なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

戒規免職処分を受けて~7年間の総括と今後に向けて

 以下は支援会通信第21号にも掲載したものです。教団から教師の戒規免職処分を受けて、8年目になりますが、現在の私の率直な思いです。

「戒規免職処分を受けて~7年間の総括と今後に向けて~」       北 村 慈 郎
                           2018年3月17日支援会第6回総会にて

はじめに
最初に皆さまにお礼の言葉を述べさせていただきます。
私が日本基督教団から教師免職処分を受けてからのこの7年間、皆さまの様々な形でのご支援を心から感謝申し上げます。一つは、この会の支援者の方々、世話人や事務局員の方々、免職処分後の私へのご支援とご労苦を心から感謝いたします。特に世話人代表と船越教会の代務者をお引き受けいただいています関田寛雄先生には、言葉に言い表せないほどのお世話になっています。ありがとうございます。そして免職教師の私を牧師として迎えてくださり、免職以前と全く同じように教団の教師としての働きの場を与えて下さっています船越教会に、そして実質的に教会担任教師として処遇してくださっています神奈川教区にも、心から感謝申し上げます。そして今日もこの総会の場所を提供してくださっています紅葉坂教会は、世話人・事務局会をはじめこの支援会の集会のために場所を無料で提供してくださっています。本当にありがとうございます。
このように多くの方々に支えられて、私は、免職処分後のこの7年間を、教区の常置委員会と総会での一部の議員による私を排除する発言以外は、免職以前と変わらないで、一教会担任教師として与えられた課題に取り組んでくることが出来ました。
さて、今日の総会での発言は、私の希望で担当させてもらいました。今日私がこれから話しますことは、2年前にこの会が発行しました、新教コイノーニア31『戒規か対話か~聖餐をめぐる日本基督教団への問いかけ~』の中で、以前になか伝道所で2回にわたってお話させていただきましたものをまとめて、「私の戒規免職問題とは何か?」という文章を載せてもらっていますが、ほぼそれをベースにしておりますので、この文章と重複する所があるかと思いますが、お許しいただきたいと思います。

(機貌鐱楷霪超誼勅更塢瑤砲茲觧笋硫鋧免職処分は、パワハラではないか?

 関田先生がよく、「私の戒規免職処分は聖餐の問題に起因しているのではなく、最初に北村を排除したいがために、聖餐の問題はその理由づけに使われたに過ぎない。ですから私の免職処分は教団執行部によるパワーハラスメントである」という主旨のことをおっしゃってくださっていますが、私の免職処分に至る経過を振り返りますと、私自身もそのように思わざるを得ないのであります。

