なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(88)

   「回復」エレミヤ書32:36-44、2018年3月18日(日)船越教会礼拝説教


・船越教会にある古い広辞苑で「回復」の意味を調べてみました。<^貪拏困辰燭發里鬚箸蠅發匹垢

と。△發箸里箸りになること。>とありました。預言者エレミヤが拘束された状態にあって、従兄弟か

らアナトトの畑を買って、その証書と写しを壺に入れて書記バルクに埋めさせたのは、そのようにするよ

うにと神によってエレミヤに命じられた預言者の象徴行為だったと言われます。けれども、その象徴行為

を行ったエレミヤ自身、その象徴行為が示しているバビロン王によって破壊されたエルサレムの再建が本

当にあるのだろうか。そして、エルサレムをはじめユダヤの荒廃した場所に再びイスラエルの民が戻って

来て、畑を買い、平和な生活が本当に再開されるのだろうか、と思っていたようです。32章16節から25節

のエレミヤの祈りには、そのようなエレミヤの問いが記されていました。


・このエレミヤの祈りに対して、26節に<主の言葉がエレミヤに臨んだ>と言われていて、先ずバビロン

王によってエルサレムが破壊され、エルサレムとユダの国が荒廃するようになったのは、王をはじめユダ

の国のイスラエルの民が異教の神々を礼拝し、主なる神に背を向け、顔を向けようとしなかったこと。繰

り返し教え諭した主なる神の言葉を聞こうとせず、その戒めを受け入れようとしなかったからだと、告げ

られたのです。つまりバビロン王によるエルサレムの破壊と捕囚という出来事は、ユダの国の人々全体の

背信に対する神の裁きなのだと言うのです。そして、その後に先ほど司会者に読んでいただいた今日のエ

レミヤ書のテキストが続いて記されているのであります。


・26節の最初に<しかし今や>と言われています。神は王をはじめとしたユダの国の民の背信を、バビロ

ン王によるエルサレムの破壊と主だった民の捕囚によって裁かれたが、<しかし今や>と言うのです。<

お前たちがバビロン王、剣、飢饉、疫病に渡されてしまったと言っている、この都について、イスラエル

の神、主はこう言われる>と言って、このように語られているのであります。


・<かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、

安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる>(37,38節)と。神の怒りに

よってエルサレムとユダの国からバビロンに捕囚となったイスラエルの民が、再びエルサレムとユダの国

に帰って、そこで平和に暮らすためには、まず何よりもイスラエルの民自身と神との関係の回復が必要で

あるというのです。<彼らはわたしの民となり、わたしが彼らの神となる>。そのような神のみ心に従っ

て生きる神の民に捕囚のイスラエルの民が回復することが、捕囚のイスラエルの民のエルサレム帰還とそ

こでの平和な生活の前提であり条件なのだというのです。そのように主なる神が捕囚のイスラエルの民を

導くというのです。


・そして更にこのように言われています。<わたしは彼らに一つの心、一つの思いを与えて常にわたしに

従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼ら

の子孫に恵みを与えてやまない。また私に従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにす

る。わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える。ま

ことに、主はこう言われる。かつて、この民に災いをくだしたが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆ

