なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(77)

 「仲介者を通して」エレミヤ書30:18-24、 2017年10月15日(日)船越教会礼拝説教


・しばらく前に一度説教でも触れたことがありますが、辺見庸は、日中戦争の発端となりました盧溝橋事

件(ろこうきょうじけん)が起きた1937年を意味します『1937(オクミナ)』という本を書いていま

す。その中で辺見庸は自分の父親が一兵士として日本の侵略戦争に加担したことに対する、個人としての

責任を問題にしています。特に南京虐殺をはじめ、中国における日本の軍隊がやったことを克明に描き、

中国人に対する虐殺、強姦、略奪の実態に迫り、日本兵士の個々人の責任を問うているのであります。辺

見庸は何のためにそのような過去の日本の侵略戦争の実体を暴こうとしているかと言えば、「自分がその

場にいたらどうしただろうか?」を問うためです。「自分がその場にいたらどうしただろうか?」と想像

力を働かせて考えることは、おそらくこれから将来にわたって同じような状況になったときに、自分はど

うすべきなのかを考えるためではないかと思われます。辺見庸にとって、今この時代の日本はすでに私た

ちにそのようなことを問うていると考えられているのであります。


・過去を問うことは、ただ過去を問うだけではなく、今を将来に向かってどう生きていくか、を問うこと

でもあります。エレミヤがその預言活動において行ったことも、ある意味で、自分もその一員であるイス

ラエルの民の過去を問い、今から将来に向かってどう生きていくかを、自分自身とイスラエルの民に指し

示すためだったと言ってよいでしょう。


・エレミヤはユダの国がバビロンに滅ぼされ、一部の中心的なイスラエルの民がバビロンに捕囚となった

事件を、ただ覇権主義的な大国バビロンによる侵略としては見ませんでした。ですから、バビロンを非難

し、ユダの国とイスラエルの人々を大国に侵略された犠牲者として、自己正当化することもしませんでし

た。ユダの国がバビロンに滅ぼされ、一部の民が捕囚になったのは、神との契約によって生きるべき契約

の民イスラエルの神への背反(そむき)、その不信仰によるものだと、神による裁きを強調したのでありま

す。ですから、エレミヤは、バビロン捕囚の民に向かって、神によってエルサレムに帰ることが出来るま

で、神の裁きとしてのバビロン捕囚を悔い改めて受け止め、バビロンの地に根を張って生き抜け、と語っ

たのです。その捕囚の民である彼女ら・彼らにとっては、異郷の地であるバビロンで、果樹園を作り、結

婚して子孫を増やし、その地の人々のために平安を祈れと。イスラエルの民の過去の過ちを厳しく見つ

め、悔い改めて神に立ち帰って生きよ。これがエレミヤ書29章までの今までのエレミヤの預言の中心的な

メッセージでした。


・けれども、過去を厳しく検証し、自らの過ちを認め、神との契約の民の一員として、自分本来の姿に気

づかされて、今までの自分のあり方を180度方向転換して、神と共にまた隣人と共に歩む地点に立ち帰る

ことができたとしても、捕囚の民にとって、それだけでは今から将来に向かって生き抜く力としては十分

ではありませんでした。


・犯罪を犯した人が、裁判によって裁かれて服役し、自分も侵した過ちを心から反省し、刑務所での生活

を終えて、社会生活に戻って立ち直って生きていこうとします。その時、その人を犯罪者として白い目で

見るのではなく、その人を支える他者である隣人がいるとか、その人の中に服役後の自分の人生をどう生

きていくのかという、明確な希望が与えられているとかしないと、また同じ犯罪を犯す人にならないとも

限りません。一度犯罪を犯した人の再犯率が高いと言われますが、それはその人が自分の犯した罪に対し

て、心から悔い改めているということが第一に、服役後にその人に明確な将来への希望が与えられている

かということが第二に、そして服役後のその人の社会生活を支える他者である隣人がいたり、社会制度的

に保障されていることが第三に、ということが整っていて、はじめて再び犯罪を犯すことなく、一人の犯

罪者が立ち直っていくことができるのであります。


・そのことは、過去の過ちを悔い改め、神の裁きとしての捕囚に耐え、神の契約の民の一員として今から

将来に向かって生きて行こうとしていた捕囚の民イスラエルの人々にとっても同じでした。捕囚の民であ

る彼女ら・彼らは、今から将来に向かって生き抜く命の力が必要だったのです。それに応えてエレミヤは

預言しているのです。

・≪主はこう言われる。

 見よ、わたしはヤコブの天幕の繁栄を回復し

 その住むところを憐れむ。

 都は廃墟の丘の上に建てられ

 城郭はあるべき姿に再建される≫(30:18)。

・こには、捕囚の民に対してエルサレム帰還とエルサレムの町の再建が語られています。しかもエレミヤ

は、≪主はこう言われる≫と言って、≪わたしは・・・回復し、・・・憐れむ、・・・建て、・・・再建

する≫と語っているのです。エレミヤは、ここで神ご自身による歴史への介入を語っています。それに続

けて、

・≪そこから感謝の歌と

 楽を奏する者の音(ね)が聞える。

 わたしが彼らを増やす。数を減らすことはない。

 わたしが彼らに栄光を与え、侮られることはない。

 ヤコブの子らは、昔のようになり

 その集いは、わたしの前に固く立てられる。

 彼らを苦しめるものにわたしは報いる≫(30:19,20)と。