(a) 私が戒規免職処分を受けるに至った経緯

 私が牧師として文字通りに「開かれた聖餐」を執行しはじめたのは、当時牧師をしていたこの紅葉坂教会が1999年3月の教会総会で、「未受洗者」も希望すれば、聖餐を受けることを認めた後の、その年のイースターの礼拝からでした。この教会総会で決めたのは、「聖餐には洗礼を受けた信徒が与る」という教会規則第8条の削除と、「受洗者非受洗者に関わらず希望する方は誰でも聖餐に与ることが出来ます」と聖餐への招きの言葉をはっきり語って聖餐式をするということでした。この時に、教会総会で教会規則第8条を削除しましたので、教会規則変更申請として教区常置委員会に出しましたが、教区常置委員会では内容には触れず形式的に承認して教団の同意を求めました。しかし、教団では承認されず、突き返されてきたのですが、その時は何か教団から言ってきたら役員会はそれに対応することを決め、役員会からは強いて教団に問わないことを確認しました。その後教団は何も言ってきませんでしたので、そのまま時が経っていきました。
 この頃まで私は一個教会をベースにして、1995年4月に紅葉坂教会の牧師になってからも、寿地区活動委員会以外は、教区・教団とは積極的に関わることなく牧師としての働きを続けていました。ところが神奈川教区には当時東神大問題で教授会から排除された牧師や信徒が数名いて、ここにいるOさんもその一人ですが、その方々から「北村さん、もう少し教区や教団に関わって問題を担ってよ」と言われました。この人たちから言われると断ることが出来ませんので、2002年の教区総会で教団総会議員に選ばれて、約30年ぶりに教団総会に出たわけです。その教団総会でご存知のように、沖縄教区提案の「名称変更議案」をはじめ、合同のとらえなおし関連諸議案が全て審議未了廃案になり、靖国天皇制問題情報センターや性差別問題特別委員会が廃止にされたわけです。その総会が終わって、当時の沖縄教区議長の山里勝一牧師が「さようなら」と言って去って行かれました。沖縄から来てその総会を傍聴していました信徒の方々も涙を流しながら去って行かれました。その時から沖縄教区は教団との間に距離を置くようになりました。何十年ぶりに出た教団総会で、私はそのような沖縄教区を切り捨て、靖国天皇制問題情報センターや性差別問題特別委員会を切り捨てる教団の現実を突きつけられたわけであります。その後私は当時横浜二ツ橋教会牧師だったMさんに言われて、現教団執行部には批判的だった9教区議長会に、当時神奈川教区議長は入っていませんでしたので、それまでM牧師が出ていたのですが、M牧師に代わって私が出るようになりました。そういう背景の中で、2004年の教団総会で私が常議員の一人に選ばれたのであります。しかもこの2004年の教団総会では、前回の総会でつぶされた性差別問題特別委員会の再設置を求める議案が複数の教区から出ていたのを、教団執行部はそれを勝手に一つにまとめて議案にしていましたので、有志の人たちと相談して、議事が始まる前に議長団に迫り、その撤回を求めることにしました。その抗議行動は1時間半ほど続き、その結果全ての教区の性差別問題特別委員会再設置の議案を扱うということで、議事に入りました。その抗議の実力行動で、当時の山北議長のところに最初にいったのが私でした。その時の教団総会では神奈川教区の議員の席が一番前で、山北さんのところに行くのに、私が一番近かったからです。この総会で私は常議員に選ばれました。その総会期の常議員会に出席し、常議員会が多数者の横暴による非民主的な議事運営をしていることを知り、その現実を日本基督教団の諸教会・伝道所に知ってもらおうと、常議員会ごとに私的な常議員会報告を作って、何度か配布しました。
