なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(408)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(408)復刻版を掲載します。2007年7月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(408[-43]2007・7・22発行)復刻版


 木曜日の入門講座に来ているOさんが、ゴスペルのグループに入っていて、そのコンサートがあるとい

うので、7月7日土曜日でしたが、蒲田から東急に乗り換え、一つ目の矢口渡駅から10分ほどのところにあ

る教会に行ってきました。たまたま別の教会で黒人の歌うゴスペルを聞いて、その迫力に感動したという

教会員の方がいましたので、実際はどんなものなのか聞いてみようと興味をもったからです。それと、こ

の教会には若者も比較的多く来ているというので、ゴスペルと若者ということでも関心があったからで

す。しかし、聞いて見ましたが、ぼくにはちょっとついていけない感じでした。何がついていけないかと

言えば、歌詞が言い表しているその信仰の内容です。私は5月の教会総会での牧師報告にも書きました

が、イエスの救済は自明の救済ではないように思っています。イエスの福音は、救済・解放への招きであ

り、私たちは信仰によってそのイエスの招きに応えて、救済・解放への途上・過渡を生きるのだと思いま

す。ゴスペルには既に救済を得た者の高みが感じられて、ぼくには違和感がありました。けれども、スト

レートな信仰表現としてゴスペルには、私たちの歌う賛美歌には強くは感じない、魂があるようにも思え

ました。そういう意味で私たちの中にもストレートな信仰表現としての讃美がもっとあってよいのかも知

れないと思わされました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。自分も黒人が歌うゴスペルを聞きにいっ

ていた。席も前の方で聞いたので、余りにも強烈だった。はじめは違和感があったが、3人の証があり、

その一人の若い子の証しを、通訳を通して聞いてから、ゴスペルの歌にも感動できた。その若者の証し

は、自分は19歳から20歳まで刑務所を行ったり来たりする生活をしていたが、信仰によって救われ、今こ

のようにゴスペルを歌っていることを証しした。その若者のメッセージに感動し、黒人の先祖は奴隷で

あったことを思い、最後の方は私もゴスペルの歌にも感動しのった。

 別の方の発言が続きました。電車の中で「日本よ」というサッカーのオシム監督の広告を見た。・・・日

本人は誇りを持て。自身を持て。・・・と書いてあった。誇りや自信という言葉は嫌いではないが、懐疑的

である。誇りや自信が自国の正しさを一方的に主張することになり易いが、私はむしろ謙虚であることを

誇りたい。仕事で調停を一緒にしている人は自分の業績に自信をもっている。何のために調停の仕事をし

てきたのか、強者の論理を感じる。弱者のためにやってきたということであれはよいが、自分の能力に対

する誇りを感じ、その能力も自分の正しさを誇る能力のように思える。自信、誇り、正しさ、業績、能力

に対する誇り、自信はいただけない。

 また別の方の発言がありました。昨日性差別委員会があった。去年の教団総会で起こったある議員の同

性愛者差別発言を受けて、性差別委員会では神奈川教区の常置委員会に「『同性愛者やその他の性的少数

者』への差別をなくすための取組みを進める件」という議案を出し、常置委員会提案として2月の教区総

会に出すよう働きかけた。その常置委員会でもある方が同性愛について批判的に書かれている聖書箇所を

読んだ。議案は常置委員会提案にはならず、Fさんが提案者になって議員提案議案として教区総会に出さ

れ可決した。最近常置委員の一人の牧師が自分の牧会する教会のホームページに説教を載せていて、その

説教の中で聖書では同性愛は批判されているのに、そのことを言うと、差別だと糾弾される。レビ記

ローマ書から明らかに同性愛は認められない。差別を糾弾する人たちは高ぶっている。同性愛者が牧師に

なるということは矛盾を抱えることになるということが書かれていた。それを読んで、自分は何年も前に

同性愛者の人と出会い、どんなに深い痛みを抱えながら生きているかを知らされた。召命を受けて、カミ

ングアウトして牧師になった方が、最近ある会で一緒になったとき、私たちは何時まで苦しまなければな

らないのかと言われた。私はその方と親しいこともあって、聖書がある限りなくならないわよと言ってし

まった。同じ聖書から、赦されて生きる、生きていていいんだよというメッセージを受ける人がいる反

面、差別を訴える人に聖書からそれは糾弾であり高ぶりであると語る人もいる。その常置委員の一人であ

る牧師への対応を性差別委員会で話し合ったところ、委員会では9月までに各自が自分なら何を言えるか

考えてくるという宿題にした。聖書から差別が引き出されることを考えると、自分で聖書の勉強をしっか

りしなければと思う。ある方はこの常置委員の一人のような牧師は、この人だけではなく大多数の牧師は

同じだよと言われた。世界でも同性愛者が受け入れられるところと、受け入れられないところがある。し

かし、受け入れる受け入れない以前にその人がそこにいるということを考えたい。

 最後にもう一人の方から発言がありました。今日の聖書箇所(マタイ27:16-20)と、今朝の聖研で強大

な権力を誇った王が登場する「エステル記」を読んだことを思い巡らしていた。「服従」という言葉は理

不尽な権力者の横暴と結びついており、手垢がついている感じでどうもひっかかる。まだうまく言葉で伝

えられないが直感的に嫌なのである。権能、権力、権威。もちろん横暴な権力者に服従することと神やイ

エス服従することは違うし、後者は大切であると思っているが、別な言葉で表現できないだろうか?ま

た、イエスは強制や支配、力で押さえつけることを拒まれたのに、聖書にはイエスを高く持ち上げ、権威

権力で人を従わせると感じるような表現も少なくない。人は力によって従うのか。同様に感じる方がいた

ら一緒に考えていきたい。  


             「人との隔たりに橋をかける」  7月22日


 隣人になるということは、人との隔たりに橋をかけることです。私たちと人々との間に距離があって、

お互いに目を合わせることが出来ないでいる限り、あらゆる種類の間違った考えやイメージが生じます。

向こう側にいる人々に名前を付け、冗談にしてからかい、陰で話題にのぼらせ、偏見を覆います。そし

て、直接関わりを持つことを避けてしまいます。こうして向こう側にいる人々は、私たちにとっての敵と

みえるのです。ところが、私たちが恋愛をするように彼らも人を愛し、私たちが子どもの世話をするよう

に彼らも子供の世話をし、私たちが病気になって死ぬように、彼らも病気になって死にます。私たちは、

向こう側にいる人々が私たちの兄弟姉妹であることを忘れ、好き勝手に壊すことの出来るもののように扱

うことがあります。

 勇気をもって道を渡り、互いの目の中を見つめさえすれば、私たちは同じ神の子どもであり、人類とい

う家族の一員であることが分かるはずです。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)