「打ち傷は痛む」エレミヤ書30:12-17、2017年10月1日(日)船越教会礼拝説教
・東電福島第一原発事故によって今も沢山の人々が苦しんでいます。原発を推進してきた政府や電力会社、
そして原子力の学者たちは、この事故をどのように受け止めているのでしょうか。想定外の地震や大きな津
波による自然災害によって起きた事故で、今後も自然災害に対する防止方法によっては、原発をやめなくて
も続けていくことができるという程度にしか、考えていないのかも知れません。事故が起きた原発を廃炉に
出来るかどうかも、まだ分からないにも拘わらす、東電福島第一原発の事故後、日本の全ての原発が止まっ
ていたのに、政府は、原発の再稼働を認めて、原発を動かしています。一体何を考えているのか。東電福島
第一原発事故を何だと思っているか。全く分かりません。
・安倍首相は、憲法9条があるにも拘わらず、集団的自衛権の行使への道を開き、アメリカと一体となって、
日本を戦争のできる国に造り変えようとしています。安倍首相や現在の政府にとって、かつての日本の天皇
制国家が犯した過ちである侵略戦争は一体何だったのでしょうか。アジアを中心とする2,000万人の人々と、
日本人300万人の命を奪った末に、敗戦とアメリカ軍による占領を経験したことを、どのように考えている
のでしょうか。軍事力によっては、平和は築けないということを骨の髄まで知らされたにも拘わらず、軍事
力によって日本を守ろうとする、そのような考え方にどうしてなるのか、強い日本という国家主義者である
安倍首相の考え方からきているとは思いますが、私には納得できません。国家や民族を優先し、個々人の
命と生活が二の次にされていく。かつて日本の国が犯した過ち、富国強兵という国造りを、また繰り返そう
としているとしか思えません。
・私は聖書から国家や民族よりも一人一人の人間の命と生活を大切にして生きていくことを学びました。けれ
ども、私たちは国家や民族が多く存在するこの世界で、一つの国家、一つの民族の一員として、その枠組みの
中にはめ込まれて生きているのも事実であります。私たちは一人一人の個人として生きていますが、国家や民
族の枠組みの中でしか生き得ない個人でもあるわけです。ですから、国と国、民族と民族の戦争が起これば、
その中に個人としての私たち一人一人も巻き込まれてしまうのです。そういう状況の中でも、神との関わりの
中で、エレミヤのような預言者のように真実を語り、その真実を生き抜くことができればと願わずにはおれま
せん。
・エレミヤの時代のイスラエル人も同じでした。アッシリヤに滅ぼされた北イスラエルの国のイスラエル人に
しろ、バビロンに滅ぼされた南ユダのイスラエル人にしろ、その戦争による国家滅亡、捕囚という事態に一人
一人は巻き込まれてしまったのです。エレミヤはバビロン捕囚にあるイスラエル人に向かって、神の言葉を取
り継ぎます。イスラエルの民にとって国家滅亡と捕囚という出来事は、悲惨な体験そのものでした。エレミヤ
は今日の箇所の預言で、そのイスラエルの民の惨状を、単なる政治的、軍事的な結果としてではなく、イスラ
エルの民が罪の故に神に懲らしめられたのだと言っているのであります。
・今日の説教題は、「打ち傷は痛む」とつけました。これは先ほど司会者に読んでいただいたエレミヤ書30章
12節の言葉の中から選んだものです。12節にはこのように語られています。≪主はこう言われる。/お前の切
り傷はいえず/打ち傷は痛む≫と。「打ち傷は痛む」という経験は、皆さんもなさったことがあるのではない
でしょうか。転んで強く膝を打ち付けてしまい、しばらく膝の痛みが消えないというようなことは、誰もが経
験していることではないかと思います。「切り傷」もそうでしょう。切り傷をしたところが膿んでしまい、な
かなかその切り傷がいえないということもあるわけです。そのような私たちの誰もが一度は経験している「打
ち傷」「切り傷」が、エレミヤのこの預言では譬えとして使われているのであります。
・エレミヤはバビロンによってユダの国が滅亡し、主だった人々がバビロンに捕囚として連れて行かれたとい
う、イスラエルの民が経験した悲惨な状態を、「切り傷」「打ち傷」に譬えて、ここで語っているのでありま
す。≪お前の切り傷はいえず、/打ち傷は痛む≫と。そして癒しを訴えるイスラエルの民の声は聞かれず、≪
傷口につける薬はなく、/いえることもない≫(13節)と。何故なら、同盟国であった国々である≪愛人たち
は皆、お前を忘れ/相手にもしない≫(14節)からだというのです。
・ここまでは、ある面でユダの国のイスラエルの民がバビロンに捕囚されたことの、政治的、軍事的な状況の
説明ということができるでしょう。けれどもエレミヤの預言はそこで終わっていません。イスラエルの民にと