恐らく山北さんをはじめ教団執行部側の人たちは、教団総会における私もその一人に加わって行った抗議行動を議事妨害と受け止めたと思いますし、私が常議員会の私的報告を全国の教会・伝道所に配布したことも、常議員会を支配して自分たちの思い通りに議事運営をしようとする人たちにとっては、私は目障りな存在になっていたのではないかと思われます。そして2006年の教団総会で私はまた常議員に選ばれました。その教団総会の礼拝での聖餐式で、私はパンと葡萄酒を受け取りませんでした。それは教団との間に距離を置いている沖縄教区の議員がいないところで行われた聖餐式に疑問を感じたからです。教団総会では各教区から選出された教団総会議員が、教区ごとにその得票数の多い人から順に教職が先にその後に信徒が並んで座ります。その時神奈川教区の信徒であるMさんが、私と横一列に並んでいました。そのMさんがこの教団総会後の第一回常議員会で、私を名指しはしませんでしたが、「常議員の一人が聖餐の陪餐を拒否したが、それは問題ではないか」という趣旨の発言をしましたので、私は「それは私である」と申し上げました。このことが契機となって、常議員会では、次回記録を取らない自由な懇談会という形で私に「聖餐について」、その時の教団総会で東北教区の信徒の方による同性愛差別発言がありましたので、解放センターの東谷誠さんに「同性愛差別について」発題してもらい懇談の時を持つことになりました。そして私は次回の常議員会で資料を用意して紅葉坂教会の事例を話しました。すると、その次の常議員会に山北さんから「教師退任勧告」の議案が出て、常議員会は多数決でその議案を可決し、私に山北さんの名前で第一回の教師退任勧告文が送られてきました。私はそれを拒否しましたので、第二回の教師退任勧告文が来ましたが、私はそれも拒否しました。すると、常議員会で決議して、常議員会が教師委員会に私を戒規にかけるように提訴したのです。その常議員会の提訴を教師委員会が受理する前に、2008年の教団総会があり、そこで柴田もゆるさんが提案者である議員提案議案、常議員会は教師委員会によって戒規処分を受けた者がその処分を不服として上告する所でもありますので、私に対する常議員会の教師委員会への提訴は無効であるという、第44号議案がその総会で不思議にも可決したのです。その総会には教師退任勧告撤回の議案も出ていたのですが、そちらの議案は否決で、私への教師退任勧告は生きていたわけです。
しかし、この44号議案が可決したので、私が教師委員会によって戒規にかけられることは、もうないと思いました。なぜなら、そもそも当時の教師委員会の戒規に関する内規によれば、教師への戒規を要請できるのは、各個教会の役員会か教区の常置委員会で、各個教会の役員会からの場合は教区の常置委員会を通して要請することができるとなっていたからです。信仰職制委員会の『教憲教規の解釈に関する先例集』96にも、そのことが明記されていたのです。そして、紅葉坂教会役員会も神奈川教区常置委員会も、教師委員会に私を戒規にかけるように要請することはあり得ないという確信があったからです。
 実は第44号議案が可決された教団総会が終わってしばらくして、山北さんから私に電話があり、会って話したいということでしたので、私は山北さんと二人で会って話を聞きました。山北さんは第44号議案の可決には聖霊の働きを感じたというのです。だから紅葉坂教会の役員会と会って話をしたい。そこで今後戒規で脅かすようなことはしないので、紅葉坂教会も「開かれた聖餐」の旗を振らないでもらいたいとう約束をしたいと言うのです。私は山北さんと紅葉坂教会の役員会の話し合いの場を設定し、山北さんの言われることは紅葉坂教会も全く異存がないので、両者の話し合いが成立しました。そういうこともありましたので、第44号議案の可決によって私の戒規はなくなったものと思ったわけです。それが2008年11月末のことでした。
