なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

日本基督教団執行部による私の戒規免職処分はパワハラではないか?

 以下は支援会第6回総会で、「教団の私への戒規免職処分の不当性について」話した私の発言の一部で

す。教団に所属する方々に広くみなさんに知っていただきたいと思いますので、このブログに掲載しま

す。みなさんの友人・知人に広めていただければ幸いです。
   

  日本基督教団執行部による私の戒規免職処分は、パワハラではないか?
               
                    (02018年3月17日支援会第6回総会での発言から)

 
 関田先生がよく、「私の戒規免職処分は聖餐の問題に起因しているのではなく、最初に北村を排除した

いがために、聖餐の問題はその理由づけに使われたに過ぎない。ですから私の免職処分は教団執行部によ

パワハラである」という主旨のことをおっしゃってくださっていますが、私の免職処分に至る経過を振

り返りますと、私自身もそのように思わざるを得ないのであります。


        私の「開かれた」聖餐執行が教団において問題になった時期


 私が牧師として文字通りに「開かれた聖餐」を執行しはじめたのは、当時牧師をしていたこの紅葉坂

会が1999年3月の教会総会で、「未受洗者」も希望すれば、聖餐を受けることを認めた後の、その年の

イースターの礼拝からでした。この教会総会で決めたのは、「聖餐には洗礼を受けた信徒が与る」という

教会規則第8条の削除と、「受洗者非受洗者に関わらす希望する方は誰でも聖餐に与ることが出来ます」

と聖餐への招きの言葉をはっきり語って聖餐式をするということでした。この時に、教会総会で教会規則

第8条を削除しましたので、教会規則変更申請として教区常置委員会に出しましたが、教区常置委員会で

は内容には触れず形式的に承認して教団の同意を求めました。しかし、教団では承認されず、突き返され

てきたのですが、その時は何か教団から言ってきたら役員会はそれに対応することを決め、役員会からは

強いて教団に問わないことを確認しました。その後教団は何も言ってきませんでしたので、そのまま時が

経っていきました。


 この頃まで私は一個教会をベースにして、1995年4月に紅葉坂教会の牧師になってからも、寿地区活動

委員会以外は、教区・教団とは積極的に関わることなく牧師としての働きを続けていました。ところが神

奈川教区には当時東神大問題で教授会から排除された牧師や信徒が数名いて、ここにいるOさんもその一

人ですが、その方々から「北村さん、もう少し教区や教団に関わって問題を担ってよ」と言われました。

この人たちから言われると断ることが出来ませので、2002年の教区総会で教団総会議員に選ばれて、約30

年ぶりに教団総会に出たわけです。その教団総会でご存知のように、沖縄教区提案の「名称変更議案」を

はじめ、合同のとらえなおし関連諸議案が全て審議未了廃案になり、靖国天皇制情報センターや性差別

問題特別委員会が潰されたわけです。その総会が終わって、当時の沖縄教区議長の山里勝一牧師が「さよ

うなら」と言って去って行かれました。沖縄から来てその総会を傍聴していました信徒の方々も涙を流し

ながら去って行かれました。その時から沖縄教区は教団との間に距離を置くようになりました。何十年ぶ

りに出た教団総会で、私はそのような沖縄教区を切り捨て、靖国天皇制情報センターや性差別問題特別

委員会を切り捨てる教団の現実を突きつけられたわけであります。その後私は当時横浜二ツ橋教会牧師

だったMさんに言われて、現教団執行部には批判的だった9教区議長会に、当時神奈川教区議長は入ってい

ませんでしたので、それまでM先生が出ていたのですが、M先生に代わって私が出るようになりました。そ

ういう背景の中で、2004年の教団総会で私が常議員の一人に選ばれたのであります。しかもこの2004年の

教団総会では、前回の総会でつぶされた性差別問題特別委員会の再設置を求める議案が複数の教区から出

ていたのを、教団執行部はそれを勝手に一つにまとめて議案にしていましたので、有志の人たちと相談し

て、議事が始まる前に議長団に迫り、その撤回を求めることにしました。その抗議行動は1時間半ほど続

き、その結果全ての教区の性差別問題特別委員会再設置の議案を扱うということで、議事に入りました。

その抗議の実力行動で、当時の山北議長のところに最初にいったのが私でした。その時の教団総会では神

奈川教区の議員の席が一番前で、山北さんのところに行くのに、私が一番近かったからです。この総会で

