なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(104)

   「釈放」エレミヤ書40:1-6、  2018年9月23日(日)船越教会礼拝説教


・紀元前587年のバビロンによるエルサレム陥落後、バビロンによって敗北を喫したユダの国の人々は、

その一部は上層階層を中心にバビロンに連行され、貧しい人々を中心とした一部は残留民としてエルアレ

ム陥落後もユダに留まったと言われています(39:9,10)。バビロン王ネブカドレツアルによるエルサレ

ム陥落によって、ユダ王国は滅亡しました。しかし、エルサレム陥落後もしばらくは、まだ戦闘状態が

所々では続いていたものと思われます。


・エレミヤはと言えば、彼は≪エルサレムが占領される日まで(エルサレム城内の獄舎であった)監視の

庭に留め置かれ≫ていました。≪彼はエルサレムが占領されたときそこにいた≫のです(38:28)。


・≪バビロン王ネブカドレツアルはエレミヤに関して、(エルサレム占領を指揮したと思われます)親衛

隊の長ネブザルアダンに命令を下した。「彼を連れ出し、よく世話をするように。いかなる害も加えては

ならない。彼が求めることは何でもかなえてやるように。」≫(39:11,12)と。ゼデキヤ王を初めユダの

人々にエレミヤは、「神はユダの民のその背信(罪)の故にこの地に災いを下す」と預言しました。そして

「バビロン王ネブカドレツアルと戦わずに投降して、バビロンの地で捕囚の民として生き延びよ、それが

神の意志だ」とユダの国の人々に訴えました。おそらくそのエレミヤの預言活動がバビロン王ネブカドレ

ツアルにも伝わっていて、エルサレム占領の際に、エレミヤがバビロン王ネブカドレツアルから優遇され

たのではないかと思われます。


・そのバビロン王ネブカドレツアルの意思を汲んで、39章13,14節によれば、親衛隊の長ネブザルアダン

は部下に命じて、監視の庭からエレミヤを連れ出し、バビロン王によってユダの国の残留民の監督に立て

られた≪ゲダルヤに預け、家に送り届けさせた。こうして、エレミヤは民の間に留まった≫と言われてい

ます。ここにはエレミヤの釈放について記されています。



・先程司会者に読んでいただきました、今日の聖書箇所のエレミヤ書40章1~6節のところにも、預言者

レミヤの釈放について記されています。


・つまり、エレミヤ書にはエレミヤの釈放の記事が二つあることになります。今日のテキストでは、親衛

隊の長ネブザルアダンは、バビロンに捕囚されるユダの人々と共にエレミヤが鎖で繋がれて連行されてき

た、エルサレムから約8キロのところにありますラマの地で釈放したと記されています。ラマの地は、こ

こに捕囚民がいったん集められたところとされています。ちなみに、このラマからバビロンまでは直線距

離で約1,000キロ、道沿いなら千数百キロあると言われます。ユダのバビロン捕囚民はその距離を鎖に繋

がれて歩かされたのであります。


・さて、エレミヤの釈放についての二つの異なった記述を木田献一さんは、このように考えています。

「いったん釈放されたエレミヤは、その事情を知らない兵に誤って捕えられて、他の捕囚民とともに連行

されるところを、再びネブザルアダンに発見されて、前回にまさる自由な選択の余地を与えられて釈放さ

れたものと解してよいと思われる」と言っています。バビロン軍によるエルサレム陥落・占領後の混乱し

た状況の中で、木田献一さんが言われるようなことが、実際にあったのかも知れません。


・ところで40章2節以下をみますと、バビロン軍の親衛隊の長ネブザルアダンはエレミヤを連れて来させ

て、このように言ったというのです。≪主なるあなたの神は、この場所にこの災いをくだすと告げておら

れたが、そのとおりに災いをくだし、実行された。それはあなたたちが主に対して罪を犯し、その声に聞

き従わなかったからだ。だから、そのことがあなたたちに起こったのだ≫(40:2,3)と。


・このネブザルアダンの言葉は、エレミヤがユダの王や民に繰り返し語って来た預言の内容そのものであ

ります。異邦の民の軍人ネブザルアダンが、エレミヤを真実な預言者であると確認しているのです。もし

エレミヤがネブザルアダンから実際にこのような言葉を聞いたとするなら、エレミヤはどんなことを感じ

たでしょうか。ユダの王もユダの民も、エレミヤの語った預言には耳を傾けなかった。しかし、異邦の国

の軍人ネブザルアダンはちゃんと自分の語った預言を受け止めているではないか。何ということだ。真実

な神の言葉は、神に選ばれたユダの民によってではなくて、異邦の民のネブザルアダンによって受け止め

られているではないかと。不思議な神の導きを感じたかも知れません


・このネブザルアダンの態度は、「のちにこのエレミヤ書では、ゲダルヤの暗殺からエジプト逃亡に至る

経緯が語られますが、そこで依然として神の裁きにさからって行動する人々の態度と著しい対照をな」し

ています(木田献一)。ネブザルアダンによってエレミヤは、捕囚の民と共に行動することも、ユダの国

