「未来をひらく神」エレミヤ書33:14-26、 2018年4月15日(日)船越教会礼拝説教
・昨日の土曜日2階の牧師館で朝起きましたら、教会の裏の崖から鶯の「ホーホケキョ」という鳴き声が
響いてきました。その鶯の鳴き声は途絶えることなく、夕方6時頃までずっと続いていました。鶯の鳴き
声に耳を傾けていると、この騒々しく問題に満ちた人間社会を、文句も言わずに優しく包み込んでいる自
然界があって、私たち人間は生きることができるのだと、改めて気付かせてくれました。
・私たち人間は、自分が作り出したものではない大地、海、空という神の創造された自然界に、命与えら
れて生きることを許されているのです。
・創世記1章の天地創造物語でも、人間が最初に造られたのではありません。創世記1章1節には、<初
めに、神は天地を創造された>と言われています。最初に造られたのは人間ではなく、天地なのです。<
地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた>(創世記
1:2)と言われています。そして「光あれ」と神は言われて、光ができました。<神は光と闇とを分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれ>(同1:4,5)ました。次に神は<水の中に大空あれ、水と水を分けよ>(同
1:6)と言われ、<大空の下と大空の上に水を分けさせられ>(同1:7)ました。<神は大空を天と呼ばれ
>ました(同1:8)。そして天の下の水を一つ所に集めて、乾いたところが現れよ>(同1:9)と神が言わ
れ、<神は乾いた所を地と呼ばれ、水の集まった所を海と呼ばれ>(同1:10)ました。そして地にはそれ
ぞれ種のある草木を芽生えさせ、太陽と月をつくって、<昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるし
>(同1:14)とされました。次に海の魚、空の鳥、地の動物等々をつくり、人間がつくられる前に自然界
が、神によって創造されたのです。そして自然界の管理人のような存在として、<神は御自分にかたどっ
て人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された>(1:17)と言われているのです。
・詩人の谷川俊太郎に「木を植える」という詩があります。<木を植える/それはつぐなうこと/私たち
が根こそぎにしたものを//木を植える/それは夢見ること/子どもたちのすこやかな明日を//木を植
える/それは祈ること/いのちに宿る太古からの精霊に//木を植える/それは歌うこと/花と実りをも
たらす風とともに//木を植える/それは耳をすますこと/よみがえる自然の無言の教えに//木を植え
る/それは知恵それは力/生きとし生けるものをむすぶ>。
・自然としての大地や海が、悲しそうに泣いているように思える所もあります。福島東電第一原発のある
福島の大地や海、私たちの身近では、人殺しの戦争につながるアメリカ海軍基地や海上自衛隊の基地があ
る横須賀の大地も海も悲しそうに泣いている所と言えるでしょう。それは、私たち人間が生きるために神
によって与えられた自然界を、身勝手に使って、原発事故を起こして人の住めない所にしてしまったり、
戦争をするための場所にしているからです。神を神とは思わない人間の傲慢の為せる業です。
・私たち人間も大地、空、海の自然も、聖書によれば神によって造られた被造物です。その神の被造物と
しての自然を、詩編19編の詩人はこのように歌っています。<天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を
示す。/昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。/話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくとも
/その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう>(1-5節)と。
・今日のエレミヤ書の箇所では、その自然界と神との確かな関係を引き合いに出して、神の憐みによる捕
囚の民イスラエルの回復の預言が語られています。25節以下にこのように語られています。<主はこう言
われる。もし、わたしが昼と夜と結んだ契約が存在せず、また、わたしが天と地の定めを確立しなかった
のなら、わたしはヤコブとわが僕ダビデの子孫を退け、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を
選ぶことをやめるであろう。しかしわたしは、彼らの繁栄を回復し、彼らを憐れむ>(25,26節)と。
・このエレミヤ書の箇所(14節以下)では、イスラエルの民の繁栄の回復が、ダビデ王朝とレビ人である
祭司が再興され、たえることなく続くとの約束によって語られています。<主はこう言われる。ダビデの
ためにイスラエルの家の王座につく者は、絶えることがない。レビ人である祭司のためにも、わたしの前
に動物や穀物を供えて焼き、いけにえをささげる者はいつまでも絶えることがない>(17,18節)と。