 ところが、何としても私を戒規にかけようとする動きが、2009年に入ってから、山北さんを飛び越えて現れるようになりました。まず当時東海教区議長北紀吉さんから信仰職制委員会への諮問があり、その答申を受けて今度は教師委員会が信仰職制委員会に諮問を出し、その答申を受けて教師委員会は「戒規に関する内規」を改定し、改定前の内規にはあった、「教会の役員会か教区の常置委員会、教会役員会は常置委員会を通す」という誰が戒規を要請できるかという、戒規要請主体に関する規則の部分をすべて削除してしまいます。そして改定された戒規に関する内規は、「戒規発動要請の受理」から始まっています。この教師委員会の内規は補則に「この内規は2009年7月13日から実施する」とあります。この教師委員会の改定された内規をどのようして知ったのか、この内規の実施日から18日後の2009年7月31日付で小林貞夫さんが申立人で、小林貞夫さんを含めた7名の当時の信徒常議員の賛同者名のある「北村慈郎教師への戒規適用申立書」が教師委員会委員長宛てに出されました。教師委員会はその申立書を9月の委員会で受理していますが、私がそれを知ったのは10月の常議員会での教師委員会の報告によってです。2008年の教団総会の44号議案というのは、常議員会が教師の戒規申立人になることはできないということを議決したわけですね。私を教師委員会に戒規にかけろと申し立てたのは常議員信徒7名によるわけです。この信徒常議員による私への戒規申立も、実質的には44号議案で否定された常議員会による戒規申立に該当します。その申立書は私の戒規免職決定がなされるまで、見せてもらえませんでした。裁判の中で教団側の証拠書類として出て来て、初めて見たのですが、大変雑なもので、その申立書の最後に私が「開かれた聖餐」をやっていると書かれているのですが、実際に紅葉坂教会に見に来たこともないわけですね。私が話したり、書いたりしていることだけで、私が開かれた聖餐をやっていると書いてあるだけなのです。非常に杜撰な申立書だと思いますが、その申立書を教師委員会が受理し、その後教師委員会は調査委員会を立ち上げ、私に3度面談要請をしてきました。私は、紅葉坂役員会が教師委員会の戒規に関する内規は教団規則に当たるのかという諮問を信仰職制委員会に出していましたので、その回答がくるまで、面談は待って欲しいと、3度調査委員会に手紙を出しました。そのことを調査委員会は私が面談を拒否したと受け止めて、私との一度の面談もなく、教師委員会は2010年1月26日付で私を戒規免職処分にしました。翌日その通知を教師委員会委員長他数名で紅葉坂教会にいた私の所に持ってきました。
実は、教師委員会が私の戒規免職処分を決めた同じ日の2010年1月26日に信仰職制委員会が紅葉坂教会役員会からと北海教区議長の久世そらちさんからの諮問への答申を出しました。紅葉坂教会役員会からの諮問に対しては「教師委員会の内規は教団規則には当たらない」という答申でした。久世そらちさんの諮問は、戒規の要請主体が限定されていなければ、戒規の乱用が起こるのではないかとう諮問でしたが、それに対しての信仰職制委員会の答申は、「教憲教規の解釈に関する先例集96『戒規の申立ては教会役員会と教区常置委員会がし、教会役員会の場合は教区常置委員会を通してする』を尊重するように」というものでした。教師委員会はこの信仰職制委員会の答申が出た日に私の戒規免職処分を決めていますから、当然この先例集96を尊重するようにという信仰職制委員会の答申を無視したことになります。しかも教師委員会が私を戒規免職に決定した時に、7名の委員のうち2名は辞任しましたので、5名で私を戒規免職に決定しているわけですね。
 私の戒規免職処分における手続き上の不当性を考える時に、最初から最後まで審判委員会の選任から決定も含めてすべて不当だと思いますが、特におかしいのはこの教師委員会の戒規に関する内規の改定と私の免職処分の決定ではないかと思っています。
 そして2010年9月15日付で審判委員会が教師委員会の私への戒規免職処分の決定を是とすることによって、日本基督教団における私の戒規免職処分が最終的に決定されました。それまで常議員会においても既に規定事実のように進み、私の発言する機会が与えられませんでしたので、よっぽど私は嫌われたのか、或いは北村を何とか排除したいと思っていたのかわかりませんけれども、そういう形で私の免職決定がなされたわけであります。そういうプロセスを見ますと、組織における決定ということからすると、もしかしたらこの私の免職問題はパワーハラスメントに当たるのかなあと、私自身も感じておりました。

