なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(72)

     「恵みの約束」エレミヤ書29:1-14、2017年7月30日(日)船越教会礼拝説教

・バビロンのネブカドレツアル王による第1回捕囚(BC597年)から数年が経ちました。捕囚の民はバビロン

の地でどのような状態に置かれていたのでしょうか。彼ら・彼女らがユダの国エルサレムにいた時には、彼

ら・彼女らにとってエルサレム神殿は何よりも心の支えでありました。エルサレム神殿は神の家であり、そ

こに参拝することによってイスラエル人は、自らが神に選ばれた民の一員であることを確認し、神の民の一

員として日常を生きることに誇りと自負をもっていたに違いありません。

・ところが、捕囚の地バビロンは異教の神の地です。彼ら・彼女らにすれば、その地は汚れた場所でした。

その汚れた異教の地バビロンに強制的に連れてこられた彼ら・彼女らは、これから自分たちはこの異郷の地

でどうなっていくのだろうかと考えたに違いありません。しかし、いくら考えても、何も見通すことが出来

ませんでした。彼ら・彼女らの心は不安でいっぱいになり、中にはこれからのバビロンでの自分たちの生活

がどうなるかを想像して、絶望的な気持ちを懐く人も多くいたに違いありません。或はこんな異郷の地で暮

らすことはできないと考え、祖国への帰還を熱狂的に求める人たちもいたことでしょう。

・関根正雄さんは、この絶望か、熱狂かという二つの在り方についていこのように述べています。《捕囚と

いう特殊な生活のあり方から、殊にその初期にはこのような両極端の生き方が生まれて来たことは言うまで

もないが、つきつめて言えば、時間の限界の中に置かれた人間のあり方は結局この二つのあり方に帰すると

も言えるであろう。前途に見通しがつかず、時間を支配し得ず、時間の重圧の下に立たされている人間は、

それを自覚すれば絶望するか~それが倦怠の形をとることが平和時には多いであろうが~、或は熱狂的にな

るか何れかなのである。唯人間の時間が神の時間の中に置かれていることをはっきりと知っている者だけが、

かかる絶望からも、熱狂からも自由であり得るのである。預言者とはそのような人間の時間を神の時間の中

に見ることの出来た人であった、と言ってもよいのである》(註解旧版204~205頁)と。

・関根正雄さんは、捕囚の民は人間の時間の重圧に押し倒されて、絶望するか、熱狂的になるか、そのどち

らしか選べなかったというのです。その意味で、第1回捕囚でバビロンに連れていかれた民は、特に最初の

数年間危うい状態に置かれていたと言えるでしょう。自暴自棄になって自滅する危険性もあったに違いあり

ません。

・その彼ら・彼女らのもとに、エルサレムからの使者を介して預言者エレミヤからの手紙が届きました。エ

レミヤがこの手紙を書いたのは、紀元前594年ではないかと言われていますから、第1回捕囚から3年が過ぎた

ころと思われます。エレミヤは預言者として、関根正雄さん流に言えば、「人間の時間を神の時間の中に見

ることの出来た人」でした。預言者は、この人間の現実を人間の目からではなく、神の目から見直すことが

できた人と言ってもよいかも知れません。エレミヤは、「主よ、お語り下さい。僕聞きます」との祈りを以

って、執拗に神に迫り、この人間の時間を神の時間の中に見ようとして、見ることが出来た人なのです。バ

ビロンへの使者を介して捕囚の民に届けられたエレミヤの手紙の預言は、捕囚の民にとっては予想外の言葉

でした。

・➀まず第一に、捕囚の民はバビロンの王ネブカドレツアルによって強制的にエルサレムからバビロンに連

れてこられたのですが、エレミヤは、彼ら・彼女らは、神ヤハウエが《エルサレムからバビロンに捕囚とし

て送った》と言っているのです。「バビロン王ネブカドレツアルによって連れてこられた」と言うのと、

「神がエルサレムからバビロンに捕囚として送った」と言うのでは、同じ捕囚という事態を捕囚の民が受け

取る受け取り方が全く違ってきます。エレミヤの手紙によって、エレミヤの預言に出会う前の捕囚の民は、

自分たちは意に反して「バビロン王ネブカドレツアルによって連れてこられた」と思っていたに違いありま

せん。しかし、エレミヤの預言によって、あなた方は「神がエルサレムからバビロンに捕囚として送った」

のだと言われて、彼ら・彼女らは、自分たちはただバビロンの王ネブカドレツアルによって強制的に連れて

こられただけではなくて、神ヤハウエによってこの地バビロンに送られてきたのだということに気づくこと

ができたのです。つまり彼ら・彼女らは、エレミヤの預言によって、今このバビロンに自分たちがいるとい

うことは、どういうことなのかを深い所で認識することができたのです。つまり、自分たちがバビロンにい

る、その存在理由、レーゾンデートルを発見したということです。

・⊆,2番目に、エレミヤは、その預言で捕囚の民に、バビロンの地で家を建て、畠を作り、結婚すること

を積極的に勧めています。5節、6節に、《家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめ

