦しみ

と死によって、喜びといのちがもたらされました。イエスの謙遜によって栄光がもたらされ、イエス

人々から拒絶されたことで、愛の交わりであるコミュニティーが生まれました。イエスに従う者として、

私たちもまた、自らの傷によって人々に癒しをもたらすことが出来るでしょう。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)