なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(332)

      船越通信癸械械押。横娃隠掲10月1日    北村慈郎

・24日(日)は礼拝後何時ものように残れる人で、差し入れのお菓子でお茶を飲みながらしばらく懇談

して、散会しました。私はこの日は前々から約束していました鎌倉に住んでいるE牧師と、午後4時半にJR

藤沢駅改札で待ち合わせていましたので、バス停梅田を3時31分のバスでJR田浦駅に出て、JRで藤沢駅

向かいました。電車の乗り継ぎが順調に行き約束の時間の少し前に藤沢駅に着きました。藤沢駅の改札近

辺は内も外も人で一杯でした。中にはお祭りの時の御神輿の担ぎ手と思われる法被を着た男女の人の姿も

ありました。改札口のそばに他の人から頭一つ背の高いE牧師を見つけ、挨拶して、E牧師と共に、イベン

トがあり、沢山のテントが並んでいる所を通ってファミリーレストランに行きました。E牧師は、一週間

に一度は同じ系列の鎌倉にあるファミリーレストランで食事をしているようで、私と藤沢で会うために、

前以て藤沢駅の近くに在るこのレストランを調べてくださったとのことです。E牧師から私と一度会って

お話ししたいと言われたのは、鎌倉恩寵教会の牧師就任式でE牧師と久しぶりにお会いした時でした。E牧

師は、元来音楽家で、70代も後半になってから農村伝道神学校を受験し、4年間の学びを終えて、日本基

督教団の補教師になられた方です。その後鎌倉の教会で副牧師として働いておられます。農伝在学中の社

会実習で寿地区センターに来ていました関係で、その時に私は何回かお会いしました。また、神奈川教区

オリエンテーションでもお会いしていました。そんな関係もあり、またE牧師は私の免職問題について

も関心を持っておられますので、機会があれば一度私と話をしたいと思っていたようです。午後4時半か

ら7時近くまで、少しお酒を飲みながらいろいろとお話をすることができました。E牧師は農伝時代にブル

トマンに関心をもたれたとおっしゃっていましたが、聖書解釈も歴史的・批判的な解釈を踏まえておられ

るように思われました。ですから現在の教団中枢のドグマティズムとは距離を持っておられるようでし

た。自己絶対化から自由な人でしたので、話しも違和感なく、遠慮なくお互いの考えを述べ合い、聞き合

うことができました。また機会があればお会いしましょうと約束して、午後7時過ぎに藤沢駅でお別れし

て、私は小田急で相模大野経由で鶴巻に帰ってきました。

・この週は月曜日から水曜日まで、どこにも出かけずゆっくりと鶴巻で過ごしました。28日(木)に鶴

巻から船越に移動し、船越教会にはお昼過ぎに着きました。支援会の関西(大阪)出前集会が10月28日

(土)午後1時から東梅田教会で行われますので、既に8月中旬に教団の全教会・伝道所には案内を送って

いますが、改めて目ぼしい教会・伝道所に集会案内を複数送り、教会の皆さんにアッピールしてもらいた

いと思い、約100の教会・伝道所に発送しました。関東(東京)出前集会は10月7日(土)午後1時から、

早稲田奉仕園リバティーホールで行われます。その準備は大体終わっており、後は当日を迎えるだけで

す。

・29日(金)は午後1時からの寿炊き出しの配食に間に合うように、船越教会を午前11時半ごろ出て寿

に向かいました。午後1時10分ぐらい前に炊き出しが行われている寿公園に着きました。この日は特別な

学校等からのボランティアはいませんでしたので、ボランティアの人数はギリギリで、私も最初から洗い

場に入りました。この日は月末の金曜日でしたので、炊き出しの列は最後まで途絶えることがありません

でした。炊き出し後の報告会では、この日の配食数は約620食だったということです。寿の炊き出しで

は、一人が一度の配食ではなく、希望すれば何回でも列に並んで、雑炊がある限り何食でも食べられます

ので、620食は炊き出しに並んだ人数と言うわけではありません。それにしても、月初めの生活保護費が

支給された直後の炊き出しの場合は、350食前後ですので、月末の炊き出しの配食数の多さが目立ちま

す。このことは、月末まで生活保護費を上手に配分して生活することがなかなか難しいということと共

に、そもそも生活保護費が充分でないという現実を示していると思われます。寄せ場における炊き出し

は、何処でも炊き出しを必要としない社会を目ざして行われていると思われますが、現実はなかなか炊き

出しを必要としない社会にはなりません。むしろ増々、様々な所で炊き出しを必要とする社会に向かって

いるのではないかと危惧しています。

・この日炊き出しの報告会に出てから、浦舟町の横浜市大病院に入院していますHさんを病室にお見舞い

しました。ただ病室に入ろうとしましたら、おそらく医師と看護師3人が病室でHさんに対応していました

ので、それが終わるまで病室の前で待ち、3人が出て来た時に、その一人にHさんとお話しはできますかと

お尋ねしましたら、「大丈夫です」と言われましたので、病室に入ってHさんにお会いしました。Hさんに

は、鼻に酸素吸入器が付けられていて、普通に話ができる状態ではありませんでしたので、私は「今寿の

炊き出しを終えてきました」と一言いって、短くお祈りして、すぐに病室を後にしました。病院には寿か

ら歩いて来たのですが、その途中中村町側から横浜橋商店街のアーケードを見て懐かしく思いましたの

で、帰りは横浜橋商店街を中村町側から阪東橋側まで歩きました。中高時代の友人の家がこの商店街にあ

りましたので(今もある)、高校時代には彼の家に良く来ていましたが、そのころと比べると商店街の雰

囲気は一変しているように感じました。横浜橋商店街を抜けて、大通公園を歩いて、長者町五丁目辺りか

伊勢佐木町通に入り、古本屋で本を見て、そのまま歩いて本町一丁目にある横浜情報文化センターに行

きました。そしてこの日午後6時半からその6階ホールで行われた「辺野古の埋立てを止めよう! 山城博

治さんを囲んでー9・29神奈川の集い」に出席しました。主催は島ぐるみ会議と神奈川を結ぶ会/神奈川

平和センター/基地撤去をめざす県央共闘会議です。私は教区の基地小の委員としてその参加団体である

基地撤去をめざす県央共闘会議の幹事会に毎回出席していますので、その関係でこの集会を知り出席しま

した。この数か月で山城博治さんのお話は2度ほど伺っていますが、今回のお話は特に強く響きました。

国家や民族の枠組みを超えて「平和・自由・愛」に基づく人間の連帯の創造に、この人は真剣に体を張っ

て権力と対峙しているのだと強く感じ、感動しました。