なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(74)

   「偽りの安心」エレミヤ書29:24-32、2017年9月3日(日)船越教会礼拝説教

・今日もまた偽預言者に対するエレミヤの預言から、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。

・今司会者に読んでいただいた今日のエレミヤ書の箇所には、新共同訳聖書の表題にありますように、

シェマヤというバビロン捕囚民の中で活動していた預言者に対するエレミヤの審判預言が語られているの

であります。

・エレミヤは手紙でバビロン捕囚民に対して、このように預言しました。《イスラエルの神、万軍の主は

こう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて

住み、園に果樹を植えその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁

がせ、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたち

を捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あな

たたちにも平安があるのだから》(29:4-7)と。

・捕囚民の中で活動していた預言者の一人であるシェマヤは、28章で記されていました、エルサレムで活

動している預言者ハナンヤと同じように、エレミヤとは違って大変楽観的な預言をしていたと思われま

す。ちなみにハナンヤの預言はこのようなものでした。《イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わ

たしはバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドレツアルがこの場所

エルサレム神殿)から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。また、バビロン

へ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民すべて、わたしは

この場所に連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしはバビロンの王の軛を打ち砕くからである》(2

8:2-4) と。

・ですから、シェマヤは、バビロン捕囚民に手紙をよこして、シェマヤの預言とは真逆の預言を語るエレ

ミヤの活動を見過ごすことが出来ませんでした。シェマヤはわざわざエルサレムに手紙を出して、エルサ

レム神殿の監督をしている祭司ツェファンヤにエレミヤを取り締まらせようとしたのです。そのシェマヤ

の手紙が26節から28節に記されています。《主は祭司ヨヤダに代えて、あなたを祭司とし、主の神殿の監

督とし、狂い、預言する者すべてに手枷、足枷をはめ、取り締まらせた。それなのに、あなたたちに預言

しているアナトトの人エレミヤをなぜ取り締まらないのか。エレミヤは、バビロンにいる我々のところに

手紙を送って、捕囚は長引くので、家を建てて住めとか、園に果樹を植え、その実を食べよ、などと言っ

てきた》と。

エルサレム神殿の監督をしている祭司ツェファンヤは、預言者エレミヤにシェマヤの手紙を読んで聞か

せました(29節)。その時主の言葉がエレミヤの臨んだというのです。シェマヤは神ヤハウエによって遣

わされた預言者ではなく、偽ってバビロン捕囚民を安心させようとしているのだ。だから、シェマヤと彼

の子孫は罰せられ、神の審判が下され、一人もいなくなる(31-32節)と。

・さて、バビロン捕囚民は、バビロンで70年を過ごさなければならないというエレミヤの厳しい預言と

シェマヤ及びハナンヤ、アハブ、ゼデキヤの2年でエルサレムに帰還できるという楽観的な預言のどちら

に耳を傾けたのでしょうか。最初バビロンの捕囚民は、エレミヤの厳しい預言ではなく、シェマヤなどの

楽観的な預言に引かれたようです。エレミヤの預言とシェマヤらの預言と、どちらが真実なのかは、最初

バビロンの捕囚民には判断できなかったのでしょう。早くエルサレムに帰りたいという捕囚民の中には強

い願望があったに違いありませんから、捕囚の民にはエレミヤの預言よりもシェマヤらの預言の方がよく

聞こえたのでしょう。しかし、第一回バビロン捕囚からちょうど10年後の紀元前587年の第二回バビロン

の捕囚によって、シェマヤらの楽観的な預言は偽りであったことが明らかになります。また同時にその

時、バビロンの捕囚民も、早期エルサレム帰還という彼ら・彼女らの願いが幻であったことに気づかされ

ます。

・このことは、バビロンの捕囚の民は、第2回バビロン捕囚によってエルサレムが完全に破壊されるま

で、シェファヤのような偽預言者の言葉を偽りの言葉として見抜けなかったということ共に、エレミヤの

真実の預言もまた見抜くことが出来なかったということを意味します。

・宗教家を始め、思想家、政治家など、さまざまな人々が言葉をもって、私たちの未来を語ります。その

真偽を見分けることが、私たちにもなかなか難しいのではないでしょうか。国を始め様々な人間の集団

は、その集団に属する構成員の同調があって、一つの方向に歩みが進んでいくものです。

民主党政権が崩壊して、第2次安倍政権が誕生して、安倍首相はアベノミックスを掲げ、経済の再生を