 (b) 私の戒規免職処分の背景としての二分化した教団の現状

 こういう私の戒規免職問題の背景として考えられるのは、やはり現在の教団が二分化しているということではないかと思います。2006年でしたか、教団総会の議長総括の中で「荒野の40年」ということで、戦責告白以降の教団の40年の歴史を全否定していますね。そういういわば、70年代の教団の運動の中で、状況との関係をどのようにとらえるかということで、教会をどうみるか、或いは宣教をどのように考えるかということと関わっていると思いますが、今の教団の執行部の考え方の中には、神学としては北森さんの考え方、「信仰の一致と証しの多様性」が幅を利かせています。たとえばベトナム戦争の時代に、平和においてはみな一致できるけれども、北爆反対ということでは一致できない。その点では多様性がある。それが証しの多様性です。社会的な立場の一致はキリスト者としてはそれぞれ異なる立場があり、芳しくないということです。そういう中で70年当時、そういう教会のあり方、宣教の在り方に対して「状況捨象の神学」と言われました。たとえば田川建三さんは「現実と観念の逆転」という言い方をしましたが、教会の教理が現実なのか、或いは社会的な人間の生活の場が現実なのかということからすれば、キリスト教の中にはその信仰において、観念としての教理の方が現実で、社会的な人間の生活の現実が観念に逆転しているのではという問題提起があったわけです。この指摘は今の教団執行部の立場にも当てはまるように思われます。70年以来この問題をずっと教団の教会は抱えていると思います。
ですから教団の中に教会や宣教についての二つの考え方があるのは事実であって、それを無視することはできません。神奈川教区はその二分化した現実を前提にして、どのような立場にあったとしても、相手を無視するのではなくて、多様性を認めながら、その中で一つをめざしていくという方向性を、教区形成基本方針の中でとっているわけです。ですから、私のような者も神奈川教区の中では排除されずに一緒にやっていくことができるわけです。しかし、今の教団の執行部は一方的な考え方に立って、他は排除するという姿勢が非常に濃厚に出ていますので、多分私のような立場はその中にいることはできないのではないかと思います。そういう構造になっているのではないかと思われます。そのことが2010年の教団総会では、皆さんも覚えていると思いますが、「議案ガイド」が200人位の教団総会議員に配られまして、これは本当に驚くべきことだったと思いますけれども、全ての議案に解説がついて、これは賛成、これは反対と、全部指示されて書かれているのです。それが教団総会議員の200人位に配布されて、その通りに議決されました。そしてその時から常議員選挙が全数連記(それまでは半数連記)になりましたので、そこで選ばれた常議員は一方的な立場に立っている人たちだけになりました。それが2010年以来の教団の現実です。
そしてそれ以降どういうことが現れてきているかと言いますと、2012年にはいわゆる「改訂宣教基礎理論」が出てきました。その後「教区連帯資金」が廃止されて「伝道資金」に変わってきています。「教区連帯資金」は教区間の互助を目的としたもので、負担できる教区は連帯資金にお金を出して、それを教区議長がお互いに話し合って連帯資金を受ける教区に分け合っていくということで、地方教区は受ける方で、神奈川や東京、西東京のような大都市のある教区が出すという形をとっていました。ところが伝道資金になって、各教区に割り当てられた負担金として一度教団にその資金が集められ、教区と各個教会・伝道所が教区を通して交付金を教団に申請して配分されるという形になっています。但し受洗していない人にも配餐している聖餐式を行っている教会・伝道所には伝道資金は交付してはいけないという規則があるのです。そういうことが起こっております。それから最近では、2018年になって、教区の常置委員会の報告で分かったのですが、教団の機構改定が俎上に上がっています。それは教団の財政難ということで、現在教団は会計面では約2億5,000万円で運営していますが、それができなくなるということで、5,000万円を減らして2億円で運営せざるを得ないようになるので、機構改定して2億円で運営できるようにするというものです。そうなるとほとんどの委員会活動はなくなります。このような教団の動きは、2010年以来選ばれている常議員が一方的な立場の人たちだけですので、現在の教団執行部がやりたいようにやっているという状況です。もう一つ言い忘れましたが、2010年の教団総会以降教団執行部は東京神学大学の機動隊導入反対の総会決議を反故にして、教団と東京神学大学との関係回復を標榜し、常議員会にも東京神学大学学長が出て来て発言するようになっています。そのように2010年以降の教団は執行部によるほとんど一方的な教団運営になっています。

(c) 裁判とその後

 そういう中で、2010年9月15日に教師委員会の私に対する免職決定を是とする審判委員会の結論が出て、私の免職が最終的に決定しました。その時はまだ私は紅葉坂教会の牧師でしたので、仮処分申請の裁判を起こしました。翌年の2月にその仮処分裁判の審尋の中で、裁判官の方からもしこれを本訴で争おうとするなら、仮処分申請を取り下げたらどうかという助言をいただきました。仮処分での判決を勝ち取るには、私は教団から免職をされていますが、まだ紅葉坂教会の牧師として働いて謝儀を教会からいただいていましたので、仮処分申請の緊急性がどこまであるかという問題を含めて、なかなか難しい状況にあったわけです。ですから、そういう助言をいただいて、本訴の準備にかかった時に、3・11の東日本大震災と東電福島第一原発事故が発生したわけです。しばらく様子を見て、2011年の5月頃から本訴の準備を少しずつ始めて、11月末に本訴の提訴に踏み切りました。私の訴えは、2014年6月10日最高裁で「争訟に値しない」という理由で最終的に棄却になりました。宗教団体内の問題はその宗教団体で解決すべきだということです。教団の中で行われた不当な免職なので、その手続きの不当性を訴えたのですが、司法はそれを取り上げてくれませんでした。
その結果、私の戒規免職撤回は教団の中で求め続けることになりました。私の裁判開始と共に「北村慈郎牧師を支援する会」を立ち上げ、活動を続けてきましたが、裁判が終わりましたので、2015年の総会で名称を「北村慈郎牧師の免職撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会」にし、その直後に関田先生を中心にして5項目の宣言を発表し、その賛同者を募る運動をするようになっています。