・王朝と祭司制とは、バビロンの征服によってイスラエルが失った大事なものであります。しかし、エレ
ミヤは王を批判し、また神殿でさえ裁きによって破壊されると語り、いずれも神の民にとっては絶対に必
要なものとは考えていません。ですから、エレミヤ書のこの部分は、エレミヤ自身の語った預言というよ
りも、捕囚期後にダビデ王朝の復興、神殿再建とレビ人による祭司制の復興が重大な関心事となった時代
の声を反映するものと考えられています(木田献一)。
・何れにしてもバビロンの征服によって、ユダの地に残ったイスラエルの民も、バビロンに捕囚となって
連れて行かれたイスラエルの民も、自分たちはこれからどうなっていくのだろうかという不安でいっぱい
だったに違いありません。また、自分たちは神にも見捨てられてしまったのではないかという絶望が彼ら
彼女らを襲ったに違いありません。そのようなイスラエルの民に向かって神による繁栄と回復の預言が語
られているのです。
・この預言の言葉を、バビロンの征服によって国がなくなってしまった、ユダの残留民にしろバビロンの
捕囚民にしろイスラエルの人々に語ったエレミヤや後の預言者は、イスラエルの民は主なる神を捨てて、
異教の神々を礼拝したのだから、そうなったのは自業自得だとは言いませんでした。自然界と神との関係
を引き合いに出しながら、<主はこう言われる。もし、わたしが昼と夜と結んだ契約が存在せず、また、
わたしが天と地の定めを確立しなかったのなら、わたしはヤコブとわが僕ダビデの子孫を退け、アブラハ
ム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶことをやめるであろう。しかしわたしは、彼らの繁栄を回復
し、彼らを憐れむ>と語ったのです。
・ヘブライ人への手紙の著者は、<信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです
>(11:1)と語っています。そして続けてこのように語っています。<信仰によって、わたしたちは、こ
の世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないこ
とが分かるのです>(11:2)と。「望んでいる事柄」「見えない事実」は神の御業の確かさなのです。パ
ウロのまた、この「見えないもの」に目を注ぐことを私たちに勧めています。少し長くなりますが、その
ところを読みます。
・<・・・「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を
もっているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。主イエスを復活させた神が、イエ
スと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知って
います。すべてこれらのことはあなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満
ちて神に栄光を帰するようになるためです。だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの
「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたした
ちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたし
たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないもの
は永遠に存続するからです>(競灰螢鵐4:13-18)。
・古代イスラエル人が経験した国家滅亡とバビロン捕囚という出来事を、私たちは自分とは全く関係のな
い出来事として受け取ることは出来ません。現実の私たちの日本の国家は、一人一人の命と生活を守るの
ではなく、福島や沖縄の人びとにとって明らかなように、むしろ奪う抑圧の力になっています。またグ
ローバルな経済も複雑な構造になっていて、私たちにはその構造がなかなか分かりません。なにがなんだ
かわからないままに、グローバルな経済活動によって、恩恵を受けている人はわずかであって、圧倒的に
多くの人々が苦しんでいるという現実があちらこちらに起きています。
・私たちキリスト者は、そのような状況の中で不安と絶望によってうちのめされているだけでよいので
しょうか。主イエスを通して見えない神の真実を見る信仰の目を与えられている私たちは、日々新たにさ
れる「内なる人」によって、私たちの外側から迫るこの厳しい状況に抗って、自分らしく自立して生きる
ようにと神によって招かれているのではないでしょうか。神の支配がもたらす正義と平和と喜びを、私た
ちの日常の隣人との交わりで生きると共に、この世界にそれが実現することを信じて、それにふさわしく
為すべきことを為していく者として生きていくことができますように!
・今日もまたそのことを可能とする神の霊の力を新たに与えられて、今日から始まる新しい一週の旅に向
かって歩み出していきたいと思います。