って、ユダの国がバビロンの王ネブカドレツアルに滅ぼされ、同盟国が助けの手を差し伸べなかったのは、≪
お前(イスラエルの民)の悪が甚だしく/悪がおびただしいので/わたしが敵の攻撃をもってお前を撃ち/過
酷に懲らしめたからだ。/なぜ傷口をみて叫ぶのか。/お前の痛みはいやされない。/お前の悪が甚だしく/
罪がおびただしいので/わたしがお前にこうしたのだ≫と(14b-15節)言われているのです。つまり、イスラ
エルの民の切り傷がいえず、打ち傷が痛むのは、その犯した罪と悪の故に、神自身がイスラエルの民を懲らし
めているから、神ご自身がそうしているからだというのです。
・政治的・軍事的には、南王国ユダの滅亡と主だったイスラエルの民の捕囚は、覇権的な大国バビロニアによ
る侵略によって、イスラエルの民が悲惨な状態に突き落とされたという事態でありました。援助してくれるは
ずだった同盟国も、何の助けにもならなかったのです。その意味では、大国の狭間で生きる弱小国ユダの運命
と言ってもよい出来事だったはずです。ある面で南王国ユダとその民イスラエル人は、被害者だったと言えな
くもありません。
・けれども、エレミヤは、この国家滅亡とバビロン捕囚というイスラエルの民の「悲惨な事態は、政治的、軍
事的な理由によるというよりはむしろ究極的には神の意志によるのだ」(木田献一)と言っているのでありま
す。イスラエルの民の犯した罪と悪に対する神の懲らしめ、神の審判であると。このことは、政治的、軍事的
な側面からだけ国家滅亡とバビロン捕囚という、イスラエルの民にとっての悲惨な出来事をとらえて、その運
命を嘆き、ルサンチマン、恨みを抱えて生きるのではなく、神の歴史支配の下にへりくだって、イスラエルの
民が犯した罪と悪の過ちを悔い改めて、神の民にふさわしく新たに生きよとの語りかけなのです。
・16節には、このように語られています。15節の最後の≪わたしはお前にこうしたのだ≫を受けて、≪それゆ
え、お前を食い尽くす者は/皆、食い尽くされる。/お前の敵は皆、捕囚となる。/お前を略奪する者は、略
奪され/強奪する者は、皆強奪される≫と。
・神の裁きはイスラエルの民だけではなく、イスラエルの敵であるバビロンにも及ぶというのです。そして敵
とイスラエルの立場を神が逆転させると言われているのです。17節では、≪さあ、わたしがお前の傷を治し/
打ち傷をいやそう、と主は言われる。人々はお前を、「追い出された者」と呼び/「相手にされないシオン」
と言っているが。≫と語られているのです。
・ここには、捕囚の民が己の罪と悪を悔い改めて、癒されて神の民をして新たに歩みだす可能性が語られてい
ます。国家や民族の枠組みの中で生きている人々からは、≪お前は、「追い出された者」「相手にされないシ
オン」と呼ばれているが、イスラエルの民は国家や民族の枠組みを超えて、一人一人神と隣人と共に生きてい
く、神に与えられた道があるというのです。それはシナイ契約において示された神の道(律法=トーラー))
です。神の下にあって一人一人が隣人の命と財産(生活)を奪わないで、共に支え合い、助け合い、分かち合
って、共に生きる共生への道です。人々からは、≪お前は、「追い出された者」「相手にされないシオン」
と呼ばれるが、むしろそれでよいではないか、とエレミヤは語っているように思われます。人々に受け入れら
れることと、神に受け入れられることとが、相反することであるとすれば、神に受け入れられるために、人び
とからは受け入れられなかったとしても、その時は、それでいいではないかと。神の民としてイスラエルの民
が誠実に生きていれば、自分たちを受け入れなかった人々も、いつかは受け入れてくれるようになるかも知れ
ないからです。
・原発推進者も、かつての日本の侵略戦争を遂行した者も、原発事故や敗戦を、自らが進めた行動に対する懲
らしめ、裁きとして、深刻に受け止めるということをしないのではないでしょうか。原発事故や敗戦は、その
行為を進めた者の責任を問う出来事ではないかと思うのですが、自分たちのしたことがたまたま失敗であった、
だからこれからは失敗はしないと居直っているようにしか見えません。そのために苦しんでいる人びとを見棄
てているとしか思えません。まさに棄民政策です。私たちキリスト者はどうでしょうか。かつての戦争協力と
いう罪を悔い改めて、ただ神をのみ崇めて、国家権力や資本(金)の力を相対化できているでしょうか。イエ
スを主と信じて、イエスと共に歩みを起こしているでしょうか。罪と悪を犯した者が、赦されてもう一度神の
民として歩むことへと招かれている、その幸いを大切にして、イエスと共に、そして隣人である他者と共に神
の国の実現をめざして歩み続けたいと願います。