に残留民の監督ゲダルヤと共に留まることも、その他のエレミヤが正しいとする道を選ぶことも、エレミ

ヤ自身の自由とされますが、エレミヤはゲダルヤの下に留まります。≪親衛隊の長はエレミヤに食料の割

り当てを与えて釈放した。こうしてエレミヤは、ミツバにいるアヒカムの子ゲダルヤのもとに身を寄せ、

国に残った人々と共にとどまることになった≫(5,6節)のです。


・エレミヤは何故ユダの国の残留民と共にゲダルヤのもとに身を寄せ、ユダの国に留まったのでしょう

か。捕囚民と共にバビロンに行けば、バビロンの王ネブカドレツアルの熱い保護を受けて、捕囚民の中で

も最も良い条件が与えられて、バビロンでの生活をすることができたに違いありません。また、「目の前

に広がっているこのすべての土地を見て、あなたが良しと思い、正しいとするところへ行くがよい」とい

うネブザルアダンの勧めに従って、貧しい人々が中心の残留民と共にゲダリヤの下に留まるのではなく、

もっとエレミヤが自分のことだけを考えて、安全に生活できる所が選ぶこともできたかも知れません。し

かし、エレミヤは後の記述を読む限り、最も困難な道を選んだように思われます。


・残留民の監督としてバビロン王によって立てられたゲダリヤは、このあとすぐに同じユダの国の民であ

るネタンヤの子イシュマエルによって暗殺されてしまいます。そしてその後に残留民の指導者になった

人々は、バビロンの報復を恐れて、残留民と共にエジプトに逃れていくことになります。エレミヤはその

残留民の中にあって、預言者として神の真実を語り続けて言ったのです。


・このエレミヤの選択には、エレミヤが貧しい人々が中心の残留民とどこまでも一緒にいて、例えどんな

困難が起ころうとも、預言者として神の真実をユダの人々に語り続ける道を選んだことが示されていま

す。


・このようなエレミヤは、常に神の真実を問い、祈りの中で神からの応答としての神の真実の言葉を与え

られ、それをユダの残留民に語り続けることによって、ひとりの預言者として、神の召命に最後まで答え

て生きようとしたのではないでしょうか。


エルサレム陥落、第2回バビロン捕囚後の激動の時代に、エレミヤは自分が誰と共に生きていくのか、

そして何を最も大切にして生きていくのかということを、はっきりと自覚してその自分の道を選び取って

いったのではないでしょうか。そのようなエレミヤの選択には、その根底に、このエレミヤの時代の破局

的な、エルサレム陥落、ユダの国の滅亡、指導的な人々のバビロン捕囚という歴史的現実の中で、神がい

かに働き給うているかを、信仰の目で見抜き、エレミヤは残留民と共に行動することを選んでいったのだ

と思われます。そこには、神は最も弱き人々と共にあって、その弱き人々と共に生きることを全ての人に

求めておられるという、エレミヤの信仰があるのではないでしょうか。


・私はこの3週間連れ合いが入院していた大学病院に、毎日通いました。前にこの大学病院と前に連れ合

い一日入院した町医者の病院との看護師の違いについて、船越通信に書いた時は、患者との向かい合いに

おいて、大学病院の若い看護師よりも町医者の病院の年配の看護師の方が優れているのではないかという

主旨のことを書きました。そういうところは確かにあるのですが、全体的にこの大学病院は、比較的開放

的で患者を中心にした医療体制が組まれているように感じました。通常大学病院にはヒエラルキーのよう

権威主義的なところがあって、患者は遠慮がちに治療してもらっているというところを感じますが、連

れ合いが入院した病棟では、そういう感じはほとんどありませんでした。病を負っている弱い人を中心に

さまざまな能力を持った人が、その弱い人に仕えていく、これが本来の病院が持つ癒しのあり方ではない

でしょうか。


・連れ合いが入院していた大学病院は、もちろん完全ではありませんが、そういう弱さを持つ患者を中心

に医師も看護師も、その他の働き人も一体となっている、癒しの共同体が形成されているように思えて、

3週間病院に通いましたが、通常大学病院や大病院で受ける、患者が無視されるという不快感は全くと

言っていいほど受けませんでした。


・この病院本来の最も痛みを抱えた人を中心に、その人に寄り添い、互に仕え合うという共同体は、病院

だけでなく、この社会も本来そのような癒しの共同体であることが期待されているのではないでしょう

か。旧約聖書を読みますと、イスラエルの民はそのような神の契約共同体として選ばれて、他の諸民族の

お手本となるようにと、神によって立てられたように描かれています。


新約聖書では、イエスがめざしたものも、そのような最も小さくされた人を中心に据えた癒しの共同体

ではないかと思われます。本来イエスを主と信じる者の共同体である教会も、そのような癒しの共同体な

のではないでしょうか。


・エレミヤが彼の時代と社会の中で、そのような癒しの共同体の一員として、自分の与えられた預言者

務めを、最後まで果たしていったように、私たちもこの時代と社会の中で教会という、癒しの共同体の一

員に加えられている者の一人として、その与えられた役割と責任を果たしていきたいと、切に願います。