る恵みを与える>(39-42節)>と。ここには人間の幸いとは何かが明確に記されています。それは神か

ら与えられた<一つの心、一つの思い>をもって神に従って生きることだというのです。この言葉は人間

の多様性を認めないということではありません。これは、パウロのキリストの体という教会についての考

え方に通じているように思われます。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分で

す」(汽灰螢鵐12:27)と、パウロは言っています。からだにはいらない部分はなく、弱い所があれ

ば、その弱さを他が共に担い、それぞれの部分が互に配慮し合ってこそ、一つの体だからです。<一つの

部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです>

(汽灰螢鵐12:26)と、パウロは言うのです。<一つの心、一つの思い>をもって神に従って生きるこ

ととは、そういうことではないでしょうか。そのようにイスラエルの民が生きれば、子孫にまで幸いが与

えられるというのです。この<一つの心、一つの思い>とは一緒の一緒という全体主義ではなく、「バラ

バラの一緒」です。体の肢体は、口、耳、目、手、足等々、みな違っていて一つの体を構成しています。


エレミヤ書の今日のテキストは、最後にこのように述べています。<この国で、人々はまた畑を買うよ

うになる。それは今、カルデヤ人の手に渡って人も獣も住まない荒れ地になるとお前たちに言っているこ

の国においてである。人々は銀を支払い、証書を作成して、封印をし、証人を立てて、ベニヤミン族の所

領や、エルサレムの周辺、ユダの町々、シェフェラの町々、ネゲブの町々で畑を買うようになる。わたし

が彼らの繁栄を回復するからである、と主は言われる>(43,44節)と。この箇所は、エレミヤが従兄弟

のアナトトの畑を買う預言者の象徴行為と繋がっています。「いまエレミヤが畑を買えと命じられて実行

することは、人の目には不可解にうつるかもしれないが、しかし、力の及ばない事は何一つない(17,27

節)主が約束する、確かな救いの到来を象徴する行為としての意味を持つのであります」(新共同訳注解

455頁)。


・このようにエレミヤは、バビロン王によるエルサレムの破壊と捕囚という現実が起ころうとしている矢

先の、まだその現実は完全には起こっていない時に、アナトトの畑を買うという預言者の象徴行為をもっ

て、捕囚後のイスラエルの民の将来の神による救済の希望を語ったのです。


・今日のエレミヤ書の箇所で、主なる神がエレミヤに語ったことは、捕囚後のイスラエルの民にとって

は、夢や幻のようなことだったかも知れません。しかし、神によるこの将来の希望を信じなければ、捕囚

の民はバビロンにあって、神の民イスラエルとして生き抜くことは難しかったのではないでしょうか。ナ

チスの強制収容所のことを描いた『夜と霧』を書いた精神医家のフランクルが、強制収容所の中でガス室

に送り込まれて処刑される前に、自死するなどして死んでいく人は、どんなに小さなものであっても、将

来に希望のない人だったということを書いています。未完成な自分の論文を、何としても強制収容所の生

活を生き延びて、書くんだという強い思いを持っている研究者だとか、強制収容所の生活を何としても生

き延びて、家族との再開を必ず果たしたいという強い思いを持っている人が、幸いにもガス室に送り込ま

れないでいた場合、強制収容所という極限状況を生き延びることができたと証言しています。このフラン

クルの証言が正しいとすれば、さまざまな困難な状況にある人にとって、将来の希望をもっているかどう

かということは、その人にとって決定的なことだと言えるのではないでしょうか。事実生きていても仕方

ないと人生に絶望している人が、たまたま通りかかった人の命を奪うという悲しくつらい殺人事件が起こ

ることがあります。キルケゴールの言うように、絶望は「死の病」に違いありません。


・このエレミヤのアナトトの畑を買うという預言者としての象徴行為によって、バビロンに捕囚されるイ

スラエルの民は、何時になるかは分からないけれども、神による将来の救済、再びエルサレムに帰って、

ユダヤの町々で平和な生活に導かれるという希望を与えられたに違いありません。捕囚から半世紀以上後

の捕囚の民のエルサレム帰還には、捕囚された世代のイスラエル人は遭遇出来なかったと思われます。歴

史的には、彼ら彼女らの子孫の人々がバビロンからエルサレムに帰ることができたわけであります。けれ

ども、バビロンの地で屍となった人々も、神によって救済される回復の時をじっと待ち望んで、主なる神

であるヤハウエを信じて、黙々とバビロンの地における日常を生き抜いたに違いありません。


・現代世界では、私たちを取り巻く危機的な状況は、バビロン捕囚の民以上に深刻かもしれません。私た

ちが豊かな生活を享受するために経済優先で生きてきた結果、<何10万年以上も毒性が消えないという放

射性廃棄物=核のゴミを生み出してしまいました。それは遠い先の子孫たちの住む所まで奪っていること

にほかなりません>と、映画チャルカのチラシには記されていました。それでも映画チェルカは未来を紡

ぐ、自分の足で立って生きる人々のことも描いていました。


・私たちも神の国の実現を、祈りつつ待ち望んで生きる者として、この危機的な時代状況の中にあって、

未来を紡ぐその働きの一端を担って歩んでいきたいと願います。イエスと共に霊において今も生きて働き

給う神が、私たちにイエスによる神の救済の希望を見失わないで生きることを得させてくさいますよう

に!