なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(75)

     「回復」エレミヤ書30:1-11、2017年9月24日(日)船越教会礼拝説教

・私はエレミヤ書を読みながら、ある面で自分自身をバビロンの捕囚の民に重ねて読んでいます。それ

は、今この日本で生きている私たちは、現代的なバビロン捕囚の状態にあるのではないかと思わざるを得

ないからです。

・ルイス・J・スタルマンは、「危機における希望の使者エレミヤ」という論文の中で、このように記し

ています。<…死と破滅に関するエレミヤのおぞましい記述――それはしばしば包囲や軍事占領、強制移

住という形をとる――は奇妙にも「ニューヨーク・タイムズ」の一面を飾る記事に似ていないこともない

>と言っています。エレミヤはバビロン捕囚によるユダの国の滅亡という事態に直面していました。今ま

で人々の生活を支えていた様々な社会システムが崩壊してしまったのです。そこで語られたエレミヤの

「信頼できる社会システムと脆弱な制度の瓦解(がかい)、価値と文化の崩壊についての預言は現代にあ

てはまるものも多い」とスタルマンは述べているのです。

・そして、エレミヤ書4章23節から28節の言葉、《わたしは見た。/見よ、大地は混沌とし/空には光が

なかった。/わたしは見た。/見よ、山は揺れ動き/すべての丘は震えていた。/わたしは見た。/見

よ、人はうせ/空の鳥はことごとく逃げ去っていた。/わたしは見た。/見よ、実り豊かな地は荒れ野に

変わり/町々はことごとく、主の御前に/主の激しい怒りによって打ち倒されていた。//まことに、主

はこう言われる。/「大地はすべて荒れ果てる。/しかし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。/それゆ

え、地は喪に服し/上なる天は嘆く。/わたしは定めたことを告げ/決して後悔せず、決してこれを変え

ない。」》という<原初の混沌に回帰する創造の秩序の崩壊する陰鬱な光景も次のような今日の災難の激

流に思いを巡らせば、もはやただのSFの一場面として片づけることはできない」と言っています。そして

「今日の災難の激流」として挙げられている危機のリストでは、私たちが生活している現代社会の危機的

状況をさまざまな角度から照らし出しています。そこに挙げられている危機のリストからいくつか拾い出

して紹介したいと思います。「疎外と非人間化をもたらす技術革新」(私たちにとっては東京電力福島第

原発事故によって文字通り体験している問題です)。「自分自身の価値を見失わせる消費至上主義」

(次々に新しい商品が生み出され、人びとの関心をその商品の購買に引き付けることによる消費至上主義

はが、私たちの人間としての価値を見失わせているということです)。「恨みと憤りと悲惨な絶望を増殖

させるグローバル経済政策」(私たちにとってはアベノミックスがこれに該当します)。「代替不可能な

天然資源(また文化資源)の急速な枯渇」、「世界でも最も脆弱な地域社会において基礎的医療、十分な

食料、安全な水が行き渡っていないという現状」、「拷問や体制がもたらす市民の死を含む残虐な暴力行

為に対する無関心の増大」、「性商品として収奪される子供たち」などです。

・このようにエレミヤの預言が現代に当てはまるものですから、そういう危機的な現代社会に生きている

私自身は、いわば現代社会の捕囚の民の一人ではないかと思えるのです。ですからエレミヤ書を読みなが

ら、私は自分自身をバビロンの捕囚の民に重ねて読んでいるのであります。

・さて、預言者エレミヤは、バビロンに捕囚となった民に対して、「イスラエルの神、万軍の主はこう言

われる」と、神の言葉を取り次いで、このように語りました。《わたしは、エルサレムからバビロンへ捕

囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えその実を食べなさい。妻をめと

り、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を

増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のため

に主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから》(29:4-7)だと。

このエレミヤの預言では、バビロン捕囚の民は、異教の地バビロンで自分たちの居場所を築き、その町の

ために平安を祈れと言われているのです。つまり危機的な状況においても、逃げ出さないで、そこに定着

し、居場所を作って、その地の人々と共に生き抜けと、エレミヤは語っているのです。

・それに対して、先ほど司会者に読んでいただいたエレミヤ書30章1節から3節には、そのような捕囚の民

の将来についての預言が語られているのであります。《見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回

復する日が来る、と主は言われる。主は言われる。わたしは、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これ