・ここでも一人称単数の「わたしが」が強調されています。その「わたし」である神ヤハウエが、捕囚の

状態にあるイスラエルの人びとに新しい未来を創り出すというのです。再建されたエルサレムの町に帰還

したイスラエルの民の≪感謝の歌と、楽を奏する者の音(ね)が聞える≫と。

・そして、

・≪ひとりの指導者が彼らの間から
 
 治める者が彼らの中から出る。
 
 わたしが彼を近づけるので
 
 彼はわたしのもとに来る。
 
 彼のほか、誰が命をかけて
 
    わたしに近づくだろうか。と主は言われる。
 
 こうして、あなたたちはわたしの民となり

 わたしはあなたたちの神となる≫(21-22節)

 と言われています。

・悔い改めて神に立ち返って、今から将来に向かって歩みだすイスラエルの民には、≪ひとりの指導者

≫、彼女ら・彼らを≪治める者≫を、彼女ら・彼らの中から与えられるというのです。その≪ひとりの指

導者、治める者≫は、≪彼のほか、誰が命をかけてわたしに近づくであろうか≫と言われているように、

どのような状況にあっても「神と共にある」人なのです。このような神とイスラエルの民の仲立ちをする

仲介者を立てることによって、≪こうして、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神と

なる≫と、エレミヤは「神が言っている」と預言しているのであります。


・バビロン捕囚となったイスラエルの民の将来、神によって与えられる回復と再建の道には、確かな神の

導きと、その神の導きから決して逸れて行かない、どんな時にも、どんな状況にあっても、神と共に歩む

ひとりの指導者、イスラエルの民と神との間を仲介する者が与えられるというのです。そのようにしてイ

スラエルの捕囚の民は、再び神の契約の民となるのだと、エレミヤは語っているのです。


・そして、今日のエレミヤの預言には、最後に一つの警告の言葉が添えられています。

≪見よ、主の怒りの嵐が吹く。

 嵐は荒れ狂い

 神に逆らう者の頭上に吹き荒れる。

 主の激しい怒りは

 思い定められたことを成し遂げるまではやまない。

 終わりの日に、あなたたちはこのことを悟る。≫(23,24節)と。

 この警告の言葉には、二度と再び神に背くことのないようにとの思いが込められています。


・バビロン捕囚後のイスラエルの民の回復と再建があるとすれば、状況の厳しさを超えて、イスラエル

民が神の導きの確かさに寄り頼むことが出来るか否かにかかっていることが、このエレミヤの預言には語

られているのであります。バビロン捕囚後に、このエレミヤの預言に語られている≪ひとりの指導者、治

める者≫がイスラエル民に与えられたかどうかは分かりません。私たちキリストの教会に連なる者にとっ

ては、この≪ひとりの指導者、(わたしたちを)治める者≫とはイエス・キリストであります。


イエス・キリストを信じる者たちの群れとしての教会は、パウロによれば、旧約聖書の民族としてのイ

スラエルではなく、「神のイスラエル」なのです(ガラテヤ6:16)。ガラテヤの信徒への手紙においてパ

ウロは、割礼と律法も必要であるとするユダヤ主義者に対して、≪しかし、このわたしには、わたしたち

の主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、

世はわたしに対して、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大

切なのは新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラ

エルの上に平和と憐れみがあるように≫(ガラ6:14-16)と語っているのです。


パウロによれば、私たちイエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストの十字架以外に誇るべきも

のは何も持たない者たちであり、この十字架によって新しく創造された者たちなのです。イエスの十字架

によって、古き自分が死に、イエスの復活によって神に対して生きる者とされているのです。そのような

信仰者の群れを「神のイスラエル」をパウロは呼んだのです。


聖霊降臨節の日曜日の礼拝式の招きの言葉は、ローマの信徒への手紙5章5節の言葉です。今日は聖霊

臨節第20主日ですから、20回の日曜日の礼拝で、私たちはこの招きの言葉を聞いています。≪希望はわた

したちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に

注がれているからです≫(ローマ5:5)。私たちには聖霊の働きによる神の導きが与えられているので

す。ですから、私たちはパウロと共に、≪わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配する

ものも、現在あるものも、未来のものも、力ある者、高い所にいるものも、低いところにいるものも、他

のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離

すことはできないのです≫(ロマ8:38,39)と告白することが許されているのではないでしょうか。


・資本というマモンが国家を巻き込んで猛威を振るっている厳しい時代にあって、「神のイスラエル」と

しての教会に連なる者として、神の子とされた私たちは、聖霊の導きを信じて、主イエスにある希望を確

かなものとして生き抜いていきたいと願います。