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 最後に、みなさんにお渡ししたメモを見ていただきたいと思いますが、今後の課題と取り組みということで、いくつか私の方から提案と言うか、思いを述べさせていただきたいと思います。これは先ほどの総会で、2018年度の活動提案の中に「『宣言5項目』による具体的な運動を、他団体との連帯を模索しながら展開します」が入っていて、これをみなさんに承認して頂いたのですが、これは東京・神奈川の世話人と事務局会の人とで議論はしていますが、最終的にまだまとまっておりません。ですから、ここから私がお話ししますことは、世話人・事務局会で話し合っていることも中にはありますけれども、私個人の思いや提案になるかと思います。そういうものとしてお聞きいただきたいと思います。後で皆さんからのご意見を伺い、世話人・事務局会に持ち帰って、討論して、この会の今後の運動の方向性を出していきたいと思っています。短いのでメモを読みます。
「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる宣言」にあります5項目とは以下の通りです。

1、 北村牧師の免職処分の即時撤回と教団教師としての復権を求めます。
2、 聖餐についての論議の場が設定されることを求めます。
3、 「戦責告白」の教団史における意義について確認することを求めます。
4、 沖縄教区に対する謝罪と関係回復への具体的作業を求めます。
5、 一方的な「公同教会」の主張を再考して「合同教会」の形成を求めます。

この宣言の賛同者を募ると共に、この会としても5項目の実践が求められていると思われます。今後も教団の状況は、何時迄続くか分かりませんが、二分化が続くと思われます。戦責告白を大切にして、社会の問題にも教会が宣教の課題として関わって行くのか。或いは現在の教団執行部が言っているように、そういうこととは関係なく、戦責告白以降の40年を「荒野の40年」としてすべて否定的に評価して伝道一本で教会形成をしていくのか。その中で我々としてはどうするのかが問われていると思います。
先程もお話ししましたように、私の戒規免職処分が最終決定しました2010年10月の第37回合同後22回教団総会で、「議案ガイド」が約200名の議員に配布されて、全数連記による常議員選挙が行われ、教団執行部は一部の人たちによって支配されるようになりました。その後何が起こっているかと言いますと、伝道推進室の設置、東神大機動隊導入反対の教団総会決議の反故による教団と東神大との密着、改訂宣教基礎理論、教区連帯資金の伝道資金への改編、そして最近は教団伝道対策検討委員会による全国伝道推進献金の設置と教団機構改定が進められようとしています。この現教団執行部によって推進されています教団の方向性からしますと、「宣言」5項目の要求は一切無視されると思いますし、事実現在の教団執行部によって無視されています。そういう状況の中で「教団の活路を開くために」「土俵を割らない」「対話を止めない」「希望を捨てない」という、世話人代表の関田先生が繰り返して強調されている方向性をもって、今後具体的にどのような運動を形成できるかという課題が、私たちに突きつけられているのではないかと思います。
現在の教団執行部によってこの宣言5項目が無視され続けていくとしても、その主張を繰り返し言い続けていくことを、これからも私たちはしていかなければならないと思いますが、その上で、いくつか私の思いつく行動を挙げてみたいと思います。