とり、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない》と言われています。この

エレミヤの預言も、汚れた異郷の地に自分たちの居場所をしっかり築いていけというわけですから、捕囚の

民にとっては予想外の言葉だったと思われます。速やかなエルサレム帰還を願っていたに違いない彼ら・彼

女らは、バビロン捕囚が相当長く続くことを覚悟しなければなりませんでした。10節に《主はこう言われる。

バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたた

ちをこの地に連れ戻す》と言われていますが、70年は完全数で、必ずしも文字通り70年ではなく相当長い間

を意味します。この時間は、少なくとも、この時バビロンに捕囚された人びとにとては、自分がたちが生き

ているうちには、エルサレムに帰還することは出来ないことを意味します。ですから、その間、捕囚民は

「バビロンの地で家を建て、畠を作り、結婚することを積極的に勧め」られているのです。

・そして3番目に、エレミヤの預言は、捕囚の民がバビロンに居場所を積極的に作るだけではなく、バビロン

のために祈ることを勧めているのです。7節に《わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安(シャロ

ーム)を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安(シャローム)があってこそ、あなたたちも

平安(シャローム)があるのだから》と言われています。このエレミヤの預言は、「当時の事情を考える時、

又驚くべき事でありました。エルサレムを滅ぼし、祖国の聖なる伝統を破壊し、自分たちを捕囚の運命に合

わせている憎むべきバビロンの為に祈れ、というのです》(関根)。バビロンという不信仰者の為の祈り、

敵の為の祈りは、旧約聖書の中ではここが唯一だといている人もいます(フォルツ)。

エルサレムからの使者によって捕囚の民にもたらされたエレミヤの手紙のこの預言に接して、彼ら・彼女

らは、捕囚という事態を全く新しくとらえ直すように促されました。

・絶望か熱狂かではなく、バビロン捕囚民は、自国の国家の保護の下にではなく、外国での寄留者として、ま

た信仰の民として独自の歩みに踏み出すように招かれたのです。彼ら・彼女らはこの歴史的社会的現実という

桎梏の中に、息づいている神の時間を発見し、その中でこの捕囚という歴史的社会的現実を生き抜く道を選

んでいくのです。

・エレミヤの預言は、その上、捕囚の民に神の将来と希望を告げています。10節、11節に《主はこう言われ

る。バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あな

たたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言わ

れる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである》と言われていま

す。ここでエレミヤは捕囚の民に向かって、神の約束の確かさを伝えているのです。

・しかし、この神の約束の確かさに賭けて、捕囚の地でイスラエルの民が居場所を作り、バビロンのために、

そしてそれは自分たちの為でもありますが、平安を祈って生き抜くには、エレミヤの言葉を信じなければな

りません。神の約束への素朴な信頼と祈りが捕囚の民に求められえいるのです。エレミヤは神の言葉を取り

次ぎます。12節から14節前半に、《そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、

わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会であ

ろう、と主は言われる》(12-14a節)とあります。捕囚という歴史的な人間の現実、その中で息づく神のみ

業である神の時間を祈り求め、「神われらと共に」という確信を持って生きよというのです。14節後半の

《わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやっ

たが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる》

(14b節)との言葉に、希望を託してです。

・このエレミヤ書の預言を読んでいて、私は捕囚の民は私たち自身でもあるのではないかと思えてきました。

この現代という人間の驕りが引き起こしている資本と権力による捕囚の下に私たちは生きているのではない

でしょうか。核の脅威から自由でない現代世界、未だ国家間の軋轢に支配されているこの世界、富の分配が

不公平で一部に人たちに富が集中し、他の多くの人たちが貧困に慄いている世界の現状、工業化による自然

破壊、環境破壊の進行。これは正に捕囚の状態と言えるのではないでしょうか。

・そのような世界の現実の中で、私たちは自分の居場所を築き、そのことを通してこの世界の平和(シャロ

ーム)祈り、神と他者である隣人と自然との共生という、私たちの故郷への帰還を待ち望みつつ、為すべき

ことを為して生きていくように招かれているのではないでしょうか。