私は常議員に選ばれました。その総会期の常議員会に出席し、常議員会が多数者の横暴による非民主的な

議事運営をしていることを知り、その現実を日本基督教団の諸教会・伝道所に知ってもらおうと、常議員

会ごとに私的な常議員会報告を作って、何度か配布しました。


 恐らく山北さんをはじめ教団執行部側の人たちは、教団総会における私もその一人に加わって行った抗

議行動を議事妨害と受け止めたと思いますし、私が常議員会の私的報告を全国の教会・伝道所に配布した

ことも、常議員会を支配して自分たちの思い通りに議事運営をしようとする人たちにとっては、私は目障

りな存在になっていたのではないかと思われます。そして2006年の教団総会で私はまた常議員に選ばれま

した。その教団総会の礼拝での聖餐式で、私はパンと葡萄酒を受け取りませんでした。それは教団との間

に距離を置いている沖縄教区の議員がいないところで行われた聖餐式に疑問を感じたからです。教団総会

では各教区から選出された教団総会議員が、教区ごとにその得票数の多い人から順に教職が先にその後に

信徒が並んで座ります。その時雪ノ下教会の信徒であるMさんが、他の人が1人か2人私との間にしました

が、私と横一列に並んでいました。そのMさんがこの教団総会後の第一回常議員会で、私を名指しはしま

せんでしたが、「常議員の一人が聖餐を拒否したが、それは問題ではないか」という趣旨の発言をしまし

たので、私は「それは私である」と申し上げました。このことが契機となって、常議員会では、次回記録

を取らない自由な懇談会という形で私に「聖餐について」、その時の教団総会で東北教区の信徒の方によ

る同性愛差別発言がありましたので、解放センターの東谷誠さんに「同性愛差別について」発題してもら

い懇談の時を持つことになりました。そして私は次回の常議員会で資料を用意して紅葉坂教会の事例を話

しました。すると、その次の常議員会に山北さんから「教師退任勧告」の議案が出て、常議員会は多数決

でその議案を可決し、私に山北さんの名前で第一回の教師退任勧告文が送られてきました。私はそれを拒

否しましたので、第二回の教師退任勧告文が来ましたが、私はそれも拒否しました。すると、常議員会で

決議して、常議員会が教師委員会に私を戒規にかけるように提訴したのです。その常議員会の提訴を教師

委員会が受理する前に、2008年の教団総会があり、そこで柴田もゆるさんが提案者である議員提案議案、

常議員会は教師委員会によって戒規処分を受けた者がその処分を不服として上告する所でもありますの

で、私に対する常議員会の教師委員会への提訴は無効であるという、第44号議案がその総会で不思議にも

可決したのです。その総会には教師退任勧告撤回の議案も出ていたのですが、そちらの議案は否決で、私

への教師退任勧告は生きていたわけです。しかし、この44号議案が可決したので、私が教師委員会によっ

て戒規にかけられることは、もうないと思いました。なぜなら、そもそも当時の教師委員会の戒規に関す

る内規によれば、教師への戒規を要請できるのは、各個教会の役員会か教区の常置委員会で、各個教会の

役員会からの場合は教区の常置委員会を通して要請することができるとなっていたからです。信仰職制員

会の『教憲教規の解釈に関する先例集』96にも、そのことが明記されていたのです。そして、紅葉坂教会

役員会も神奈川教区常置委員会も、教師委員会に私を戒規にかけるように要請することはあり得ないう確

信があったからです。


 実は第44号議案が可決された教団総会が終わってしばらくして、山北さんから私に電話があり、会って

話したいということでしたので、私はみなとみらいにあるホテルのトゥーランドットという中華料理店で

食事を御馳走して話を聞きました。山北さんは第44号議案の可決には聖霊の働きを感じたというのです。

だから紅葉坂教会の役員会と会って話をしたい。そこで今後戒規で脅かすようなことはしないので、紅葉

坂教会も「開かれた聖餐」の旗を振らないでもらいたいとう約束をしたいと言うのです。私は山北さんと

紅葉坂教会の役員会の話し合いの場を設定し、山北さんの言われることは紅葉坂教会も全く異存がないの

で、両者の話し合いが成立しました。そういうこともありましたので、第44号議案の可決によって私の戒

規はなくなったものと思ったわけです。それが2008年11月末のことでした。


 ところが、何としても私を戒規にかけようとする動きが、2009年に入ってから、山北さんを飛び越えて