を所有させる》(30:3)と。バビロン捕囚の民に対して捕囚からの帰還による「回復の約束」が与えられて

いるのです。この神による「回復の約束」の成就するその日がくれば、状況は一変すると。

・30章8節には、《その日にはこうなる、と万軍の主は言われる》とあります。先ずエレミヤはその日が

来る前の災いの状況を、《主はこう言われる》と言ってこのように語っています。《戦慄の声を我々は聞

いた。/恐怖のみ。平和はない。/尋ねて、見よ/男が子を産むことは決してない。/どうして、わたし

は見るのか/男が皆、子を産む女のように/腰に手を当てているのを。/だれの顔も土色に変わってい

る。/災いだ、その日は大いなる日/このような日はほかにはない。/ヤコブの苦しみの時だ》(30:5

-7)と。ここに記されている、《だれの顔も土色に変わっている》と言われる「男」の姿は、危機的な状

況によって翻弄されている私たち人間の現実を比喩的に語っているのではないでしょうか。けれどもエレ

ミヤは、そのような災いの状況が神によって必ず変えられると告げているのです。7節の最後の言葉、

《しかし、ヤコブはここから救い出される》と。

・8節以下では、捕囚の民の回復の状況がこのように語られています。《お前の首から軛を砕き、縄目を

解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない。彼らは、神である主と、わたしが立てる王ダビデとに仕

えるようになる》(8,9節)と。捕囚という奴隷状態から解放されて、自由になって、捕囚の民は《神で

ある主と、わたしが立てる王ダビデとに仕える世になる》というのです。10節から11節にはこのように記

されています。《わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと/主は言われる。/イスラエルよ、おののくな。/見

よ、わたしはお前を遠い地から/お前の子孫を捕囚の地から救い出す。/ヤコブは帰って来て、安らかに

住む。/彼らは脅かす者はいない。/わたしがお前と共にいて救うと/主は言われる。/お前が散らされ

ていた国々を/わたしは滅ぼし尽くす。/しかし、お前を滅ぼし尽くすことはない。/わたしはお前を正

しく懲らしめる。/罰せずにおくことは決してない》と。

・このエレミヤの預言によれば、捕囚の民は神による回復の約束への信頼をしっかり持って、捕囚の今を

生き抜けと語られているのであります。このことは、捕囚の民がバビロンにあって、彼ら彼女らの固有の

在り方(主体性)を持って生き抜かなければ、捕囚という強いられた状況に押しつぶされて、人間性を喪

失して、機械の歯車の一つのように悪魔性をもった人間社会に無自覚にはめ込まれて、生きる以外にない

ことを示しています。

・先日連れ合いと草津の温泉に一泊してきました。ウイークデイの火曜日でしたが、沢山の人がいたのに

は、びっくりしました。先ほど現代社会の危機的状況について触れましたが、一方で、それを忘れさせる

ほどの時間と空間が、この危機的な状況にある現代社会の中にあるのも事実です。日比谷野外音楽堂や国

会前での原発、安保法制、共謀罪辺野古新基地建設反対の集会に参加した後、家に帰る途中の地下鉄や

小田急に乗っているときや、新宿の駅構内を歩いているときなど、沢山の人の中にいますが、そこでは反

対集会とは全く異なる、何事も起こっていないかのような空間と時間が流れているのです。この危機的な

現代社会にあっても、その痛みや苦しみは一部の人々に集中していて、そうでない人には、何事もないか

のように生活することができるのです。

・バビロン捕囚は約半世紀、50年くらい続きました。バビロニアからペルシャに覇権が移って、捕囚の民

には、ペルシャの王クロスによる解放令が出ました。捕囚の民の一部はエルサレム帰還を選びます。捕囚

民の中には、帰還する選択をしなかった人々もいたと言われています。50年のバビロンでの生活によっ

て、捕囚民の多くは、それなりの生活基盤を創り出していたに違いありません。エルサレムに帰還してか

らの生活への不安を考えれば、捕囚の地バビロンであっても、すでに創り上げて来たそのささやかな生活

の安定を投げ捨ててまで帰還を選ぶことができなかった人も多かったに違いありません。

・そのような状況にある捕囚の民に向かって、エレミヤは神による回復の約束を告げているのです。「そ

の日にはこうなる」と。≪お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはな

い。彼らは、神である主と、わたしが立てる王ダビデとに仕えるようになる≫(8,9節)と。神によって

もたらされる「その日」への望みを持って生きるか否か。そのことが問われているのです。

・イエスもまた、衣食住の確保を最優先して生きる私たちに対して、空の鳥、野の花を示して、このよう

に語っています。≪あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知であ

る。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だ

から、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十

分である≫(マタイ6:32-34)。私たちにとって、「その日」とは、神の国の完成ではないでしょうか。

ヨハネ黙示録の著者は、その幻をこのように語っています。≪「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が

人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとく

ぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったか

らである」≫と(21:3,4)。

・私たちキリスト者は、この神による完成を意味する終わり、つまり終末から生きる者なのです。その日

を待ち望みつつ、熱狂的になることなく、かといって冷めてしまうこともなく、祈りつつ、為すべきこと

をなして生きる。そこに私たちキリスト者の存在理由があることを、今日もまた新しく受け止めたいと願

います。