(1) 宣言1「北村牧師の免職処分の即時撤回と教団教師としての復権を求めます。」については、
2018年度活動提案の「北村慈郎牧師の戒規免職処分の不当性と撤回の必要性を分かり易いリーフレ
ットにして発行します」を実行し、このリーフレットをいろいろなツテ、方法を通してまだ私の戒規免職問題について正確に知らない、或いは知らされていない教団の信徒・教職に幅広く配布する運動をする。◆〆鯒10月28日開催の関西(大阪)出前集会でNさんが発言して下さいましたが、教団本部と議長宅に集団行動を展開するというご意見に触発されましたが、毎月一回教団本部があるキリスト教会館前で抗議行動の座り込みをお昼の前後2時間する。実際にできるかどうかは分かりませんが、そのくらいのことも考えなければならないか、とも思っています。
(2) 宣言2「聖餐についての論議の場が設定されることを求めます。」については、講演会や研
究会、論文などを私たちの側から発信していくように努力する。私は聖餐の問題で一番大きいのは戦時下の教団教会で行っていた聖餐をどのように止揚するかにあると思っています。昨年の大阪の出前集会で発言をお願いした村山盛忠さんもその点を講演の中で述べておられたと思います。私は、2006年1月号でしたが『福音と世界』に書かせていただきました「聖餐につての個人的体験と一教会の試み」の中でも、最後にこのように書かせてもらいました。「未受洗者(非受洗者)に開かれた聖餐は、教会の礼拝に集うすべての人とともにこの世で最も小さくされた者のために全存在をささげられたイエスの出来事を想起する教会的行為だと、私は思っている。それに加えて、現在も日本基督教団に所属する教会で執行されている聖餐は、戦争責任の問題を避けては通れないと思う。戦争協力をした戦時下の教会でなされた聖餐と現在教会でなされている聖餐がどう連続性を持ちうるのか。日本基督教団に所属し、聖餐を重んずる全ての教会は、この問いに応えなければならない」。実はこの私の問いについては、一切応答はありません。ただある時に土肥昭夫さんから葉書をいただき、私の「聖餐につての個人的体験と一教会の試み」のコピーをどこかでご覧になったようで、この私の文章の出典はどこかという問い合わせがありました。そこで私は『福音と世界』2006年1月号ですと葉書に書いて土肥昭夫さんに出したことがあります。それからしばらくして土肥さんは召されましたので、何故私に問い合わせをしてこられたのかは分からないままになりました。
また今私がいます船越教会には聖餐式の礼拝式文というものがあります。これは「2003年8月3日改定」のものですので、私が船越教会に関わる前に作られたものです。この礼拝式文は交読文のような形式になっていて、司会者と一同とが応答する形になっています。その一部を紹介します。
「司会:『イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子達に渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した』(マルコ6:41)/主イエスは弟子達に『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』(マルコ6:37)と言われました。パンとぶどう酒はまず飢え渇いている人々にこそあたえられるべきものです。そのために私達は貧困と飢えを無くすべく、政治的、社会的改革に目を向けるように主イエスから問われ、依頼されました。人間の生命を維持するために日々必要とする食物がある人々には欠けている不平等な社会はイエス神の国にふさわしくありません。/一同:主イエスの招きにあずかることによって私達は『万人の命が尊ばれる社会、生命(せいめい)の維持を保障される社会』の形成に向かっていきたいと願うものです。どうか主よ、この私達の祈りと願いに祝福と導きを与えてください」。
「司会:『人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を捧げるためにきたのである。』(マルコ10:45)/主イエスは私達に、他者を、また隣の国の人々を支配したり、抑圧したりするような生き方をしないように戒められました。主イエスの招きに与ることによって、私達は他者を、また隣の国の人々を支配してきて歴史を心から反省し、また今もなお様々な形で隣の国の人々を苦しめ続けている現実を直視します。/一同:どうか主よ、私達が他者とともに、また隣の国の人々とともに助け合い、手を結んで生きてゆく者となりますように。主の御名によって祈ります。アーメン」。