現れるようになりました。まず当時東海教区議長北紀吉さんから信仰職制委員会への諮問(戒規申し立て

は誰が出来るか?)があり、その答申(教憲教規に規定がないので、原則的には誰でもできる)を受けて

今度は教師委員会が信仰職制委員会に諮問を出し、その答申を受けて教師委員会は「戒規に関する内規」

を改定し、改定前の内規にはあった、「教会の役員会か教区の常置委員会、教会役員会は常置委員会を通

す」という誰が戒規を要請できるかという、戒規要請主体に関する規則の部分をすべて削除してしまいま

す。そして改定された戒規に関する内規は、「戒規発動要請の受理」から始まっています。この教師委員

会の内規は補則に「この内規は2009年7月13日から実施する」とあります。この教師委員会の改定された

内規をどのようしして知ったのか、この内規の実施日から18日後の2009年7月31日付で小林貞夫さんが申

立人で、小林貞夫さんを含めた7名の当時の信徒常議員の賛同者名のある「北村慈郎教師への戒規適用申

立書」が教師委員会委員長宛てに出されました。教師委員会はその申立書を9月の委員会で受理していま

すが、私がそれを知ったのは10月の常儀員会での教師委員会の報告によってです。教師委員会は調査員会

を立ち上げ、私に3度面談要請をしてきました。私は、紅葉坂役員会が「教師委員会の内規は教団規則に

当たるのか」という諮問を信仰職制委員会に出していましたので、その回答がくるまで、面談は待って欲

しいと、3度調査員会に手紙を出しました。そのことを調査員会は私が面談を拒否したと受け止めて、私

との一度の面談もなく、教師委員会は2010年1月26日付で私を戒規免職処分にしました。翌日その通知を

教師委員会委員長他数名で紅葉坂教会にいた私の所に持ってきました。実は、教師委員会が私の戒規免職

処分を決めた同じ日の2010年1月26日に信仰職制委員会が紅葉坂教会役員会からと北海教区議長の久世そ

らちさんからの諮問への答申を出しました。紅葉坂教会役員会からの諮問に対しては「教師委員会の内規

は教団規則には当たらない」という答申でした。久世そらちさんの諮問は、「戒規の要請主体が限定され

ていなければ、戒規の乱用が起こるのではないかとう諮問でしたが、それに対しての信仰職制委員会の答

申は、教憲教規の解釈に関する先例集96「戒規の申立ては教会役員会と教区常置委員会がし、教会役員

会の場合は教区常置委員会を通してする」を尊重するようにとうものでした。教師委員会はこの信仰職制

委員会の答申が出た日に私の戒規免職処分を決めていますから、当然この先例集96を尊重するようにと

いう信仰職制委員会の答申を無視したことになります。


 私の戒規免職処分における手続き上の不当性を考える時に、最初から最後まで審判委員会の選任から決

定も含めてすべて不当だと思いますが、特におかしいのはこの教師委員会の戒規に関する内規の改定と私

の免職処分の決定ではないかと思っています。


 そして2010年9月15日付で審判委員会が教師委員会の私への戒規免職処分の決定を是とすることによっ

て、日本基督教団における私の戒規免職処分が最終的に決定されました。その後私は裁判に訴えました。

私は2011年3月末をもって紅葉坂教会牧師を辞することが決まっていましたが、紅葉坂教会の全面的バッ

クアップの下に2010年11月末に仮処分申請を東京地方裁判所に出しました。しかし、4回目の審尋の時

だったと思いますが、裁判官の方からこの案件を本訴で争うならば、仮処分申請は取り下げたらどうかと

う話があって、2011年2月末に仮処分申請は取り下げました。そして本訴の準備に入ろうとした矢先に、2

011年3月11日に東日本大震災・東電福島第一原発事故が起きて、しばらく様子を見ることにしました。20

11年4月からは、それ以前から私は紅葉坂教会牧師として船越教会の代務者をしていましたので、教区・

教団への申請はできませんが、実質的に船越教会の牧師として働くようになりました。3・11以後しばら

く様子を見てから本訴の準備をして2011年11月末に「免職処分の無効と正教師の地位確認」を求めて裁判

に訴えました。この裁判を行うに当たり、「北村慈郎牧師を支える会」という支援会を立ち上げました。

裁判は最高裁まで行きましたが、2014年6月6日私の訴えは「争訟に値しない」ということで門前払いにな

り、裁判は終了しました。その後教団内運動として支援会は2015年4月開催の第3回総会で名称を、「北村

慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会」として再出発し現在に至っております。