「国民」に訴えました。そのこともあって、安倍政権の支持率は高くなりました。第2次安倍政権が誕生

したときには、私たちの日本社会は格差が広がってきており、一時の中流社会が崩壊し、経済的に苦しく

なっている人が多くなっていましたので、アベノミックスに期待した人が多かったからです。しかし、ご

存知のように、このアベノミックスは大企業に一種のバブルをもたらしましたが、「国民」の生活が楽に

なったわけではありません。却ってひずみは広がっている状態です。今は、アベノミックスに騙されたと

思っている人も多いのではないでしょうか。

・そういう様々な人々が未来を語る言葉の真偽を判断する基準は何なのでしょうか。私たちはその基準を

明確に持っているでしょうか。もしその基準が曖昧であれば、他者の未来を語る言葉がたとえ偽りであっ

ても、その偽りの輝きに騙されてしまうのは、ある意味で当然ではないでしょうか。

・エレミヤは預言者として神の召命に忠実に生きようとしました。神が自分を召してくださり、預言者

して立ててくださったことを何よりも大切にし、神のみ心がイスラエルの民を通してこの世界に実現して

いくことを願って生きたのです。ですから、エレミヤは、自分以外の様々な人々が未来を語る言葉の真偽

を判断する基準を明確にもっておりました。エレミヤは神との関係の中で、何が正しいか、何が間違って

いるか判断することができたからです。

・バビロン捕囚によって同胞の一部がバビロンへ連れて行かれ時にも、この歴史的な事件を、エレミヤは

神との対話を通して、同胞の多くの人々がそれをただ被害者的に受け取ったようには受け取りませんでし

た。このバビロン捕囚という出来事の中にも、神のみ心、この歴史的な危機的状況において、神はイスラ

エルの民をどのように導き給うのか、そこにある神の意志を見いだしたのではないかと思います。それ

が、捕囚の地でイスラエルの民は根を張って生き抜き、かの地の人々の為にも平安を祈るということだっ

たのです。エレミヤには、神は異郷の地バビロンにおいても働いておられるという信仰がありました。エ

レミヤのこの信仰は、私たちにとっては、神は教会だけでなくこの社会の中にも働いているという信仰、

特に社会的に疎外されている人々と共におられるという信仰に通じています。

・それは、イスラエルの民がモーセ以来、エジプトの地で奴隷であった自分たちを解放してくださった神

ヤハウエとの契約に基づいて、この世の権力や富ではなく、何よりも神を愛し、その神の下に同じ価値を

持つ一人一人が互いに隣人の命と生活を奪い合うのではなく、互に助け合い、支え合い、分かち合って、

愛し合い、命を与えて下さり、私たちが生きることを祝福して下さる神の愛に応えて生きること、これが

神の定めとしてのトーラー(律法)で、このトーラーがエレミヤやイスラエルの民にとってのこの世を生

きる基準だったのではないでしょうか。

詩篇にこのような言葉があります。≪あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯

(ともしび)≫(119:105)。また、ヨハネ福音書には、イエスの言葉としてこのように記されていま

す。≪わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことは

できない≫(14:6)。

・私たちキリスト者にとっては、イエスが生きる基準なのです。エレミヤの基準とした、神との契約に基

づいて、神を愛し、互に愛し合う、その人間として生きる基準を、一人の人間ナザレのイエスとして、イ

エスは十字架の死に至るまで生き抜かれ、神によって復活し、今も霊において私たちと共に生きていてく

ださいます。その主イエスを、私たちは、生きる時も、死ぬときも、わたしたちの唯一の慰めとして信じ

て生きているのではないでしょうか。

・昨日天皇の「生前退位、何が問題か?」という集会が、紅葉坂教会であり、115名の参加があり、この

問題の関心の大きさを思わされました。現在の日本の憲法象徴天皇制をとっていますが、実態としては

この日本には古代以来その社会に天皇制の構造が組み込まれていて、それは今も、戦前とは形は変えてい

ますが、綿々として生きているということが問題であることが、改めてこの集会で話し合われました。講

師の天野恵一さんは、生前退位の一つの理由として、2020年の東京で開催されるオリンピックの時に、現

在の天皇が亡くなって、昭和天皇の死の時のように、大嘗祭が行われると、お祭り騒ぎを自粛しなければ

ならなくなるので、もし東京オリンピックの時期にそれが重なると大変なので、今生前退位をしておけ

ば、そのようなことが防げるということもあると、おっしゃっていました。政府は何かあれば、この天皇

制を利用して、「国民」統合を目論んでくるでしょうし、特に現在の安倍政権のように、貧しい人々を切

り捨ててまで、戦争のできる国づくりをめざしている政府は、その危険性が大きいと思います。

・そのような神のみ心に反する政治経済の動きに対して、私たちが自らの生きる基準であるその信仰を

もって、一人一人の命と生活を守っていかれるか、そのような課題を私たちは与えられているのではない

でしょうか。私たちは足元を見つめ、今自分の立っている信仰による命を与えられて、2600年前にユダの

国で一人の預言者として生きたエレミヤに倣って、この時代と社会の中で主イエスの証言者として生きて

いきたいと思います。