船越教会には、こういう聖餐式の式文があるんですね。私は聖餐の問題を、戦時下の教会が行った聖餐と現在の教会が行っている聖餐との連続性とその止揚性という問題として考えると、船越教会には私が関わる以前からこういう式文が事実あるわけですね。こういう問題と課題も、関心のある者の中で共有し合っていく必要があるのではないかと思っています。今の教団の現状では、教区によっては、自分が属している教会でも聖餐を希望すれば誰でも受けることのできる「開かれた聖餐」をしていると発言しただけで抑圧を受けるところもあります。ですから、実際に「開かれた聖餐」について議論したり、文章を書いたりすることは、教団執行部の側からしますと非常に好ましくないということになるかと思いますが、しかしだから自己規制するだけでいいのかと思い始めています。問題意識を共有する者が集まって、それぞれの試みがあればそれを出し合って、それを検討していくという場がどうしても必要なのではないかと思うのですね。他にも可能性があれば、それを出し合って、学び合っていくということが必要ではないかと思っています。聖餐論議の場の設定を教団に求めるだけでなく、それを始めていかなければならないのではないかと思うのです。
(3) 宣言3「「戦責告白」の教団史における意義について確認することを求めます。」について
は、神奈川教区は戦責告白40年の時も、今度の50年の時も、戦責告白を覚える集会を開催しています。また報告集も出しています。これはどこから提案しているかといいますと、有志の会の「かながわ明日の教団を考える会」からです。実は沖縄教区が教団との間に距離を置くようになった2002年の教団総会の直後に若い教職の提案で、「かながわ明日の教団を考える会」という有志の会ができました。その会が現在も活動を続けていて、そこで戦責告白を覚える集会を教区総会議員提案議案の形にしたり、常置委員会に出して常置委員会提案の教区総会議案にしてもらったりして、教区総会決議という形で集会を実施するようにしています。これも一つの形ですが、機会を見つけていろいろな形で「戦責告白の実質化」を求めていくことができるのではないかと思います。
(4) 宣言4「沖縄教区に対する謝罪と関係回復への具体的作業を求めます。」についても、求め
るだけでなく、この会としても具体的作業に取り組んでいく必要があるかと思います。この課題につては、兵庫教区が誠実に取り組み続けていますので、兵庫教区の取り組みに学ぶことも必要だと思います。それから2004年の教団総会会期中に、2002年の教団総会で沖縄教区が教団と距離を置くようになりましたので、有志によって「沖縄から米軍基地撤去を求め、教団『合同のとらえなおし』をすすめる連絡会」(求め、すすめる連絡会)を立ち上げ、現在も細々とその活動が続いています。この会の共同代表を長年岩井健作さんが担ってくださいましたが、数年前から岩井健作さんがホームに入られましたので、現在は私が共同代表を担っています。その会では2年に一回の総会や集会を通して、沖縄からの問題提起をどう受け止めていくかということを考えながら活動を続けています。数年前にこの会が沖縄で開いた集会で、平良修さんが中心に、沖縄教区との関わりと共に、沖縄の問題をヤマトの人間がどう担って行くかということに対して、辺野古に座り込みに行ったりしているわけですが、それは大変うれしいけれども、辺野古だけでなく、場合によっては次々辺野古と同じような状況がつくられる背後には安保と地位協定があるから、安保と地位協定を無くす運動をヤマトの人はして欲しいと、はっきりおっしゃいました。これも大きな課題でありますから、この問題に取り組んでいるいろいろなところと連絡しながら、この会でも、教団に任せるのではなく、取り組んでいく必要があるのではないかと思うのであります。
(5) 宣言5「一方的な「公同教会」の主張を再考して「合同教会」の形成を求めます。」につい
ては、2018年度活動提案の「信徒・教職に関わらず、戒規による不当な除名・免職等あらゆる処分・抑圧に反対します。」と関連しますので、『通信』第20号に武田武長さんの講演を掲載していますが、昨年の10月開催の東京の出前集会でお話してくださったもので、長野の佐久教会の事例も紹介されています。詳しくは『通信』第20号をお読みください。神奈川教区と東海教区の違いを踏まえて、佐久教会を支えることのできる運動ができないかを考えていかなければなりませんし、多様性を認め合う合同教会としての豊かな教団形成をめざして、出来る所から教会間、教区間の連帯を築き上げていく必要があると思っています。
以上、どこまでできるか分かりませんが、今後の運動の方向性と具体的課題を提起したいと思います。