なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(407)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(407)復刻版を掲載します。2007年7月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(407[-42]2007・7・15発行)復刻版


 日曜日に日曜学校の鎌倉の高齢者ホーム訪問に一緒に行ってきました。この訪問は今年でちょうど10年

になります。Yさんがこのホームにいらっしゃったときには、私たちが訪問すると、Yさんが皆さんのこと

を気遣っておられたことを思い出します。私は隔月で聖書のお話をしにこのホームに今も行っています

が、その集会に必ず出席されるKさんという方がいらっしゃいます。日曜学校訪問の懇談の時に私が伺う

集会に出席しておられる方から、Kさんがお亡くなりになったことを伺いました。このKさんという方は、

私は集会の時には聖書のお話の後1時間ぐらいみなさんから自由にお話をしてもらうようにしているので

すが、その時には必ずといってよいほど、今自分の一番の願いは平和ということです、とおっしゃってお

られました。既に思い遺すことは何も無い、ただ戦争だけはいけない、平和な社会であって欲しいと、私

はいつもKさんのお話を聞いていました。お亡くなりになったのは6月13日朝で、前日の夜まで変わりなく

過ごしておられたそうです。心臓の病気を抱えていたようですが、ご本人の希望通り、手術を拒絶され、

自然死のまま、ご家族とのお別れも生存中にすまされ、献体も本人の意志という、見事な永眠だったそう

です。私に知らせてくださった方は、Kさんは、このホームで行われている礼拝や他のキリスト教の集会

には出席されなかったが、先生のときだけ出席していました、とおっしゃっていました。私は、生前にお

ける一人の個性的なお年寄りとの出会いを感謝し、Kさんが神さまのもとに安らかにあることを祈りまし

た。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。月曜日にはじめて教団常議員会に陪席し

た。協議会で同性愛のことで解放センターのHさんが発題があり、その後に聖餐についての懇談会もある

というので陪席した。常議員会が開催されている教団の会議室の雰囲気は、参加人数の割には狭く、椅子

も古くて私が座ると壊れそう。二つの懇談会は1時間半で終わったがその間とても息苦しかった。問題を

深め合う、話し合うというのではなく、一方的な発言に終始している。これは何だろうかと失望されられ

た。今日の福音書の聖書朗読箇所のように、弟子たちが人間をとる漁師になるというイエスの出来事のよ

うに、人間が解放されて行くことからすると、常議員会の議論は閉塞感で息苦しい。話は違うが,昨日QAB

琉球朝日放送で最近、辺野古の海で二匹のジュゴンの繁殖行動とジュゴンが海亀と戯れている映像が放映

された。海の中でゆったりと過ごすジュゴンを見て涙が出てきた。一昨日、昨日の出来事、常議員会の印

象とジュゴンの姿が対照的で、私はジュゴンのようにゆったりと生きたいと思わされた。神に造られ、考

えることも出来る人間は、違った考えの人を攻撃してしまう。ジュゴンは大海原にゆったり泳ぐ。全く違

う。しかしジュゴン辺野古の基地建設という中で、大事なポイントに姿を現す。ジュゴンは何かを分

かっているのではないか。人と人とが協調できないことを思うとき、神さまは人間を何故造られたのかと

考えさせられている。

 続いて別の方の発言がありました。今日の聖書箇所(ルカ5:1-11)の場面を黙想していた。プロの猟師

として自分の経験から魚が獲れるはずがないと思い込むペトロ。それを大きく覆す結果にペトロも周りの

人も驚き恐れた。「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです。」と言うペトロ。私も自分の

見える範囲や考える事をつい絶対視し、行き詰まり、愚痴をこぼし、絶望する。自分の思い込みによって

神を無視し拒絶する罪深さを振り返った。そして自分の枠組みや限界を遥かに越える神の視野、世界が向

こう側に広がっていると感じる。「主よ、私から離れないでください」と祈り求めたい。



              「裂かれる」   7月15日

 
 イエスは十字架の上で引き裂かれました。何としてでも避けたい悪としてではなく、進んで受け入れる

べき使命として、苦しみと死を味わわれたのでした。私たちもまた裂かれています。引き裂かれた体、引

き裂かれた心、引き裂かれた精神、引き裂かれた霊を持って私たちは生きています。そして引き裂かれた

関係に私たちは苦しみます。

 どうやって引き裂かれたままで人生を生きていくことが出来るでしょうか。イエスはご自分が十字架を

進んで受け入れ、それを使命の一部として生きられたのと同様に、私たちもまた自分が引き裂かれている

事実を進んで受け入れ、それを自分の使命の一つとして生きてゆくようにと招いておられます。引き裂か

れていることを、私たちが罪深い者であることを想い起こさせる、神の呪いとして拒むのではなく、引き

裂かれている事実を受け入れることが必要です。そして、私たちが浄められ聖とされるための祝福を受け

ることが出来るよう、その事実を神のもとに置くことをイエスは願っておられます。このように、私たち

が引き裂かれたものであるということは、新しいいのちに到る道となるでしょう。

  
                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)